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来客があります、と唐突に宣告された。
女神アテナへの、儀礼となっている朝一番の拝謁の時のことだ。
常ならば神殿の最奥、壁のように幾重にも張り巡らされた布のむこう側に在(ましま)す女神へと通例通りの文言での挨拶の後、少しばかりの会話をし、それから一日の予定などの確認になるのだが、今日ばかりはそれらはすべて省略され、そしてあっという間に決定されてしまった。
しかも言葉の後、女神は布の間からするりとその玉体を現すと、跪くシオンに向けて念を押した。
「大事なお客様です。時間はわかりませんが、今日中には必ずいらっしゃると思います」
今朝の女神は鷹揚な態度を保ってはいたが、その実、少なからぬ緊張感を漂わせていた。シオンは首を傾げる。このような様子の女神など、ついぞ見たことがなかった。
「いらっしゃったら粗相のないように、すぐに私の元までお連れしてください」
少々硬い口調で女神は告げる。有無をいわせぬ命令に口を挟む余地はない。
シオンは従順に頭を下げる。だが詳細の確認は彼の仕事だ。
「恐れながら女神。客人をお迎えするのはやぶさかではありませんが、どのような方なのかお知らせ願えませんと対応のしようがありません。女神が大事とおっしゃるからには、神かその係累の方でありましょうか」
聖戦の予兆もない平和な――少なくとも他の神々との軋轢がないという意味では――時に、女神のその様子はどうにも不可解だった。まるで戦(おのの)いているようにも、逆に浮かれているようにも見える。
だから短く返された答えに驚いた。
「いいえ。人ですよ。私とは違います。彼等は、人間です」
シオンは目を瞠る。不覚にも一瞬、口ごもってしまった。
「……ただの人間を、この聖域に招くと?」
「招くのではありません。約束があるのです。彼等が来るのは、決まっていたこと」
「決まっていた……?」
そんな話は聞いていない。今朝になって急に言い出した以上、まさかシオンが失念しているわけでもないだろう。
そもそも昨夜はこのようなことを言い出す気配は微塵もなかった。
昨夜――カノンと が実に二週間ぶりに聖域に帰還し、その無事を喜んだ時点では、女神は全く普段と変わりはなかったのだ。
それなのに一夜明けた今朝の、この頑迷なまでの居丈高な態度はなんだろう。
「これ以上の質問は許しません、シオン。聖域の門番から十二宮の黄金聖闘士達に至るまで、彼等に対する一切の手出しを禁じます。黄金聖闘士達はこのアテナ神殿に参内させておくのです。遮ることなくこの神殿まで通しなさい。一切の詮索は不要です。まっすぐに私の元までお連れしなさい」
これほど滅茶苦茶な命令を、シオンは聞いたことがなかった。
「まさか十二宮を素通りさせると仰せか……!」
抗議の色を隠しもしないシオンの声にも、女神は全く頓着しない。
「彼等はおそらく闘技場あたりに降り立つでしょう。そこに案内役を待機させておくのです。いいですね、シオン」
言い捨てて、女神は再び分厚い布の幕の向こうへ姿を消した。
神と人。そういった隔たりとはまた違う断絶が、今この場にはある。そのことに衝撃を受け、シオンはしばし呆然とたたずむしかなかった。
***
控えめに響いたノックの音で目が覚めた。
気怠く身を起こす。時刻を確認すれば、早過ぎもしないが遅くもないといった時間だ。
隣で眠る はカノンが身動きをしても目覚める気配はない。そのままそっとベッドを抜け出し、素早く身仕舞いを整えた。
静かに扉を開ける。いらえがないにも関わらずじっとその場で待っていた双子の兄の姿に、カノンは少しばかり後ろめたさを覚えた。
と共に聖域に戻ってきたのは昨夜だ。教皇と女神に報告を済ませてすぐに、以前から に与えられていた居室へカノンも共に引き上げてしまい、結局朝までここで過ごしてしまった。
出てきたカノンを目にしてもサガは眉一つ動かすことはなかった。その反応にかえって気が咎めたが、そんな素振りなどおくびにも出さず、カノンは部屋の外へと抜け出した。後ろ手で扉を閉める。
「 に用か? まだ本調子ではないので寝かせておきたいのだが」
必要以上に言い訳くさかっただろうか。サガの眉がはっきりとひそめられ、カノンは内心うろたえる。だがすぐに気を取り直した。悪いことなどしていない――はずだ。少なくとも、やましさなどない。こと に関してはサガに遠慮するようなことなど、何一つないのだから。
「教皇からお聞きした限りでは、命に関わる怪我をした割には驚くほど回復していたとのことだったが、やはりあまり良くはないのか?」
気遣うように問われ、カノンは自分の先走りぶりを恥じた。
「さすがに完治というわけにはいかないが、傷自体はかなり良くなった。だが発熱を繰り返していてな。そのせいで少々体力が落ちているようだ」
素直に容態を教えてやれば、サガはほっと眉間のしわを納めた。
「そうか。それは良かった」
「ああ」
「では、 はしばらく一人にしても大丈夫だな?」
「大丈夫だと思うが、どうしてだ?」
「黄金聖闘士全員、謁見の間に集結するようにとのアテナ直々の勅(みことのり)だ。今日はおまえが聖衣を纏って行ってこい」
あまりにもいきなりな上に、頭ごなしの物言いだった。だがカノンに反駁する隙など与えず、サガは踵を返す。
「なるべく早く身支度をしろ。それから」
一度だけ立ち止まり、サガは振り返る。
「忠告だ。体力が落ちているというのなら、無理はさせるべきではないな。それにここは聖域の中でも特に神聖な神殿に通じる教皇宮なのだぞ。少しは慎め」
「――――――!?」
結局カノンはなぜ黄金聖闘士が集められるのか、なぜ自分が行かなくてはならないのか、理由を一つも聞き出すことができなかった。
***
静寂に包まれているべき謁見の間がざわついている。
無理もない。
彼等をここへ呼び集めた女神はいまだ姿を見せず、たしなめるべき教皇が筆頭となってこの状況を訝しんでいる最中とあっては、多少の私語を咎める者などいるはずもなかった。
訪れる者があるという。
敵でなくとも女神の元へ赴くというのなら、その者が最奥の神殿へ至るまで、それぞれ守護者が番をする十二宮を通ってくるべきなのだ。
それが遠く神話の時代から脈々と受け継がれてきた聖域のしきたりであり、十二宮の存在理由でもある。
しかし今回に限り、女神自身がこれを反故にすると言う。
神のやることだ。意味はあるのだろう。存在意義を否定されたとまでは誰も思わなかったが、不審に思うのは当然だった。
「ホント、わけわかんねぇ。しかも、なんでおまえがそんな格好してんだよ」
並びはそれぞれの守護星座順であって、けっして他意のある序列ではない。そうなると当然、蟹座のデスマスクの隣は双子座となる。こういう場では率先して一番乗りしてくる双子座がこの日に限って一番最後の入場者であったことは、この際問題ではない。
問題は聖衣を纏っている人物である。
「おまえ、昨日戻ってきたばかりだろ。 はどうしたんだ。それにサガはどこに行った?」
仏頂面で隣に並んだカノンに、デスマスクは無遠慮に問いかけた。
カノンの姿を目にした途端に周囲のざわめきは一段と大きくなったものの、誰もが憚って口にしなかった言葉である。
現在、双子座はサガとカノンの両者が共に名乗ることが許されている。聖衣そのものにもそう認められている以上、聖衣を纏っているのがサガでもカノンでもなんの問題もない。しかし通例として、やはりこういう場ではサガが双子座として臨むことが普通だった。
不躾な質問に顔をしかめ、カノンはぶっきらぼうに答える。
「知るか。俺はサガに言われて来ただけだ」
どうやらこの場にあるのを一番不思議に思っているのはカノン本人らしい。どこか辟易した口調が、それを雄弁に物語っていた。
「さすがに二週間も空けていたんだ。わけがわからん。聖域の近況もほとんど聞けないままこんなところに放り込まれて、一体俺にどうしろと言うんだ」
そして逆に聞き返してきた。
「いったい何があったんだ? 黄金聖闘士が集合させられるなど、余程のことがなければありえんはずだ。昨夜戻ってきたときには、何事もなさそうだったのだが」
真顔で問われても、デスマスクにだって答えられるはずもない。
「知らねぇよ。俺だって、ついさっき招集をかけられただけだ。客が来るって話らしいが」
「客?」
そんなことすら聞かされていなかったらしい。カノンはあからさまに渋面を作った。
「では、なぜ十二宮から黄金聖闘士を引き上げる? 客が来るなら出迎えと検分を兼ねて、配備させておかねば意味がないだろう」
「だからみんなヘンだって言い合ってんだろ。今の状況くらいなら、見りゃわかるだろうが」
「…………」
黙ってカノンは言われたとおりに居並ぶ黄金聖闘士達を見回した。肩をすくめる。
「ま、嫌でもそのうちわかるか」
「だな」
カノンと同じく肩をすくめて、デスマスクは同意した。そして天井を仰ぎ、いまだ空の玉座を忌々しげに見遣る。
「それにしたって、いつまで待たせやがるんだ。まったく」
いつにない騒々しさが外部の音を遮断していた。窓もなく閉ざされたこの謁見の間では、外の様子をうかがい知る術もなかった。