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星が輝いていた。
こんなにも沢山の星が、これほど強く鮮やかに瞬くのを、彼は見たことがなかった。
ふわふわと、彼は漂っていた。どこまでも静かで、穏やかな空間を。ふわふわと。
果てがないとはこういうことかと、実感として理解した。
頭上の月はあまりにも大きく、足元を見れば、本来立っているべき大地は遥かに遠い。青く霞んで、夜空に埋没してしまっていた。
そして彼もまた、闇に包み込まれている。
上もなく、下もない。不安定な状態だと言うのに、不思議と怖くはなかった。
なにものにも遮られない光をたたえた星。まばゆいばかりの月。近くで廻る巨大ななにか。青くきらめく、地球。
たゆたう自分。身体が軽い。彼を縛り付けているものはなにもない。意識すらも拡がっていく。絶対的な解放。
――こんな感覚は知らない。
ぼんやりと疑問が浮かんだ。
――こんな場所も、知らない。
(ここは、どこ?)
独り言を漏らしてしまったかと一瞬思い、聴覚がそれを否定する。
女の声だった。高く、細い。
視線をめぐらせれば、あの少女がいた。彼と同じように漂いながら、途方に暮れているようだった。
闇の中で白い肌が浮き上る。青い瞳には先ほどの鋭さはない。濃い色だった長い髪が、今はなぜか淡い色をしていた。風もないのにさらさらと流れる。夕方の陽の光を集めたかのように輝いていた。それなのに纏った服は夜の色で、まるでこの空間そのものに包まれているようだった。
足元の地球を眺め、月を見上げる。力なく首を振り、彼を見つめる。
(教えてください――ここはどこですか?)
それは彼も聞きたいことだったので、答えることができなかった。困惑して黙っていると、少女は彼から目を逸らす。また地球に目を向けた。
(あんなところは知らない。ここは、どこなの?)
ここでやっと、少女の問いが自分の疑問とは違うようだと彼は気づいた。
そうだ。ここはどこだ?
急速に意識が明瞭になっていく。
自分は聖域にいた筈だ。今日は訓練生と雑兵の指導を依頼されていたのだった。そして途中でシャカに会って――そんなことはどうでもいい。
目の前の少女。左上腕部を撃たれた。出血多量で倒れてしまったので応急処置を施した。ついでに聞きたいことがあった。意識が戻っていなかったし、聞いて答えるようには思えなかったので、直接探ろうと、額に手を当てたところまでは覚えている。
引き出そうとして、引きずり込まれたのか。それとも、飛び込んでしまったのだろうか。――彼女の精神世界に。
(あなたの夢ではないの?)
心底不思議そうな声が、彼を思考の海から引き上げた。
(……なに?)
顔を上げる。目が会って、彼女の意図を理解した。
否。理解というのは語弊がある。流れ込んで来るといったほうが感覚的には近い。そして自分の中から溢れ出ていくものもある。それは彼女に流れて行っていた。
――意識。知識。記憶の断片。そういったものが双方向でやり取りされている。
確かにこれでは、彼女の精神世界とは言えない。勿論、自分だけの夢でもない。
重なり合い、交感し、共有している。そのような場が形成されていた。泉のような、湖のような。奥底から湧き出し、流れがある。その流れの中に自分はいて、彼女もいる。湧出源は彼女であり、自分でもある。
分かってしまえば、その奔流を止めることはもうできなかった。
丁度いい。彼は素直に流れに身を委ねることにする。そもそも聞きたいことがあったのだ。これでわかるだろう。
彼女もなにかを知りたがっている。願わくば、自分がその答えを持っていればいい。
――青い星は、いつでも戦争の引き金だった。
――豊饒の大地をめぐって、神も人も争いを起こした。
――巣立った人々と、残った人々。戻ろうとする人々、止めようとする人々。
――神と神。人と人。神と、人。
――火種は尽きることはなかった。時代が変わり、場所が変わっても、人々が戦う理由はたいして変わらない。
――本当の意味での終焉など、あったためしがなかった。滅んでは蘇り、また滅ぶ。終わらせる者は違っても、蘇る者は変わらない。
――どんな平和も、結局は一時凌ぎでしかないのだ。人から闘争本能がなくなることなどありえない以上は。そして母なる星は、人間が本能を捨て去ることを許さない。
――彼らの警告を、彼らの存在さえも、人は忘れていってしまう。だから繰り返す。堂々巡りでしかないのだ。神と人の時間はあまりにも違いすぎる。
彼は嘆息した。この嘆きはまた、彼女のものでもある。
ふたり分の膨大な知識の泉。覗き込むことは飛び込むことと同意だ。
深く深く潜る。
世界は怨嗟に満ち、水に覆われ、永劫の闇に囚われるはずだった。しかしそれは阻止された。――今回は。
海底の光。冥府の闇。死の静寂。
人として知りうる範疇を超えていると客観的に思われるこれは自分の記憶だ。それでもまだ浅いところにあった。
更に深みを目指す。
潜れば潜るほど、重みは増す。圧倒的な情報量に押しつぶされそうになった。
深さはすなわち時間だ。
気の遠くなるような時の流れを、記憶と知識が構成している。それを意識が纏め、彩っていた。
まったく別個のふたつの流れ。決して相容れない筈のそれが、今は絡み合う。接点を探すように。
ひとつは神話の時代からを語る知識。
神の存在。それを完全に肯定するところから始まる。
絶対者である神と、その名の下に集いながら極限までそれに近づこうとする人。
何度も繰り返された。何度も、何度も。
人間が紡ぐ歴史の中にはその片鱗すらも見つけられない闘いの記録。
遺跡のように風化し、色褪せた戦いの歴史。
それでもそこには輝きが在った。
遥かな高みを目指し続ける、人の瞳。失わない希望。流される涙。燃え続ける小宇宙――命の煌き。脈々と受け継がれる、なにか。
すべてがまばゆい光に満ちていてもなお、時間という名の砂塵の中に霞んでしまっていた。
対するもうひとつ。
意味と映像で彩られたそれは、あまりにも鮮明だった。神話の時代から現代までと同じくらい長い時間を経ているはずなのに。
記憶が噴きあがる。万華鏡のようにくるくると、めまぐるしく、交錯する。
上へ上へと押し戻されながら、激しく移り変わるテレビ画面のような映像が否応なしに頭に書き込まれていく。
――地球から溢れる人々。求めた新天地。
スペースコロニー。
対立。支配。
スペースノイド。棄てて、焦がれて。
アースノイド。魂まで縫い止められながら、見上げ続ける。
抵抗。戦争。和平。停滞――革命。
どこまでだって行けるのだと、誰もが信じてしまった。どこまででも、行っていいのだと。
天駆ける艦(ふね)。真空の波間に浮かぶ大地(コロニー)。自らを根本から変革すらする。
神に頼ることなく、人は手に入れることができるようになってしまったのだ。恩恵も――破滅も。
気づいていないのか。それとも気づかぬふりをしているのか。人はただ繰り返す。
地上でも、宇宙でも。
闇に浮かぶ幾多もの炎。まるで花火のように。散っていく。戦艦。機械人形(モビルスーツ)。ひとつひとつが命の終焉そのもの。
蒼いヴェールを突き破り、宇宙(そら)より大地に穿たれる楔。地上にも楔(コロニー)にも、命が詰まっていた。一瞬で消し飛ぶ。
繰り返す。繰り返される。それぞれの未来を求めるが故の、自滅への道程。
阻止されることもあったけれども、終わることはなかった。
結果として残された。傷つききった、母なる星。
そして自らもたらすのだ。再生のためのカタストロフを。
地球を包む、虹色のひかり。月光の色をした、蝶の羽。その燐粉のような。
徹底的な破壊。それは人類が選択せざるを得なかった、最終手段。
――それから二千年。
久々に穏やかなときを過ごした人々の中には、再び目覚めようとする者もいた。
だが過去を黒歴史として封じた二千年は、決して短くはなかった。
黒歴史を紐解き、教訓とできるだけの余裕を育むことができていたのだから。
歴史は――流された血や涙は、決して無駄にはならなかったのだ。
それでも時折、綻ぶことがある。現在(いま)がそうだ。それを繕う為に、彼女は――。
気がつけば、浮かんでいた。もう奔流はなくなっていた。
星の波間を漂う。
ふたつあった流れは、今はひとつだった。これからはまたそれぞれ分かれてふたつになるのだろう。でも今はひとつで、宇宙を形作っていた。彼女にとって、一番馴染み深い空間を。
目が合った。互いの青い瞳を覗き込んだ。それほど近くにいる。今はきっと同じ色をしていると、それぞれが思った。
先に意識を逸らしたのは彼だ。この穏やかな場所に、微かな波紋が届いたのを感じたのだ。
(戻らないといけないんでしょう?)
彼女が言う。この場、この時がかりそめのものでしかないと、ちゃんとわかっていた。
(どうも、ありがとう)
答えを。
言葉にしなくても意味が伝わってきた。まだ意識が触れ合っている。それも徐々に離れていっていた。素直に、残念だと思った。この懐かしい感触を、また失ってしまうのか。
彼は改めて彼女を見つめた。
瞳に強さが戻っていた。決して剣呑ではない鋭さが。
その姿が次第にぼんやりしていく。覚醒が近い。干渉が強くなっている。呼びかけられていた。
まだだ。
咄嗟に遠ざかっていく手首を掴んだ。
まだ、聞きたいことがある。言うべきことも。
背を向けようとしていたところを阻まれて、不思議そうに彼女は見返してきた。
(俺はカノンという)
最後の問いを投げかける。
(――お前は?)
彼女は、正面からカノンと向き合った。幻の宇宙が消えていく。眩い光に浸食される。脳まで灼かれそうな、ひかり。
(私は――)
真っ白な光に包まれる。掴んだ手の感触も薄れていく。互いの輪郭が急速に朧になって、それでもカノンには確かに聞こえた。
(――私の名は、 ・ユイ――)