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「青いバラを、見たことがあるかい?」
「私はある。あれは」
「もう二度と見ることのできない、命の色だ」
(だがそれは、いつも――いつでも目にしているはずの、この地球(ほし)の色だ)
BLUE ROSE
花びらが一枚、落ちていた。
冷たい光を投げかける月明かりの下で、世界がモノクロに変じている。ひび割れた石畳は白く色が飛んでしまったように見えていた。
ははっと足を止める。
そこに添えられた唯一の色彩が――まるで滴り落ちた血のようだったのだ。
思わず凝視してしまった の目の前で、その真紅は乾いた風にさらわれた。一瞬だった。
真っ黒な空に巻き上げられ、あっという間に視界から消える。
半ば呆然としたまま足元に目を戻せば、そこは既にただ白いばかり。
悪い夢でも見たかのようだ。
詰めてしまっていた息を吐いた。視線を更に下に向ける。
そして気づいた。赤い染みが所々に点在している。
時折ひらひらと舞い踊るその様は、燃え盛る戦場を不安定に照らす火の粉を想起させた。
――考えるな。
はふるふるとかぶりを振った。もしくは、ぶるりを身体を震わせたのかもしれない。自分でもどちらなのかわからなかった。
――馬鹿なことを考えてはいけない。
戦闘の感覚がまだ残っているのだ。今夜遂行してきた任務の余韻が抜けきっていないのに違いない。
行動を共にしていた協力者は既に自宮へと戻った。 も与えられている自室で休息を取るべきなのだが、なかなか落ち着けなかった。だから気を紛らわせようとこうして外へ出てきたのだが、この分ではどうやらその効果はまだ現れていないようである。
原因ならわかるような気がした。静か過ぎるのがいけない。
日没から夜半を過ぎたつい先程まで、戦場の只中にいたというのに。打って変わった、静かな静かな夜更け。この落差はどうだ。
煩いほどに耳元で鳴り響いていた警告音も爆音も、聞こえないことが不思議で仕方がないのだ。
今はモビルスーツに搭乗しているわけではないからだと自分に言い聞かせても、周囲を見渡せば違和感は募るばかり。
雲ひとつない、黒い空。白い月。整然と立ち並ぶ、古めかしい遺跡のような建造物。柱の間を抜ける、地上の風と月の光。
夜半にしては明るいけれども、炎の生み出す凄惨な明るさとは全く違う。
勿論、硝煙のにおいなどしない――血のにおいもない。
肌を焦がす熱気もない。
五感が捕らえている、そのなにもかもが違う。これが現実だという実感が、どうしても沸かない。
そんな に、これは確かに現実なのだと、鮮烈な赤い花びらが訴えかける。
ならば。
夢の――悪い夢のような気がするのも当然なのかもしれない。
この世のすべては、醒めない夢の中の出来事のようなものなのだから。
「こんばんは、 」
静かな月夜によく似合う、静かな声だった。
何の前触れもなく、何の気配すら感じさせずに背後から声を掛けられたというのに大して驚かなかったのはその所為だ。
振り返った の目に、まばゆいばかりの月光が飛び込んできた。反射的に目を眇める。
「こんな時間にこんなところで、どうしたんだい?」
目が慣れると、そう言ってはんなりと笑う彼が黄金の聖衣を纏っているのがわかった。風に揺れる長い髪までもが月の金色(ムーンゴールド)で、まるで彼自身が光り輝いているようだった。
その輝きの中、一点だけ赤い染みがある。――未だに宙を舞う、赤い花びらがついているのかと思った。
「随分と疲れた顔をしているね。まだ休まないのかい?」
そう言う彼もまた、疲れているように には見えた。優しく笑みを浮かべた口許はどこか苦笑しているふうであったし、 に向けた視線もわずかながら翳っている。
それで気づいた。その赤は、花などではない。
「あなたこそ、アフロディーテ。任務から戻られたばかりのようですけど、どうしたんですか? ……こんな時間に、こんなところで」
そう。彼――アフロディーテにこそ、この問いは投げかけられるべきものだった。
ここは教皇宮の奥に位置する、アテナ神像の広場だ。既に教皇宮は寝静まってしまっているのを、そこに部屋を与えられている は知っている。そしていくら任務から戻ったとはいえ、こんな時間に報告義務があるわけでもないだろう。こういった場合、余程の緊急事態でない限りは翌朝の仕事になるらしい。
ここ数ヶ月見ていて、聖域(ここ)の業務の流れはなんとなく把握してしまった である。
訝しげな の視線に、アフロディーテの笑みが本格的な苦笑に変わった。問いかける視線から逃れるように、空を見上げる。
――正確には、アテナ神像を仰ぎ見た。
「任務から戻ったと、せめてアテナにご報告申し上げようと思ってね」
「アテナ……この像に?」
アフロディーテに倣って、 は背後に月を従えた巨大な神像を振り仰ぐ。
穏やかな表情を湛えて聖域中を優しく見つめるその像は、生憎と今は月に対して逆光になっていて闇が黒く凝ったようにしか見えない。
見上げる先で、風に巻き上げられた赤い花びらが月明かりを受けて一瞬白い艶を放ち、影にまぎれて黒く染まった。
「あの花……」
の呟きに、アフロディーテが身じろぎをした。動きにつれて、聖衣がしゃらりと清涼な音色を立てる。
「あなたと一緒に、ここまで飛んで来たの……?」
聖闘士は長身の者が多い。アフロディーテも間違いなくそのひとりで、 はすぐ傍にまで来た彼の顔を見るためには随分上を見上げなければいけなかった。
そんな を見下ろすアフロディーテは当然、 とは逆に顔を俯かせている。その表情は輝く金髪に半ば隠されて、笑っているようにも――泣いているようにも見えた。
「そうかもしれないね」
しかし声は相変わらず静かなだけで、一切の感情をうかがわせない。
「纏わりついて、離れないんだ」
かしゃりと澄んだ音と共に、アフロディーテが右手を上げる。素早く、それでも優雅に宙に突き出されたその手は次の瞬間、花びらを捕らえていた。
――赤いあかい、花びらを。
つかまえたそれを掲げ見るアフロディーテの顔が再び月光の元に晒される。その口許に浮かんでいたのは、穏やかな微笑みだった。それはそれは寂しげな。
「この身に染み付いた、血の痕のようにね」
手を開いた。自由になった花びらはまるで吸い寄せられるかのように、アテナ神像の元へと舞い上がっていく。
「アテナはなにもかもをご覧になっていらっしゃる。私がどんなことをしてきたのか、どれほど血にまみれているのか。それでも、赦してくださる。そして――だからまた、お命じになる」
「不満があるのですか?」
問う に、アフロディーテはまさかと笑ってかぶりを振った。
「とんでもない。本望だよ。私にはこれしかできない。そんな私でもお見捨てになることなく重用してくださる女神を、私は心から崇拝しているんだ。だから、来る」
そしてまた像を見上げる。
「また、赦していただくためにね」
眠れないのなら一緒にお茶でもどうかなとの誘いの言葉を、 はありがたく受け入れた。
今ここで部屋に戻ってもどうせ休めないのは目に見えていたし、申し出てくれたアフロディーテもまた、休む気にはなれないでいるようだった。それだったらいっそ開き直って今晩は徹夜してしまった方が建設的だ。翌日の夜にはさぞかしぐっすり眠れることだろう。
共に夜明けまで時間を潰すためにアフロディーテが提供したのは、彼の守護する双魚宮。その居住区にぽっかりとひらけた中庭(パティオ)だった。
中東風の装飾と、咲き乱れる花々。光源は月明かりだけだというのに、その色鮮やかさは全く損なわれていない。花の種類も意外なことに様々で、バラだけではなくユリや水仙、ジャスミン、その他にも今が時期ではないと思われる花まで多々咲き誇っている。
宮の古代ギリシャ風の外観とは趣を異にする中東様式の中庭。どこまでも幻想的だった。花々の芳香を孕んだ夜風が の髪を揺らしながら、かさかさしていた感情をしっとりと落ち着かせていく。
しばし瞳を閉じた。胸いっぱいに花の香気を吸い込めば、戦場のにおいを忘れられるような気がする。
瞳を開く。
白い月光の下、競うように咲き乱れる花の中で一番目を引くのは、やはり赤いバラだった。
それでももう、血の色には見えない――炎の色にも、見えない。
手近の一輪にそっと触れた。花びらの縁をなぞるように指を滑らせる。顔を寄せて香りを楽しんだ。
「バラがお気に召したようだね」
聖衣から私服に改めたアフロディーテが、盆を片手に現れた。パティオを見渡すのにちょうどいい場所に設置されているテーブルに盆を置き、カップなどを用意しながらくすりと笑う。
「色はやっぱり、赤が好きかな?」
「……やっぱり?」
聞きとがめた を、椅子を引いて用意の整ったテーブルへと誘ったアフロディーテには、何の悪気もなかったようだ。さらりと言ってのける。
「大抵の女性は、先ず赤いバラに目を奪われる」
花を解放して、 は招かれるままに歩み寄る。ありがとうと声を掛け、椅子に腰を落ち着けた。
「赤は、目を引きますから」
思わずぽつりと零した言葉は、もしかしたら言い訳じみて聞こえたかもしれない。しかしアフロディーテは笑わなかった。頷く。
「そうだね」
それだけ言って、 の前に湯気の立つコーヒーを注いだカップを差し出した。自分の分も用意して、彼もまた席に着く。
香りでわかってはいたが、目の前の男はどちらかというと紅茶を好みそうな雰囲気だったので、供されたコーヒーは意外だった。しかもドリップではなく、濃く煮出されたギリシャコーヒーである。成る程、これなら夜明けまでばっちり目も冴えそうだ。
二人とも、しばらく無言でコーヒーに口をつけながら月夜の庭を眺める。
やがて思い出したように、アフロディーテが口を開いた。
「 。君は青いバラを見たことがあるかい?」
唐突な問いだ。しかし は動じることなくいいえと首を振った。
「他の花の遺伝子を組み込んで青くしたバラなら見たことがないことはないですけど――あなたが言っているのは、そういうもののことではないんでしょう?」
「そう……君の世界ほど科学が進んでいるところでも、無理なんだね」
の答えがいたく気に入ったのか、アフロディーテの言葉にはそれほど残念そうな響きはない。
そのまましばらく、黙ってまた月光の降り注ぐ庭を眺めた。
ややあって、再び口を開く。
「――昔話に、付き合ってくれるかい?」
またしても唐突だった。
しかし庭園から に移した彼の視線があまりにも真摯で、 は正面からそれを受け止めざるを得ない。彼を見つめ返すことで、了承の意を示した。
アフロディーテは秀麗な口元に笑みを浮かべ、再び庭園へ双眸を向ける。
「私は、ある」
ゆっくりと発音しながらも、どこか端的な言葉遣い。本当に必要なことを話すときには、言葉を飾らないのか。
意外だったが、意味ならわかる。
――青い、バラのことだ。
は無言で先を促す。彼の言葉を遮ることは、なぜか躊躇われた。
「あれは――」
彼が十になってからまだそれほど日がたっていない頃のことだ。
聖闘士の頂点たる黄金聖闘士の一人に任命されてから既に数年の月日が過ぎてはいたが、実際に任務を与えられたのはそれが初めてだった。
やっと本物の聖闘士として認められたのだと、聖衣を拝領したときよりも余程嬉しく誇らしく、アフロディーテは意気揚々と任地に向かったのだ。
『いまだ幼くとも紛れもない黄金聖闘士たるお前が掲げるべき正義がいかなるものか。この任を通じ、今こそその行いを以って証明して見せよ』
女神アテナの地上代行者として彼を含む全ての聖闘士の頂点に立つ偉大なる教皇から、直々に賜った言葉を胸に。
『期待しておるぞ』
その言葉がどれほどアフロディーテに勇気を与えただろう――そのときは。
『お前の、我らが女神へ対する揺るぎなき忠誠を示して見せることを、期待しておるぞ』
今にして思えば、あの教皇は既に双子座のサガが取って代わった偽りの教皇だった。だからこそアフロディーテはいまだに時折考えることがある。
果たしてサガがアフロディーテに求めた正義とは、一体なんだったのだろうかと。
重厚な仮面に覆われて、教皇の玉顔を拝することは叶わない。それでも仮面の奥からアフロディーテを見つめていたであろうその瞳は、決して悪意のこもったものではなかった――ように思えるのだ。今でも。
何故そう思うのかはわからない。あるいは、ただ信じたいだけなのかもしれなかった。
殺せ、と。命じられたのではなく。
あのどうしようもなく傲慢で畏れ多い罪を暴き立てることを、望まれていたのだと。まだまっさらな彼だったからこそ。
だがあのときからアフロディーテの手は血に塗れ、結局、サガの過ちを正す権利を永久に失ってしまった。
むしろ、アフロディーテはサガよりも思い罪を犯してしまったのだ。
サガですら、結局は成し得なかった究極の罪。
「あれは――あの青いバラは、烙印なんだ。私がいかに罪深い人間であるか、決して忘れさせないための」
「烙印……?」
ほとんど口の中だけで復唱した の声を、アフロディーテは聞き逃さなかった。そうだ、と頷き――俯く。
「――神殺しを犯した私への、烙印だ」
口にすれば、随分と年月が経っているというのにずしりと重い。今でも鮮明に思い出すことができた。
始まりの、夜を。
BLUE ROSE 1 END
ほんの小話になる予定だったのですが、思いのほか長くなってしまったため、全6話でお送りしますアフロディーテ小話(←あくまで言い張ってみる)です。
相も変わらず重めの話ですが、お楽しみいただければ幸いです。