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到着したのは夜だった。
それも宵の口ではなく、既に深夜といっていい時間である。辛うじて集落の体裁を保っているそこでも、住民はすっかり寝静まっていて、人の気配は皆無だ。
命を受けたのはその日の昼過ぎ。まだまだ幼いとはいえ、黄金聖闘士たるアフロディーテならばほんの一瞬でここまでやって来ることは、勿論可能である。それが何故こんなにも時間がかかったのかというと、別に人目を忍んだわけではない。
ここはスペイン南部のアンダルシア地方。俗に”El sarten de España”――スペインのフライパンとも呼ばれる場所だ。日中の気温は40℃を超えることもある。今は八月。普段暮らしているギリシャも十分暑いが、ここは聖域以上だ。暑い盛りの真昼間、それほど過酷な太陽の下にわざわざ灼かれに来なければならないほど切迫した任務というわけでもない。
それ以上に、自分ならばたいした時間をかけずに使命をまっとうできるだろうとの自信もあった。
布で巻いて、一見大きなバックパックに見えるよう偽装した聖衣箱(パンドラボックス)を背負い、アフロディーテは月下を歩く。
乾燥した空気が昼間に蓄えた熱を空に放ってしまっていて、踏みしめている大地からは昼間の灼熱を想像することはできなかった。ただ乾いた空気が運ぶ砂の匂いが唯一、日中の苛烈な太陽光を思い起こさせる。
否。もうひとつ。真夏の太陽を思わせるものがあった。
ふと立ち止まり、アフロディーテはあたりを見渡す。
まだまだ低い彼の背を追い越して生い茂るそれは、まさしく太陽の花。―― 一面の向日葵(ひまわり)畑。
白い月光にもなお映える鮮やかな黄色。彼の金髪よりも色の濃い花びらは見た目どおりに強くしなやかで、乾いた夜風にそよとも揺らがない。アフロディーテをすっぽりと覆い隠し、どこまでも果てしなく続いているかのように彼の行く手を霞ませている、花の密林。
成る程。これが大地の息吹か。
彼の操るバラのような香気は持ち合わせていない花だ。しかしかわりに、むせ返るほどの生気に満ち溢れている。
アフロディーテは再び歩き出す。まっすぐに前だけを見据えて。
月下に満ち満ちた陽光の如き気配は、彼に何の感銘も与えようはずはない。
なぜならば。
視界を埋め尽くす黄色を拒絶すべく前方に固定された双眸を剣呑に眇めながら、アフロディーテは大地を蹴りつける。そうすることによって、気持ちが高まっていくような気がするのだ。この”地”に巣食うもの。彼に示された初めての”敵”を屠るという確かな意思が。
敵。それは聖域――ひいては女神アテナに恭順の意を示さない邪神。この地の守護だという。本性は、大地の守護神なのだと。ならば、この一面に咲き乱れる花々が圧倒的な威圧感を持っているのも道理だ。発している気は、すなわち神気なのだから。
だがアフロディーテはそんなものを恐れはしない――はずだ。そうでなくてはならない。
彼には女神の加護があるのだ。彼にとっては唯一にして絶対の、敬愛し信奉する女神の護りが。そして、彼もまたその女神を護る。女神に反旗を翻す邪神を倒すことによって。
――彼は誉れ高き女神の聖闘士なのだ。それも、最高位の黄金の聖闘士。
彼女以外に畏れるものなど、なにひとつあってはならない。
一人きりでの初めての任務という重責に、多少竦んでいようとも。
黄色い道は唐突に終わった。
アフロディーテの足が止まる。大きな瞳をぱちくりとまたたかせて、いきなり目前に広がった夜空を眺めた。その夜空に突き刺さるように大きな木が一本、天に向かって枝を伸ばしている。
それまで登り道だったのだ。なだらかな丘の頂上を彼は制覇してしまった。振り返る。今まで歩いてきた道は見えない。花に埋もれて、わからなかった。
向日葵が広がり下る斜面の向こうのあちこちに集落が点在しているのが見て取れた。それほど月の明るい夜だった。
だから後ろから声を掛けられて、飛び上がるほどに驚いた――勿論、そんな無様な真似はしないが。
「こんな夜更けに、こんな小さなお客さんだなんて、珍しいわね」
咄嗟に振り返らなかったのも、その場から飛び退いたりはしなかったのも、対応としては正解だったと思う。アフロディーテは自賛した。
そもそも人と出くわすなんて、想定外もいいところだ。それどころか、先程までは確かに誰もいなかった。丘の頂上は開けていて、大きな木が一本立っているきり。夜とはいえ、これだけ月の明るい晩だ。見逃すはずもない。アフロディーテの警戒心は臨戦態勢間際にまで高まる。
しかし声は明らかに怪訝な様子だった。ただの人を装っているのか。それとも敵か。見極めなければ。
恐る恐る、といった風情を装って振り向いた。通用するはずだ。相手がだだの人であるならば。彼は――幸いなことに――まだ子供で、背負っている聖衣箱もただの大荷物にしか見えないだろう。多少おどおどした顔でもして見せれば、家出少年か何かに見えないこともないはずだ。
「……あら」
しかし相手は、なんとも予想外の感想を述べてくれた。
「お客さん、ではなくて、ここのヌシだなんて言わないわよね?」
背にした夜空そのもののような、艶のある長い黒髪が印象的な女だった。年の頃はアフロディーテよりも随分上だ。多分二十歳前後。軽く見開かれた瞳もやはり黒くて、まるで星を浮かべた夜空のようだった。纏っている服も黒い。ワンピースの長い裾が歩みにつれて軽やかに揺れる。だが露になっている顔と、剥きだしの肩から腕、そして裸足の足元は月光に照らされて輝くように白かった。
それなのに、彼女はアフロディーテに赤をイメージさせた。――否。正確に言えば、紅だろうか。
ついにまん前まで歩み寄ってきた彼女は、わずかに腰を屈めてアフロディーテの顔を覗き込む。もう一度目を瞠った。
「あら?」
口許を押さえ、軽く驚いた表情でアフロディーテをまじまじと眺める。少々不躾なその眼差しを、アフロディーテは憮然と受け止めた。見つめ返す。
それでわかった。紅のイメージの理由が。
「あなた、外国人ね?」
ようやく口許から手を離した彼女の、まろい声を紡ぎだす唇の色だ。――紅い。
「あら……じゃあ、私の言っていること、わかるかしら?」
そういう彼女こそ、ここの人間ではないように見えた。どこかエキゾチックな面立ちは、この国のイメージの一端を担っているヒターノ(ジプシー)とも明らかに違う。
「……あなたこそ、外国人なんじゃないですか? それに、ヌシって……なんのことです?」
言葉なら、この国が出身地だという同い年の同僚のお陰で不自由はない。それよりも、先にかけられた問いがどうにも気になっていた。よく考えなくとも、おかしなことを言っていた。
実は今回の任務では、情報の詳細をアフロディーテは与えられていなかった。聖域の懸命の調査でも、詳細の把握には至らなかった所為だ。だからこそ今回、最高位たる黄金聖闘士であるアフロディーテがわざわざ派遣されることになったのだ。
もしかしたら、彼女は何か知っているのかもしれない。そう思い、口早に尋ねる。
知っていれば良し、もしも敵に通じているものであったなら、それもまた良し。――手っ取り早く情報を得られる。
しかし彼女はアフロディーテの期待通りの答えを返してはくれなかった。ふんわりと微笑って、のんびりと口を開く。
「あら、良かったわ。ちゃんと通じてるのね。この辺では、あなたみたいに綺麗な青い目は珍しいみたいなの。ああ、でもあなたのは青いというよりは水色ね。ずっと北の方から来たのかしら? 旅行……にしては、少し時間が遅すぎるわね。それとも、早すぎるのかしら? あと一時間もすれば夜明けだし、到着が早すぎたのね。もしかして歩いて旅をしているとか?」
「あの……」
ゆっくりながらもとうとうと話し続ける彼女の言葉を遮るのはなかなか難しかった。
「そうよね、今はもう夏休みだものね。バックパッカーさんっていうところなのかしら。でもやっぱりこんな夜中に歩くのは感心しないわ。こんな田舎でも、悪い人はいるかもしれないし――」
「……あのっ!」
ついにアフロディーテは大きな声を出した。常ならば人の言葉をこんなふうに遮ったりはしないのに。しかし黙っていたら、いつまで喋り続けられるかわかったものではない。
「あなたこそこんな時間にこんなところで何をしているんです? ”悪い人”がいるんなら、あなただって危ないじゃないですか。それとも、あなただけは危なくないとでも?」
言外に、本当に危険な人物ではないのかどうかとカマを掛けてみたのだが、果たして通じたのかどうか。
やっぱり彼女はのんびりと微笑むだけだった。
「あらあら。本当にそうね。ええ、大丈夫。ここにはよく来るけど、変な人はいないわよ。脅かしちゃったかしら」
「脅かされてはいませんけど……で?」
本当にアフロディーテの思い通りの答えを返してくれない女だ。こうまで会話が噛み合わないといい加減イライラしてくる。つい言葉尻が刺々しくなってしまったが、彼女は全く意に介した様子はなかった。ゆっくりと首を傾げる。
「で? なにかしら?」
「……あなたはどなたで、こんな時間にこんなところで何をなさっていらっしゃるんですか?」
ああ、と彼女はまた微笑ってみせた。ふんわりとした花のような笑顔だが、この状況ではアフロディーテにとって、それは彼の神経を軽く逆撫でするだけだ。また話が逸れていってしまうのだろうかと危惧したが、今度は大丈夫だった。
「眠れないので、涼みに来ただけなの」
言って彼女は、丘の上に一本そびえている木を指差した。こんもりと葉が茂った枝が、夜風にさやさやと揺れている。
「あそこに、腰掛けるのに丁度いい枝があるのよ。丘を見下ろせるベストポジション。で、下を眺めていたらあなたが突然向日葵の中から現れたから、びっくりしたわ。それこそ向日葵みたいな髪の色で、あんまり綺麗なんだもの。花の妖精か何かかと思っちゃったわ」
最後の一言が、先程の”ヌシ”発言の原因か。アフロディーテは溜息をついた。彼よりも年上な癖に、随分とファンタジックな発想をする女だ。少し呆れたが、敵でもなんでもないのならそれに越したことはない。
気配を全く感じなかった理由もわかった。向日葵だけでなくあの木にも、この地に潜む邪神の気が満ちている。きっとそれにまぎれてしまっていたのだ。
では彼女はアフロディーテが気にする必要のない存在だ。適当に話を切り上げて、早々にこの場を立ち去るべきだろう。
「…………驚かせてしまって失礼しました。僕の方こそ、人がいるなんて思いもしなかったから驚きました。ちなみに僕はただの人間ですよ。そう――夏休みを利用して、旅をしてるんです。本当は夕方にここに着くはずだったんですけど、昼間の暑さでバテてしまって、お陰でこんな時間に……」
彼女の勘違いをそのまま使わせてもらった。そうか。世間では、夏休みか。実際、辻褄の合った良い言い訳だ。案の定、彼女も納得したようだ。
「あらまぁ……そうね、昼間は暑かったものね。体調はもう大丈夫なの?」
「はい」
そう、と彼女は頷いた。アフロディーテが作り話をしている間、少々しかめられていた眉がほっと緩む。本当に心配してくれたらしい。
「この村は、ただの通り道?」
不意に難しい質問をされた。これは答えに困る。
無論、通り道ではない。ここが目的地だ。しかし旅行と言ってしまった以上、特にこれといった観光産業のある村でもないようなので素直に答えるのは躊躇われた。
不覚にも口籠ってしまったアフロディーテの沈黙を、幸いにも彼女はあまり気にした様子はなかった。向日葵畑を眺め、目を細める。
「朝も昼も夕暮れも夜も、とても綺麗なところなのよ。でもあまり訪れる人がいないの。せっかく来てくれたのなら、ぜひ見て行ってもらえたらと思ったのだけれど……」
言葉を途切らせて、彼女はゆっくりとかぶりを振った。
「夜も歩くほど急いでいる人を、引き留めちゃいけないわね」
「……こんなに綺麗なのに、あまり来る人がいないなんて、不思議ですね」
あまりにも寂しそうに笑う彼女に、アフロディーテは思わず相槌を打ってしまった。
なんでこんなことをと言い終わってから思っても、後の祭りだ。言葉尻を受け止めて、急いでいるからもう行くと言ってしまえば良かったものを。
「そうね。この村の人達の性質の所為かもしれないわね。特に宣伝もしてないし。それどころか、よそから来る人をあまり歓迎しない人も多いから……」
引っかかる一言だった。アフロディーテはわずかに目を眇める。――よそ者を歓迎しない。それは、秘する何かがあるからではないか。
「旅行者を歓迎しないなんて、よっぽどシャイな人達が多いんですね。それとも、よそ者に畑を荒らされるのが嫌だとか?」
何が幸いするか、わからないものだ。会話を切り上げるのはとりあえず止めてみた。もう少し有益な話が聞けるかもしれないと期待したのだが。
「さぁ……どうなのかしら?」
彼女は困ったように首を傾げて見せた。はんなりと微笑む。
「よくわからないわ。ここでは私も、よそ者みたいなものだから」
進まない会話に苛立ちながらも、さっさと無視して立ち去ることができなかった理由がわかった。――この笑顔がいけない。
口許はやわらかく笑んでいるのに、黒い瞳だけが寂しい。それがどうやら気になっているようだと、アフロディーテはどこか他人事のように思った。
このとき、彼は既に一人前の聖闘士である以上とても大人びてはいたが、それでもまだ聡いばかりの子供でしかなかった。
そして、そのことを自覚してはいなかった。
それが良いことだったのか、それともそれが悪かったのか。
――あれから十数年たった今でも、アフロディーテはわからずにいる。
***
結局あの夜、アフロディーテはこの村への数日の逗留を彼女に約束することとなった。
理由は簡単。疲れたので、数日休みたいと。それだけだ。
だがこの村には宿はない。それを教えた上で彼女は、自らの家へアフロディーテを招いた。どこか嬉しそうに。
「そうえいば、お名前をまだ伺っていませんでした。――僕は、ディーです。フランスから来ました」
一応世話になる身なので、先に自己紹介をする。勿論、偽名に嘘の出自だが。
アフロディーテの言葉を疑う様子などこれっぽっちも見せず、彼女は静かな笑みを浮かべて答えた。
「私は――ここではロサと呼ばれているわ」
なんとも微妙な答え方である。アフロディーテが言えた義理ではないが、あからさまに本名ではないものを答えるとは、一体どういった了見か。
疑問がそのまま顔に出てしまったのだろう。彼女――ロサはくすりと苦笑した。
「本当は別の名前があるのだけれど、ここの人たちったら、馴染みのない外国の名前では呼びにくいみたいで。だから、私はロサ」
やはり外国人か。アフロディーテは納得する。どう見てもロサは東洋系の顔立ちをしているのだ。東洋人の名前は難しい。彼女の説明は尤もだった。
それにしても、ロサ――Rosa――とは。
それはこの国の言葉で、バラを意味する。
アフロディーテを自分の家へと案内する道すがら、ゆったりとした口調で何気ない話を続ける彼女の紅い唇は、やはり目を引いた。艶やかで華やかな色。
それは彼に最も馴染みの深いバラの色にも似て。
――似合いの名だと。素直にそう思った。