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3日があっという間に過ぎた。
ロサの言っていたとおり、そこはとても美しいところだった。向日葵の丘は時刻ごとにその表情を変え、まるで見飽きるということがない。
村人たちは予想以上に穏やかで親切だった。よそ者を敵視しているわけでは決してない。それどころか、控えめながらもアフロディーテは歓迎されていると言ってもいい。
そのような環境の中、アフロディーテは焦りを感じ始めていた。
聖域の先遣隊が詳細を調べきれなかったのも頷ける。むしろこれで、よくぞ聖域に仇なす存在を察知できたと褒め称えるべきだろう。
この地の只中にいれば、成る程、得体の知れない小宇宙をひしひしと感じることができる。しかもわずかながらとはいえ、日に日に高まっていくのだ。これを不穏と言わずして、なんと言うべきか。
そこまで感じ取ることができるのに、肝心のところが全くわからない。幼いながらも黄金聖闘士たる彼に、こうまで委細を悟らせないとは。
そろそろロサの家からも出た方が良いだろう。
客が余程嬉しいのか、ロサはなにかとアフロディーテをかまった。……この場合、もてなしと言うべきかもしれない。勿論アフロディーテがただの子供で、旅行者で、居候であるだけだったら、心のこもったもてなしに感激することだろう。
しかしこれこそが突っ込んだ調査をすることができない理由である。そもそも初めから、旅の途中に立ち寄っただけという話にしていたのだった。そんなに長居するのもおかしい。
そう思いながらもなかなか言い出せなかったのは、あのときのロサの笑顔が目裏に浮かんだからだ。
初めに自分で言っていた通り、ロサはこの村では確かによそ者のようだった。村人たちはアフロディーテに対するのと同じように――もしくはそれ以上に――ロサを”La dueña(ラ ドゥエニャ)”と呼んで丁寧に接している。その丁重さは決して家族や、親しい隣人に接する態度ではない。
ロサは一人で暮らしている。
”La dueña”の呼びかけから察するに、ここに土地を持っている地主か何かではあるのだろうが、明らかにこの地域の出自ではない彼女が、なぜここに一人でいるのか。それはアフロディーテが忖度すべき事柄ではない。人には人の事情があるものだし、彼はまだ子供ながらもそういうことを理解していた。
だからあの寂しげな笑顔の理由を、彼は特に考えようとはしなかった。
逆にそのせいで気になり続けているのかもしれない。
4日目の早朝。
ついにアフロディーテは心を決めた。
そんなふうに表現するのはいささか大げさに過ぎるかもしれない。しかし暇を告げる、ただそれだけのことに一人前の聖闘士――しかも最高位の――であるアフロディーテともあろうものが、ひどく緊張しているのだ。
何をこんなにもナーバスになっている?
ばしゃばしゃと冷たい水で顔を洗い、アフロディーテは濡れたままの顔を拭いもせずに目の前の鏡を睨みつけた。美しいと絶賛される自らの顔は、嫌いではない。
強いものは美しい。
この考えをせせら笑うものは多い。しかし、大概そう言う者は強くない。惨めに、むごたらしい最期を迎えることになる。それは決して、美しい姿であろうはずがないのだから。
普段の彼らしからぬ乱暴な仕草で横に置いておいたタオルを引っつかみ、ごしごしと滴る水を拭った。こんな些細なことで心を乱している自分の顔は正視に耐えない。
こんなはずじゃないだろう。自分は、強くなければいけない。そうでなければ、こんな顔はただの弱弱しい女顔でしかない。それは間違っても美しいものではない。
こんな些細なことで、どこか思い詰めた顔をしている自分が不意におかしくなった。
鏡から目を逸らす。乾いた笑いが漏れた。あまり声を立てるわけにも行かない。狭い家だ。ロサに聞かれたら、きっと変に思われる。
そこまで考えてしまう自分がまたおかしくて、声を殺して笑い続ける。
苦々しくも、ついに彼は認めざるを得なかった。
これではまるでそこらの少年と同じだ。
――なぜ、いつから彼は、こんなにも彼女を慕うようになってしまっていたのだろう。
気持ちを落ち着け、それなりに意気込んで居間へと向かい、アフロディーテはようやく己の失態を悟った。
なぜ気づかなかった? それほど自分は浮かれていたのか。なんていう体たらく。普通なら気づいていたはずだ。
――狭い家から、一人の人間が出て行ったことくらい。
アフロディーテは意識を家中に向ける。いない。では外か。
まだ朝も早い。ほんの4日だが、アフロディーテの滞在中、こんな時間にロサが外出していることなど、まずなかった。
しかも――アフロディーテが妙に意識しているからではないはずだが――ロサの気配は目立つのだ。立ち居振る舞いが派手というわけでは勿論ないのに、どういうわけか目を引かれる、強烈な存在感があった。だからロサには申し訳ないが、彼女がどこにいて何をしているかなど、アフロディーテにはまるで見えているかのようにわかっていたのだ。
それなのに、彼女が家から出て行っていたことがわからなかったとは。
全く気配を感じなかった。こんなことは。
一番最初に、彼女に会ったとき以来だ。
唐突にそう思った。足元がたわむような気がして、途端にまるでまとまりのない色々な考えが脳裏を駆け巡る。
ここはどこだ? ただの僻地の村落。何の変哲もない。
得体の知れない小宇宙。大地の息吹。感じているのに、わからない。
美しい風景。自然の恵み。何者かによってもたらされた。
聖域から与えられた使命。まっとうしなければ。
だが、実際に何が起きた?
これから起こるのか。否。起こしてはならない。未然に防がなくては。
……ロサはどうした?
ロサは、どこだ?
神経を研ぎ澄まして、外の様子を探った。求めるのは、他の誰のものとも間違えよう筈のない、ロサの気配のみ。瞳を閉じる。
しばらくして、アフロディーテは短く息を吐きながら瞳を開いた。急ぎ足でドアへ向かう。
見つけた。あの、最初の丘だ。
もはや微弱な気配などではなかった。確かな存在感を示している。
それは紛うことなき、小宇宙だ。
***
あの時と違うのは、彼女が星空ではなくまぶしい朝日を背にしていること。
そして。
花を、手にしていること。両手にいっぱい、抱きしめるように。
あかいあかい、花を。
アフロディーテが近づいて来るのを、ロサはそこで待ち構えていたようだった。
「おはよう、ディー。良い朝ね」
そんなことはこれっぽっちも思っていないのは一目瞭然だ。弱々しい笑顔を浮かべる顔は、明るい朝の日差しを浴びているとは思えないほど青白い。
何も答えられないでいるアフロディーテに、ロサは殊更に微笑んで見せた。いつにも増して白い顔。笑みを形作る紅い唇が、嫌が応にも目を引く。
「こうして一緒に朝日を眺めて、そして――夕日を見られないのは、私とあなた、どちらかしら」
「………………」
「なぜ黙っているの? もう隠さなくていいのよ……ディー、あなた、フランスからではなくギリシャから来たんでしょう? 私を――」
紅い唇が柔らかな声で、残酷な言葉を紡ぐ。
「殺すために」
「………………!」
息を呑む。どうして露見した? まだ何事も起こってはいない。まだ、何もしていないのに。
それどころかこんなことを言われなければ、聖域が討伐すべきと判断した邪神――敵――が彼女だという確信すら、アフロディーテはいまだ抱いてはいなかったというのに。
恐れは確定されてしまった。
何か言おうとしても言葉が見つからない。息が詰まりそうだった。
これが”敵”と対峙するということか。初めての任務で、初めて知った。
まだ直接力や拳を交えたわけではない。それでもこれが手合わせや試合ではない、本当の”戦い”というのなら。
――それはなんて哀しく、苦しいものだろう。
見知ったものが敵だった。ただそれだけのことが、こんなにも心を竦ませる。あるまじきことだ。いくら幼いとはいえ、彼は黄金聖闘士なのだから。女神を奉じる88の聖闘士の最上の一人が、こんな惰弱であっていいはずがない。
頭はそう思うのに、身体も心もついてこない。結局アフロディーテは黙り込んだままだった。
そんな少年を、やはり黙ってロサは見つめる。ややあって問いかけた。
「ね、この花、なんだかわかる?」
両腕に抱えた真っ赤な花。いとおしそうに抱いている花。ロサの白い腕の中、花の真紅がいっそう際立っている。
「……向日葵……ですね」
やっとの思いで声を出したアフロディーテに、ロサは小さく微笑む。
「そうよ――綺麗でしょう?」
言って彼女は、手にした花に顔を埋めるようにしてしまった。そのせいで彼女が今どんな表情をしているのか、アフロディーテにはわからない。
「綺麗な花には棘があるというけれど、この花にはないの」
それでも想像はついた。きっと涙を流している。もしくは、こらえている。
微かに震える肩が、その事実をアフロディーテに伝えていた。
「なのに……どうして……」
絞り出すような切ない声。アフロディーテは黙って聞く。
「どうして、踏みにじってしまうの……!」
キッと上げた顔は悲しみと怒りで彩られていた。アフロディーテに向けられた瞳がまっすぐに彼を射抜く。赤い花の向こうの黒い瞳がきらめいているのは、きっと滲んだ涙の所為だ。
敵意というにはあまりにも悲しい清冽な小宇宙がアフロディーテを威圧した。純粋で強大なそれは、もはや唯人のものとは到底言えない。小宇宙に内包された怒りはとても正当なものなのだと、思わず納得させられてしまうくらいには圧倒的だ。しかし。
「どういう……ことですか? 一体なんのことを……?」
アフロディーテは困惑するしかなかった。
ロサが何を糾弾しているのか、何故自分が責められているのか。わからない。自分が聖闘士だからか。今まで彼女を謀っていたからか。――違う。
そもそも……そうだ。なぜ、彼が聖闘士であることが露呈した?
まだ何も起きてはいなかったのだ。だから彼もまだ何も出来ずにいた。
では、なぜ?
ふと、赤い色に目が留まった。それまでもずっと見えていたはずなのに、ようやく気づいた。
向日葵。
ロサが手にしている。あかい向日葵。凝視した。炎のように赤い花。
そういった品種はある。珍しくはあるが、それでも普通の花のはずだ。
――決して血の匂いなどする由もない。決して、断末魔の叫びを封じ込めたような小宇宙など、纏っているわけもない。
瞬時に何もかもを悟った。自分は信用されていないのだと。
彼が子供だから? 初めての任務だから?
それとも他に何か理由があるのだろうか。彼が至らないと判断されてしまった理由が。
ふつふつと怒りが湧いてきた。
自ずと小宇宙が高まる。高めるのではない。怒りとともに、どうしようもなく燃え上がる。止められなかった。
赤い向日葵を抱いたままのロサは怯むことなく、アフロディーテを見据えている。彼女が敵であるなら――まがりなりにも”神”と定義され得る存在であるのなら、感じ取ることができるはずだ。
獰猛と呼べるくらいに荒ぶり、剣呑に揺らめく黄金の小宇宙を。