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目に見えない衝撃が一帯に走った。
アフロディーテとロサを中心に同心円状に拡がる小宇宙の軌跡が目に見えるのは、その圧倒的な力の塊が周囲の向日葵を薙ぎ払っていくからだ。
力強く天を仰いでいた太陽の花はいまや路傍のひなげしのようだ。弱々しく揺さぶられ、千切れ、そして大地から引き剥がされた。空へと舞い上がる。見る見るうちに消滅していくその様は、まるで悪夢だ。黄金の衣を剥ぎ取られ、土肌がまるで凍えるように震えた。
嵐のような小宇宙の奔流が収まったのは、二人が立つ丘だけでなく、起伏によって目に見えている丘陵部分の大半が花を引き千切られた後だった。
残ったのはアフロディーテと、ロサ。そして、ロサが背にしていた巨木。それから――
一変した風景を一瞥して、アフロディーテは深く息を吐く。予想通りだ。
花の消えた大地に、点々と何かが落ちている。――落ちている、というのはあまりにも不敬だろうか。
所々に横たわるそれらは、ここの住民達だ。誰もが既に事切れている。この数日で見知った顔も少なくない。誰もが皆、穏やかで優しく、どう考えても討伐せねばならないような者達ではなかった。
だが、そうされる理由があることなら、わかる。今なら。
ロサは、彼がギリシャから来たのだと知っていた。なぜか。
聖域は――教皇は、この地にまします神が邪神だと断じていた。……なぜか。
互いに、互いの存在を認知していたのだ。かねてより。そして――ここからはアフロディーテの推測でしかないが――互いに容認、もしくは黙認しあっていた。
その状態が急に決裂した。
それが何故かまでは、アフロディーテにはわからない。しかしそれによって、ここの神と信奉者達は聖域に仇なすものとされ、ついに黄金聖闘士たる彼に討伐の命が下ることとなったのだ。
そして、両者の決裂の理由をアフロディーテが知らされていないということは、重要だった。
アフロディーテはやるせなく彼らから目を逸らす。代わりに視界に飛び込んできたのは、ロサの抱える赤い向日葵。
それはこの地に生きた人々の墓標なのだ。恐らく犠牲になった人々の分だけあるのだろう。
奉じた”神”の手に抱かれて、その涙を浴びて、果たして少しでも彼等は安らぐことができただろうか。
もう一度息を吐いて、アフロディーテはいまだに大地に立ち続ける者たちへと目を転じた。――すなわち、聖域から来た教皇の勅使達へと。
彼等は皆一様に濃い灰色のローブをまとっていた。頭まですっぽりと頭巾で覆い、朝だというのにその顔には暗い影が落ちてどんな表情をしているのか、判別できない。
その様子はアフロディーテに激しい違和感を与えた。
なぜ、顔を見せない? なぜ堂々と聖域からの使者だと名乗らない?
女神アテナの意を汲んだ正しい教皇の命であるならば、なぜこのような無体で卑怯な方法を取る? 戦う力も術も持たない、唯の力なき人々に。
――なぜ?
こんな、ひどいことを。
「お前達、ここでなにをした」
低く地を這うような声。自分でも驚くほどだ。感じていた違和感は、既に怒りに変わりつつある。
しかし彼らは、そんなことは全く意に介さないようだった。のうのうと言ってのける。
「僭越ながら、魚座様の手助けを」
うやうやしく胸に手を当てて会釈をして見せる。頭巾の所為で顔は見えない。しかし見なくともわかる。
その顔に浮かぶのは、嘲笑だ。
「本当に僭越だな――出すぎた真似を」
言葉を吐き捨てた。怒りでか、くらくらする。いくらアフロディーテが年端の行かない子供に過ぎなくとも、それは最高位の黄金聖闘士に対する態度ではない。
ましてや彼らは聖衣すら拝領してはいない、いわば雑兵だ。見たところ白銀クラスの実力の者もいるようだが、アフロディーテの足元にも及ばないに違いない。
その彼らがこれほどまでに強気でいられる理由はただひとつ。
「教皇様がお怒りでございます」
なにも気づいていなければ、その一言は確実にアフロディーテの怒りを冷ましたことだろう。
しかし確信に近い疑心が、それを許さなかった。
すなわち―― これは、彼の女神の御意思ではないのではないか、と。
崇高なる女神アテナの意思ではないものによって黄金聖闘士たる彼が翻弄されている。これが怒りの要因でなくて、いったい何だ?
怒りに任せてアフロディーテが口を開く前に、まろやかな女の声が上がった。
「聖域の教皇睨下におかれては、いったい何をお怒りでいらっしゃるのかしら?」
そう問う彼女の方がよほど怒っている。多分、アフロディーテよりも激しく。それでもなお静かに。
そんなロサを勅使の統率者と思しきが男が一瞥する。その拍子に彼の頭巾に少しだけ光が射しこみ、酷薄な笑みを浮かべた口許が浮かび上がった。
「貴女様には何も申してはおりませんよ。大地の女神。貴女様との話し合いは、すでに終わっておりますゆえ」
「……ではこれは、私への最後通牒ですらないと言うのね」
「いかにも」
あまりにも慇懃無礼な態度だ。しかしロサは気にする様子もなく続ける。
「奇妙な依頼を、断った。それだけで敵と見做されてしまうというわけね」
「あれは依頼などではございません」
やれやれとでも言いたげに、勅旨は首を振る。失笑まじりの言葉。さすがにロサの口調が厳しいものに変わった。
「では、なんだと?」
突き刺さるような言葉を受けて、勅旨は揚々と顔を上げる。頭巾がずれて、見下す視線までもが露になった。
「われらが教皇様の、絶対無二の命令にございます!」
ついに疑心を確定されて、アフロディーテは戦慄する。頭の中を回るのは、疑問の言葉だけだ。
――教皇が? 何を? ……なぜ?
混乱するアフロディーテの前で、こうして明かされるべきではなかったであろう真実が次々と言葉になっていく。
「――命令? 所詮、人でしかない者が、神に命じるというの?」
ロサは――成る程、神なのだろう。言葉はひとつひとつが絶対的な響きを持っていた。
勅旨は気づいていないようだが、アフロディーテにはわかる。先ほどから勅旨が饒舌なのはロサの神性がそうさせているからに他ならない。
これまで隠していたものを、ロサはついに発揮し始めたのだ。だからこそもはや疑う余地などありえない。
神の小宇宙が載せられた言霊に、なにもかもが露にされていく。欺瞞を許さぬ清冽な小宇宙。それはまさしく神の力。
教皇の勅旨も既にその神力に浸食されていた。徐々に理性を失い、本性が剥き出しになっていく。
それに気づかず、自らの罪を明らかにしていく様は愚かを通り越して、もはや哀れだ。
「教皇様は只人(ただびと)などではございません! 女神アテナの地上代行者であり、女神の戦士の頂点たる御方。そのお力はすでに神にも等しくあらせられる!!」
「ではなぜ”神”の代理を立てようなどと?」
「………………」
静かで厳かな追求は、それ自体が、いまや断罪に等しかった。
「それほど力を持っているのであれば、命を下せるほどに侮っている神(私)など代理に立てず、自ら神を名乗ればいいものを。いいえ。そもそもそんなことよりも大事なことがあるはず」
しばし口を噤み、ロサは瞑目する。やがてゆっくりと瞳を開き、おもむろに問うた。ささやかな声で。
「女神アテナは、どこにいらっしゃるの?」
これほどに静かで衝撃的な言葉を、アフロディーテは聞いたことがなかった。
場の空気が急激に重くなり、足元に澱んだような気がする。めまいがするほど息苦しい。自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえた。どくどく。うるさかった。どくどくどく。
他には何も聞こえなくなってしまったように思えたのに、それは間違いだった。彼を傍観者たらしめさせない言葉が、聞こえてしまったのだから。
「……魚座様。教皇様の命を、早く遂行なさいませ。さもなくば――」
大きく喘ぐように一言一言区切りながら、勅旨が言う。発された言葉よりも余計に口がぱくぱく開いているさまは、酸素不足の水槽の中の魚のようだ。
それで気づいた。息苦しいのは本当だ。ロサの発する小宇宙が急激に高まり、この場に濃密に立ち込めていた。人間の本能がそれを畏れ、身体機能を低下させている。
アフロディーテは手を握り締めた。手のひらに棘が食い込む。黄金の小宇宙のこもった、稀有なる黒き花。
どちらに向けるべきだろうか。この花を。
思考が麻痺しかけていた。あまりに強すぎる小宇宙の奔流のせいか。
予期していなかった真実に打ちのめされたからか。
――真実。
そうだ。真実を知った今、やるべきことはひとつだ。
霞んだようになっていた頭が急激にクリアになっていく。それでわかった。自分が混乱していたことに。
アフロディーテはバラを掲げる。
黒いバラを。
高々と。
ロサに目を向けた。
渦巻く小宇宙の中心で見開かれたロサの瞳が輝いている。黒い瞳。出会ったあの日の夜空のような。
しかしその表情はまるで違う。柔らかな笑みを形作っていた紅い唇が、わなわなと震えていた。
「さもなくば……彼らのようになってしまう? そして、私のように……」
言葉が途中で切れて。
小宇宙が爆発した。