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謁見2
「教皇!」
「シオン!」
彼の前と後ろから同時に声が上がった。
「……少々、やりすぎではありませんか?」
シオンの前で眉をひそめていたのはサガだった。盾になるように の前に立ちはだかっている。
カノンがその横であっけに取られていた。同じく飛び出してきたのだが、兄の行動がよほど意外だったらしい。
同じ二つの顔に睨まれたシオンの背に、別の怒声が投げつけられた。
「なんということをするのです!」
軽やかな声が、今は切羽詰っている。
振り返れば、玉座の緞帳の後ろからまろぶように駆け出してきた少女がまなじりを吊り上げていた。
止める暇もあらばこそ、少女は玉座からまっすぐに駆け下りて来る。
「アテナ、軽々しくお出でになっては……」
シオンの小言がきれいに黙殺された。いつもの彼女らしからぬ荒い足取りで近づき、無言の一瞥でシオンを退ける。サガとカノンも慌てて左右に引いた。
彼女は一目 を見るなり、その秀麗な貌を歪める。今にも泣き出しそうだった。
「ごめんなさい」
膝を突いた。周りで制止の声が上がっていたが、無視する。 と視線の高さを合わせた。
「ひどいことを……」
の頬には一筋、血が滴っていた。感情の篭らない白磁を思わせる容貌を彩る深紅は、 をまるで人形のように見せていた。
唐突に不安が沸いた。――青い目が、まるでガラス玉のようなのだ。お世辞にも明るいとはいえないこの広間で、それでもあまりにも肌はただ白くて艶やかなのだ。
思わず手を伸ばした。
「駄目です」
しかし間髪入れずに制止されて、差し伸べた手が途中で止まる。
「え……」
本当に泣き出してしまう寸前だった。そうならなかったのは、決して冷たくはない声で続けられたからだ。
「御手が汚れます――女神様」
群青の瞳が、畏れもせずに女神を見つめていた。
視線を受け止め、女神はなんとか微笑んだ。多分に泣き笑いのような表情になってしまったが。
「……構いません」
呟いて、頬に触れた。びくりと大きく が震える。それでいっそう安堵した。
よかった。
ちゃんと、あたたかい。
頬も、血も。
「わたくしが、アテナです。いちおう、神ということになっていますが……異界の方には意味のない括りかもしれませんね」
頬に添えた手に小宇宙を送った。神と言えども決して全能ではない。事実、ヒーリングは苦手だった。普段ならやらない。しかし彼女の血だけは、どうしても見たくなかった。ヒーリングはまずいと聞いたが、このくらいならばナノマシンとやらへの影響もそんなにはないだろう。
「今生では、人間としての立場を得ています」
思ったよりも傷は浅かった。労せず癒せてほっと息をつく。これなら痕も残らないだろう。手を離した。
「名を、城戸沙織と申します」
覗きこんでいたガラス玉のような瞳がわずかに細められた。
「ひどいことをしてしまいましたね……ごめんなさい」
言って沙織は、傍らに立ち尽くしていたシオンを睨みつけた。
「シオン、あなたも謝りなさい。――何故こんなことを」
主に咎められて、それでもシオンは応えなかった。
ただ、 を見下ろしていた。
「何故、避けなかった? できなかった筈はあるまい――常人であっても避けられる程度には加減していたからな」
も顔を上げた。視線がまたぶつかる。見事なまでに先ほどと変わらない。
「必要がなかったからです」
悪びれもせず問いかけるシオンに淀みなく は答え、沙織はそんな両者に挟まれて困惑の表情を隠せない。
「私を殺すと、決定なされたのでしょう。あなたがおっしゃっていたように、私は承服いたしました。ならば、回避する必要はありません」
「――敵に殺されかけながら、何の抵抗もせずに死ぬつもりか」
「敵、の定義とは、何でしょう?」
唐突な問いに、場が水を打ったように静まり返った。
緊張感すら漂う静寂の中、 の声だけが響く。
「倒さなければならない標的、ではないのですか? ――それでは私にとって、あなた方は敵ではない。敵でないのなら、抵抗する理由もないし、そもそも現状では私にその術はありません。違いますか?」
誰も反論できないでいる。実にもっともな言い分だった。
その正当性は沙織も認める。
しかしなぜか感じる、違和感。
「でも、下手をしたら死んでいたのですよ?」
神の清明さと子供の好奇心が、一切の妥協を許さなかった。根源的な理由を要求する。
「あなたは……死にたいの?」
は一瞬瞠目して、すぐに軽く眉根を寄せた。目を伏せて、考え込む。ほんのわずかの逡巡。
「いいえ」
小首を傾げる。答えにくい問いだが答えは出ているようだった。
偽りでもなく完全でもない言葉を、捜していた。
「死にたいと思ったことは、ありません……死にたくないと、思ったことも」
沙織はわずかにうつむいた。頷くつもりだったのかもしれない。目を閉じる。そうしないと涙が滲んできそうだった。
立ち上がる。堪え切った自分の忍耐力を、心の内で力一杯賞賛しながら。
「……シオン」
自分よりずいぶん高いところにある教皇の顔を見上げた。
彼はまだ質問に答えていない。うやむやにするなんて、許さない。
「何がしたかったのですか」
「この者が真実、アテナに害を及ぼすものでないのかどうかを見極めようと致しました」
胸に手を当てて恭しく頭を下げるシオンが、沙織には少し遠く見えた。
嘘ではないのは分かる。しかし、全てではない。
教皇も―― も。
それが、人間というものなのだろうか?
どこまでも小賢しく、それがいっそう哀れだと、神である意識は嘲笑い、そして悲しむ。
神といえども到達し得ない境地が、人間には確かにあるのだ。
「では、もうよいでしょう?」
「は」
シオンは更に深く頭を下げた。
それに頷いて、 に目を遣る。身じろぎもせずに膝を付いたまま、床に視線を落としている。
「 ・ユイさん――ずいぶん失礼なことをしてしまいましたね。申し訳ありませんでした」
「……いえ」
「こちらから質問してばかりでしたね。なにかお聞きになりたいことはありますか?」
散会する前にとりあえずと思っただけの問いだった。
「では二、三、確認させていただいてもよろしいでしょうか」
硬い声が返ってきて、びっくりした。
無機質なガラス玉のような瞳を見つめ返す。
「……なんでしょう?」
「あなたは、城戸沙織嬢でいらっしゃるんですね?」
「ええ」
「グラード財団総帥の?」
「……ええ」
質問の意図が読めなかった。怪訝に思いながら答える。
「そして、女神アテナでいらっしゃる――この聖域の主神の」
「そうです」
は一瞬瞑目し、ひたと沙織を見据えた。
「では私の立場は、虜囚ということになるのでしょうか」
もう、ガラス玉のようには見えなかった。強い意志を秘めた瞳が沙織を捕らえている。
迂闊にも、咄嗟に返答できなかった。
「何故そうなる?」
助け舟を出したのはシオンだった。
「我らが女神がグラード財団総帥の城戸沙織嬢だと、そなたが虜囚になるとは、どういうことか」
「わたくしは」
シオンが言い終わらないうちに口を開いた の眼差しが、今までにないほど鋭くなっていた。
「自分の置かれている状況を確認したいだけです」
強い口調でそれだけを言い、シオンの質問に答えるつもりはないようだ。
無礼ではある。しかし先刻よりは余程人間らしい態度だ。
「アテナ」
再び始まった腹の探り合いをカノンが止めた。
「財団が一部出資している、中東のJ王国にある工業用重機メーカーをご存知ですか」
沙織はきょとんと瞬いた。思考を現実に引き戻して、急いで記憶を探る。
「ええ……そういえば、そういった企業がありましたね」
「では、そのメーカーが某組織と組んで密かに兵器の開発・製造を行っていることは?」
「――なんですって?」
沙織が眉をひそめた。
「どういうことです、カノン?」
いささか険しい表情で問い質す女神に、カノンは頭を下げる。
「申し訳ございません、アテナ。私に分かるのはここまでです。――彼女が」
明らかに人の悪い笑みを に向けた。視線が合う。返ってきたのは睨んでいると言ってもいい眼差しだった。
「ここまでしか調査できていないようですので」
当然文句が出そうなものだったが、 はついと目を逸らした。ノーコメントを通すらしい。
見上げた根性だとカノンは評価し、だからこそフォローしてやる気にもなったのだ。
真顔に戻って女神を見れば、両手を胸の前で組んでなにやら考え込んでいた。主君の思考を中断させるわけにはいかない。カノンは口を噤んだ。
ほんの少女でしかないが、知恵も司る女神だ。言動が少々過激な教皇に任せておくよりも悪いようにはされないだろう。
ややあって沙織は口を開いた。
「つまり私は、あなたにとっての”敵”となり得るかもしれないと言うのですね―― ・ユイ?」
答えはなかった。ただ、青い瞳で沙織を見上げている。
笑んで見せた。安心させるためではない。挑発、もしくは何を企んでいるのかと誤解させるような笑顔になっている筈だ。
「良いでしょう」
それでも彼女は理解するだろう。沙織の勝手な願いかもしれないが。
「では、 ・ユイ。あなたをこの聖域の虜囚であると決定します。あなたの身柄は私こと女神アテナの名の下、ここ聖域が拘束するものとします」
は頭を下げた。了解か、表情を隠したいのか。
おそらく後者だ。与えられた情報を分析している。その間の顔を見られたくないのだと思った。だから、迷っているのか困っているのかまでは分からない。
「ですがあなたの行動は、基本的に制限はしません。お好きなように動いて構いません」
条件を提示し続ける。どのように解析するだろう?
「とは言えあくまでも虜囚なのですから、監視くらいは付けさせていただきます」
いささか唖然とした面々の中、成り行きをひとり面白そうに眺めていた男に声を掛けた。
「やはりここはあなたが一番適任なのでしょうね――カノン」
自分に対しては忠義の溢れる態度を崩さないが、それ以外ではなかなか食えない性格の人物だと沙織は知っている。あまり他と関わろうとはせず、物事に執着することも少ない。
そのカノンですら関心を持ったということが、沙織にはことのほか興味深く感じられた。
全ての事態に、意味はあるのだ。そしてそれはいつか大きな流れに収束していく。
たとえば結果。たとえば結末とか。そんなふうに呼ばれる何か。
意味はある。それを或いは、希望と呼ぶのかもしれない。
「カノンはこれより ・ユイと常に行動を共にし、監視を行ってください。報告は特に必要があると思われた場合のみで結構です。要不要の判断は、カノン、あなたに全てお任せします。―― さん、よろしいですね? この条件が破られた場合、新たな処分を考えなくてはなりません」
「――了解しました」
は短く答えた。一方、女神直々に任務を与えられたカノンは丁重に礼を取っている。
その後ろ頭に沙織は願いを託した。
「カノン。よろしく頼みます」
カノンははっとしたように女神を見上げ、更に深々と頭を垂れた。
「確かに、承りました」
満足げに微笑み、沙織は踵を返す。なんともいえない表情のシオンと目が合った。それで、ひとつ思い出した。もう一度振り返る。
「 さん」
呼べば、顔を上げてくれた。言いたい放題言ってしまったのに、怒ってはいないようだ。良かったと、素直に思った。
「聞き忘れていました。――お生まれは、どちら?」
青い瞳が何度か瞬いた。かなり意外な質問だったらしい。
「……火星です」
「そうですか――地球は、初めて?」
「はい」
沙織はにっこりと笑った。心からの言葉を贈る。
「ようこそ、地球へ」
異なる世界の地球ですけれどね、と付け加えた。
は深く頭を下げる。見届けて、今度こそ本当に踵を返した。
戻り際の女神に得意満面の笑顔を向けられて、シオンもまた深々と頭を垂れる。
彼女はやはり神なのだと、再認識するより他なかった。