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轟音がその場のすべての音を消し去った。
聖闘士がそのちからによって大地を穿つ際の音によく似ている。はじける小宇宙の感触も。とてもよく似ていた。――その規模は、まったく比べ物にならない大きさではあったけれども。
アフロディーテも咄嗟に小宇宙を高めた。その高まりに呼応して、魚座(ピスケス)の黄金聖衣が光となって飛来する。アフロディーテの身体を包み込んだ。自ら発せられるまばゆい黄金の光に視界を阻まれ、何も見えなくなる。
聖衣が装着された手に、もはや黒バラ――ピラニアンローズはない。あの瞬間に放った。しかしその切っ先が確かに標的を仕留めたのかどうか、確認する術はなかった。己の聖衣と小宇宙を盾に、この混乱が収まるのを待つ。
とても長い時間のように感じられた。
静寂が戻り、目をかばっていた腕を下げた。
せっかく戻った静けさを打ち破ったのは、自分が息を呑む音だ。
はらはらと舞い散る黒い花びらの中、大地を割って突き出した木の根が教皇の手の者達を一人残らず突き刺していた。
アフロディーテの黒バラに噛み切られるよりも早く、大地の女神によって屠られてしまった彼ら。
アフロディーテが万が一、任務を遂行できなかった場合に代わりに手を下すべく派遣された手練の者共のはずだ。それなのに、抵抗する間もなかったとは。
この恐るべき力をついに見せ付けた女神を振り返るまで、アフロディーテの顔には紛れもなく畏怖の念が現れていただろう。しかし彼女を目にした瞬間、その顔に浮かんだのは驚愕の表情だった。
丘にただ一本残っていた巨木の、豊かにそよいでいた葉がいっせいに舞い散っている。風もないのに、ひらひらと。
そして。
その根元にくたりと倒れこんだのは、この地の守護たる女神――ロサだ。力尽きたように大地にうずくまりながらも、その身体からは凄烈な小宇宙が放たれ続ける。
手を突いた膝元に力なく舞い落ちる緑の葉と、千切られてしまった黒い花びら。
弱々しさと強大さと。どうしようもなく不安定な状態。
アフロディーテはここでやっと理解した。これが、人の身に降りた神の姿なのだと。
――未だ目通りの適わぬ彼の女神アテナも、こういった存在なのだろうと。
棒を飲んだように立ち尽くすしかできないアフロディーテに、ロサが不意に顔を上げてふわりと微笑んで見せた。
「ディー。これなら、私を殺すことができる?」
あまりにもやさしい口調だったので、アフロディーテはその言葉の意味がまったくわからなかった。間抜けにも聞き返す。
「……僕が? なにを、できると言うんですか?」
しどろもどろの彼にロサは苦笑する――ところだった。寸でのところで表情を引き締める。言葉を変えて、繰り返した。
「私を、殺しなさい。あなたはそのために、ここへ来たのでしょう? 聖域の黄金聖闘士、魚座のアフロディーテ」
できるかぎり無機質に、突き放したつもりだった。それなのに幼さの抜けきらない少年は、わざわざ彼女が指摘してやった自らの身分をわきまえようとしないのだ。
「なぜ! そんなことを言うんです! 貴女が女神で、聖域となにがしかの諍いがあったことはわかりました。でも話を聞く限り、僕には貴女をどうにかする理由がない! 貴女を屠れとの命など、女神アテナが出すとは僕には到底思えない! 彼らは――」
同胞であったはずの使者達を、彼自身がさきほどその力で倒そうとまでした者達を、アフロディーテは怒りのこもった目でにらみつけた。当然、死を悼んだりはしない。
「神罰を受けただけだ!」
「ちがうわ」
しかし激昂するアフロディーテと反比例するかのように、ロサは消沈していた。
「ちがうわ――私には彼らに罰を下せるような、そんな権利はないもの」
青ざめた顔に自嘲の笑みを浮かべて、ロサは間違いなく自分が手を下した教皇の使者――死者をぼんやりと眺める。
「だって私は……守ることができなかったんだもの。私を祀ってくれる人々を。そしてこの場所を。だから私は、もう必要とされない存在。そんなものに神を名乗る資格など、ないの……」
そう言いながらも、立ち上るロサの小宇宙は清冽なままだ。アフロディーテのそれをはるかに凌駕し、そして彼を魅了する。――魅惑していた。
アフロディーテは先ほどの勅旨と同じ状態になりつつある己を自覚した。ロサの言葉が染み入る。まるで乾いた土に撒かれた水のように。
「それに、もし今あなたが私を見逃しても、聖域は――教皇は決して私を逃さない。別の刺客が送られてくるだけよ。そしてあなたも、無事でいられるとは思えない。教皇は……確かに末席とはいえ神の端くれである私よりも、力ある存在。悔しいけれど、私だからわかるわ」
言葉の一つ一つがアフロディーテを打ちのめす。反論のしようがなかった。したくてもできない。
そんな自分が歯痒かった。それが、顕現した彼女のちからの一部だからだろうか。――胸の内でもやもやしていたものがすっと晴れていくこの感覚も、また。
そんなアフロディーテの心を読んだかのように、ロサが言う。
「迷いは……消えた?」
アフロディーテははっと顔を上げた。柔らかいはずのロサの視線が、今の彼には痛い。心に突き刺さる。
既に右手に現出させていたバラを握り締めた。そしてロサを正面から見据える。
弱々しく、それでもあでやかに、彼女は微笑ってみせた。開放されたままの小宇宙がきらめき、アフロディーテにやさしく纏わりつく。
誘われるように、彼は地に跪いたままのロサの前まで歩み寄った。
「わかる? ちからが足りなかったから、私は大切なものを、大切な人々を守ることができなかった。でも、ディー。あなたは違う。もしもわたしがあなただったら、きっと守れた。……でも、私は私でしかないの。だからできなかった。でもね」
ロサの手が上がる。目の前のアフロディーテの手をそっと取った。――白いバラが握られている手を。
「こんな私にもできることが、まだひとつだけあるの」
ささやくほどの声。力のない指先。視線は逸らされない。
――振り払うことが、できない。
アフロディーテはぎゅっと目を瞑った。
「……ロサ!」
黒い服の胸元に咲いた白いバラは、まるで優雅なコサージュのようだった。
今度こそ力をなくしてくずおれたロサを、アフロディーテは膝を突いて抱きとめた。舞った黒髪がさらりと聖衣にかかる。少年の腕にでも――彼が聖闘士であることを差し引いても――彼女はいっそ空虚なまでに軽かった。
腕に抱いたロサのあまりの現実感のなさに、アフロディーテは戦慄する。すべてが、まるで夢の中の出来事のようだ。
そう――悪い夢だ。
ぼんやりとアフロディーテは思う。
そうでなければ、だんだんと青に染まっていくバラなんて、あるはずがないのだから。
アフロディーテの腕の中で、ロサは軽く身じろぎをした。胸のバラを見る。ふと漏らした吐息は苦痛のためだろうか。それともため息か。アフロディーテにはどちらかわからなかった。
それでもわかることはひとつだけある。――彼女が息をつける時間は、もう残り少ない。
そのわずかな時間、わずかな力を振り絞って、ロサは青く染まったバラに手を添える。
「こんなに……自分が人でないものになっていたなんて……思わなかった……霊血(イーコール)……何の役にも、立たなかった……」
つぶやいて、ロサはアフロディーテを見上げた。目が合って、口元をわずかにほころばせる。
「いいえ……少なくとも、あなたを守ることは……できるわね……」
もう何も話さないで。アフロディーテは叫びたかった。それでも口には出さない。ただ、見つめた。
人にしか見えない彼女の顔を。
青く染まっていくバラを。
――それを見つめる、彼女の切ないまなざしを。
そんな目を彼女にさせる理由をアフロディーテは知らない。だが、推測はできた。
人だったロサは、何らかの理由で神の力に目覚めた。もしかしたら器にされただけかもしれない。
どちらにせよ、その代わりにロサは人としての何もかもを失ったのだろうことは想像に難くない。
そして今。
神として守るべきものを失った。それはつまり神としての威信も、誇りも――存在する意味そのものを失ってしまったということに他ならない。
そんな彼女が人であるときから持ち続けていたただひとつのもの――命。
それまでもが、失われようとしている。
今。
それまでのほんのわずかな時間。せめて彼女の望むままに使わせてやりたかった。
唇を固く引き結んだのは彼女の言葉を――時間を遮らないようにするためだと、アフロディーテは自分に強く言い聞かせる。
決して、嗚咽を漏らさないようにするためではないと。
「今の教皇は恐ろしい人よ。とてつもなく純粋な恐ろしさと、力を持っている……私はそれを邪悪なものだと感じていたのだけれど……違っていたのかもしれないわね」
ぽつりぽつりと、ロサはつぶやく。深く考え込むかのように目が伏せられていく。
それは独白だろうか。それとも、アフロディーテに向けられた言葉だろうか。わからなくても、今はただ耳を傾けることしかアフロディーテにはできない。
「だって、私は守れなかったんだもの。……結局、力がなくては何も守れはしないのよ。大切なものを守ることができる力が正義だというなら、やっぱり私は邪神で、悪い存在でしかなかったのかしら……」
連なる自責の言葉に、とうとうアフロディーテはたまらなくなった。
「……そんなことない」
一度声を上げてしまうと、もう止まらなかった。
「なにもしていないあなたが悪であるはずがない。……ただ力を振りかざすだけの教皇が悪ではなく正義だなんて、そんなこと、あるわけがない!」
最後はほとんど叫びになっていた。それでようやく、ロサは伏せていた目を上げる。まぶしいものを見るかのように目を眇めた。
「でも、彼は……守っているんだもの。アテナのいらっしゃらない聖域を――地上を……」
「……っ!」
アフロディーテは息を詰めた。そうだった。そういう、ことだった。教皇の勅旨が最期まで口にしなかった禍事。ついに言葉として聞いてしまった。
いると信じてきた彼の女神がいない。ロサは断じた。この期に及んで虚言だとはとても思えなかった。だからこそ思う。思いはそのまま口に上った。
「アテナが……降臨されていないないのであれば、教皇はアテナがおわすと騙っている……極悪人だ!」
声が震える。
改めて口に出すと、そのあまりの恐ろしさに愕然とする。
そんなアフロディーテにとって、だんだんと小さくなっていく彼女の声はまさに天上の福音に等しかった。
「……いいえ。現世にはいらっしゃるわ。大地を覆う、偉大な小宇宙は確かにパラス・アテナのもの……」
まじまじとロサの目を見つめた。ロサもまた、アフロディーテを見つめ返す。
「だからあなたは、あなたの女神が本当に降臨されるまで、生き抜いて。そして……守って……この地上を……」
彼女の瞳から光がなくなっていく。アフロディーテは力の抜け落ちた身体を強く抱きしめた。
「ロサ!」
抱き寄せられて彼の耳元に近づいた唇から、ふっと吐息が漏れた。
「 」
「……え?」
身じろぎした彼女から、アフロディーテはわずかに身体を離す。恐らく最期の力を振り絞って、彼女はアフロディーテに微笑みかけた。
「私が……神の器としてここに連れてこられる前の……人だったときの名前……」
手を添えたままだった青いバラに目をやる。
「霊血(イーコール)も……ほとんど流れた……かしら……。なら……」
黒衣に咲いた真っ青な花弁。白い指先が触れている。青い血を流しきっていたとしても、それを隠すために紅に彩られた唇は、やはり昔日の赤みを、取り戻せはしなかっただろう。
その唇が、震えた。吐息のすべてとともに。
「また、この名を名乗っても……もう……いいかしら……?」
青いバラを残して、指先が地に落ちた。