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Black History2
一同がテーブルに着いたところで、星華が茶器を持って現れた。 の姿を認め、顔をほころばせる。
「 さん、あれからお加減はいかがですか? 今朝はお世話して差し上げられなくて済みませんでした」
「いいえ――お陰様でかなり良いです。どうもありがとう」
「それはよろしゅうございました」
お茶を入れる用意をしながら星華が口にしているのは日本語である。事情を知らないアイオロスとアイオリアが揃ってきょとんとした。
「なんと言っているんだ、彼女達は? どこの言葉だ?」
怪訝そうにアイオロスが弟に問う。アイオリアは首を傾げつつ答えた。
「日本語では? 星矢達が使っている言葉に響きが似ている」
ああそうか、とアイオロスは頷いた。
「星華さんは日本人だったな。普通にギリシャ語が通じてしまうので、つい忘れてしまうよ」
「アテナも俺達の前では日本語はお話しにならないですしね」
名前を出されて、女神は面白そうに兄弟の話に割り込んだ。
「だって、通じない言葉を使っても仕方がないでしょう? それよりもわたくしには、あなた達がみんな英語を話せる方が意外でした。雑兵の方々もかなりの方が話せるみたいですし。昔はそんなことはなかったと記憶しているのですが……」
そう言いながら、女神は先程からずっと英語で話している。養親の教育の賜物により、彼女は英語もギリシャ語も堪能だ。
「昔とは、243年前――前聖戦の頃のことですか?」
女神に倣って、アイオロスもギリシャ語から英語に切り替えた。
「そうです。あの頃は、聖闘士達も母国語とギリシャ語しか話せないものが多かったはずです」
「まぁ、ギリシャ語は聖闘士にとって必須ですからね。指令書はみんなギリシャ語ですから。私達のようにギリシャ出身の聖闘士は良いですが、外国出身者には修行とはまた違った苦行でしょう。そういえば星矢も昔、魔鈴にみっちり叩き込まれてましたよ……他人事ながら、見ていて可哀想なくらいでしたね」
少し遠い目をしてアイオリアが語る。女神の笑顔が僅かに引きつった。
「……そんなに大変そうだったのですか?」
「各国から集まった者たちにはまず英語で説明やら教育やらをするんですが、星矢は英語すら話せなかったので、最初に対応した者も困ったようです。魔鈴がいなかったらどうなっていたか……その所為か、魔鈴はかなり厳しく指導したようです。半年もたった頃には意思の疎通に困ることはなかったと記憶しています」
「そうだったのですか……」
どこかしょんぼりと女神が呟いた。とりなすようにカノンが口を挟む。
「だがアイオリア。今は外国での任務も多い。ギリシャ語だけでは派遣先で仕事にならない。だから逆にギリシャ出身者には別に外国語を学ぶ必要がある。そういう意味ではどこの出身だろうと、大差ないのではないか」
なにやら使用言語について議論を始めた四人の会話を は黙って聞いていた。途中から英語に切り替えてくれているのは、恐らく自分への配慮だ。一方、傍で給仕している星華は理解できずに黙っている。
ギリシャ出身のはずのカノンの英語はひどく流暢だ。アイオリアもアイオロスも意思疎通には全く困らないレベルではあるものの、やはり独特の訛りが強い。女神については、まったく問題がなかった。巨大財閥の後継者として育てられたというから、当然かもしれない。
「 さんは普段から英語で話されているのですか?」
供された紅茶入りのティーカップを手にして、女神が話題を振ってきた。黙ってしまっている へ気を使ったのだろう。
「はい。行政府での共通言語は英語ですから」
紅茶の芳香を楽しんでからカップに口をつけた女神は、機嫌よく続けた。
「では日本語はどちらで? さんの世界では、話者がたくさんいらっしゃるのですか?」
「いいえ。かなりマイナーな言語だと思います。ずっと昔に日系のコミュニティーで暮らしたことがありますので、そのときに習いました」
「それでは、いつもはそんなに使っているわけではないのですね? それにしてはずいぶんお上手に話されるので、驚きました」
「――マイナーな言語は、それなりに使えますから。使用頻度は低くはありません」
あえて遠回しな言い方をしたのだが、その意思も意味も伝わらなかったようだ。カップを戻して可愛らしく首を傾げた女神はいかにも年相応に見えた。そんな子供に詳しい説明をするのは憚られたが、 の答えを待っている。仕方なく続けた。
「暗号文や、通信による報告のときに良く使います。万一洩れることがあっても、内容が伝わりにくいですので」
そうですか、と女神は曖昧にに微笑んだ。思ったとおりだ。反応に困ったらしい。
場に間が空くかと思われたが、そうはならなかった。
「それにしても、おかしなものだね」
アイオロスが を見ていた。どこか探るような目をしながらも、言葉どおり面白がっているようにも見える。
「世界が違うのに、我々と全く変わらない人類がいて、同じ言葉がある」
は手元に目を落とした。星華が淹れてくれた紅茶が入ったティーカップを見つめる。同じものは、 が所属する世界にも当然ある。
「確かに昨日見た、君の――モビルスーツと言ったかな。実際にあんなものを目にしてしまった後では、君が全く違うところから来たのだと納得せざるを得ない。しかし、それは本当に別の世界から、で間違いはなのかい?」
声の調子からすると、責めているわけではなさそうだった。しかし昨日の謁見に続く追究であることに間違いはない。 は顔と上げる。どう回答すべきか、少し悩んだ。
「異世界から、でなければ、どこからだと思うんだ?」
の代わりに口を開いたのはカノンだった。口許を僅かに笑みの形に歪ませて、アイオロスと同じような表情をしている。
アイオリアはそんな二人を眺めて、肩をすくめた。アイオロスは自分の兄ながら――今は自分よりずいぶん年下になってしまっているが――意外と食えない性格をしている。というよりも、やはり年齢の所為だろうか。ひとつのことに興味を覚えると食い下がる傾向があった。かつて彼を喪った頃には、そんなところがあるなどとはわからなかったが。
一方カノンはそんなアイオロスをまともに相手にする。年を重ねた余裕なのか、年甲斐がないだけなのかは判断に困るところだ。 ともかくもそれをわかっているからか、アイオロスはカノンを相手によく議論を吹っ掛ける。単純にコミュニケーションを楽しもうとしているのかもしれないが、傍から見ると大人をからかって遊んでいるようにも思える。
そういうわけでこの二人のやり取りは飄々としているようでいて、実際にはなかなか熾烈だ。巻き込まれると面倒なことこの上ないと、ここしばらくの間に学んでいた。だから絶対に口を挟まないようにしようと、アイオリアは密かに誓った。
そんな弟を、アイオロスは片眉を上げてちらりと見遣る。静観を決め込んだのがわかったようだ。こちらも軽く肩をすくめて、それからカノンを見据えた。
「異世界と言うからには、ものすごく違う場所、というのを想像してしまうんだ。でも彼女を見ているとそうは思えない。ただ、あの”モビルスーツ”にしたって、教皇に見せていた身分証にしたって、すごいものだということはわかる」
「で? 結局なんだと言いたいんだ?」
揶揄するようなカノンの言葉にも、アイオロスは怯まなかった。
「――未来から来た、とか言うんじゃないのかい?」
カノンが目を丸くした。滅多に見ることのできない表情だ。サガだってこんな顔はまずすることはないだろう。アイオリアは思う。珍しいものを見た。
「それはありえません」
いつのまにか紅茶を一口含んだ が、カップをソーサーに戻しながら否定する。
「理論上、それは絶対に無理です」
断固とした否定。相当確信があるのだろう。自分のことなのだから当然といえば当然だ。しかしアイオロスとカノンのやり取りに口を挟んでしまうとは。アイオリアは に目を遣る。視線には、いくばくかの哀れみがこもってしまったと思う。
「理論上、と言ったね? では時間を遡るとか、そういうことは無理だと実際に証明できると?」
案の定、カノンに向けられていたアイオロスの矛先が に向けられた。どことなく楽しそうな表情はそのままだ。
しかし。
「できます」
はらはらしながら見守るアイオリアの前で、実にあっさりと はアイオロスの挑戦を受け流して見せた。
「ですが、この場でそれを証明して見せることはできません。なぜなら、この世界ではまだその理論が確立していないと推測されるからです。そういった知識を不用意に公開すべきではないと考えます」
「私達がまだ知らないことは、教えない。そういうことかい?」
相変わらずアイオロスは底知れない笑みを湛えていた。対する は全く表情を変えずに、頷く。
「――知恵の実を口にしてしまった人間は、神の怒りに触れて楽園(エデン)を追い出された。そんな話が私の世界にはあります」
「それならこちらにも同じ話があるな。そして他にも……」
カノンが再度口を挟んだ。
「人間に火を与えたプロメテウスは、その後長きに渡ってゼウスの責め苦を受け続けた。そういう神話もあったな」
「なんだい、カノン。何が言いたいんだい?」
少しばかり笑みを収めて、アイオロスはカノンに顔を向ける。カノンは先程までとは打って変わって、恐ろしいほど真剣な顔をしていた。
「知識とは、力の一部だ。過ぎた力は、時には毒にしかならない。――それがわからぬお前ではあるまい。アイオロス、何が狙いでそんな話をする?」
今度こそ完全にアイオロスは真顔になった。
「狙い、って?」
「昨日、教皇は真正面から に問いかけて、退けられた。だからお前は違う方向から攻めて、 から答えを引きずり出そうとしている……違うか?」
二人は半ば睨み合うように互いを見つめる。そのまま数瞬。
やがて降参したのは、アイオロスだった。
「やっぱりカノンには適わないな」
やれやれと肩をすくめる。
「でも、カノン。それは私を買い被り過ぎだよ。……確かにそんな意図もあったけどね。でも、 が時間を遡って来たんじゃないか、って思ったのも本当さ。さっきも言ったけど、彼女はどうしたって私達となんら変わるところのない普通の人間で、だからこそ不思議に思ったんだ。異次元というのが、納得できないというか……私はただ、真実を知りたいだけなんだ」
困ったように笑って、アイオロスは改めて に目を向けた。
「やっぱり、本当のところは教えてもらえないのかな?」
問われて、 は心持ち首を傾げる。目を伏せて、答えを考えているようだった。
ややあって、口を開く。
「……時間の行き来、というのは、無理だとされています。どうしてか、までは知りません。でも多数の次元が同時に存在しているというのは理論的に確立されていますし、ゲートのシステムもそれを利用したものです。だから私は、同時に存在する別次元へ来てしまったのだと、そう考えたに過ぎません」
「ゲートって?」
「位相差空間ゲート――長距離の移動時間を短縮するためのものです。ターゲットを追って飛び込みました。抜けたら……こちらでした」
そのときのことを思い出したのか、 は眉をしかめた。
「初めは、ただ地球付近に到達しただけだと思ったんです。降下するつもりもなかった……」
しん、と場が静まりかえった。全員が に注目している。
「でも戦闘しているうちに地球に近寄りすぎてしまって、もう重力に逆らえなかった。相手はそもそもそういう意図だったようですが」
「そういう意図、とは?」
それまで黙っていた女神が静かに問いただした。まっすぐ へと視線を向けて。 も伏せていた瞳を上げる。
「地球に落として、燃やすつもりだったということです」
ティーカップの取っ手を掴んだ女神の指先がぴくりと震えて、茶器がかちゃりと音を立てた。
「もしかして さんのモビルスーツだけでは、地球に降りることはできないのですか?」
「できません」
「……では、どうやって……」
「交戦していた相手が単独での降下能力のある機体でしたので、盾になってもらいました」
女神はカップから手を離した。そして胸の前で組む。硬く。
「それで無事に降りてこれる保証はあったのですか?」
「ありません。ですが、結局あのまま宇宙(うえ)にいても、同じことでした」
「――エアーか」
カノンが低く呟いた。 は頷く。
「最後のゲートを抜けた時点で、出撃してから既に18時間が経過していました。予定帰投時刻は出撃より12時間後でしたから、すでに6時間過ぎてしまっていました。指示された任地に滞留していたのなら捜索もされていたでしょうけど、闇ゲート――違法な非認可ゲートを報告なしに通過していましたので、仮に世界を超えていなくても救助は期待できませんでした。エアーなら約5日、水、食料は約3日分位は基本装備として積んでありますが、近くに補給可能な場所がない限り、そのままなら確実に死んでいました」
しばらくの間沈黙が落ちた。
女神は胸の前で手をきつく組んだまま、酷くショックを受けたような顔をしていた。アイオロスは を見つめたまま何度か口を開きかけ、結局閉ざしてしまった。
そんな兄を横目でちらりと見て、アイオリアが沈黙を破る。俯きながら、こぼすようにもらした。
「宇宙とは……想像以上に恐ろしい場所なのだな」
「地球上で生まれ育って宇宙(うえ)に上がったことのない人たちには、その本当の怖さはきっと10分の1もわからない――」
応えたのは、自嘲気味な口調で紡がれる、シニカルな言葉だった。
はっと顔を上げたアイオリアは、それでも反論の言葉を持ってはいないのだ。気まずげに項垂れる。
そんなアイオリアに、 はどういうつもりなのかフォローの言葉をかけた。
「別にそのことを責めている訳ではありません。宇宙(そら)に上がり、生きていく術をまだ持たないあなた方にわかれと言うのは、どだい無理な話です。ただ――」
言葉を区切り、今度はアイオロスをひたと見据える。
「先程の説明だけで私が異世界から来たのだと……異世界というものが実際に存在しているのだと、納得していただけるとは思ってはいません。それでも、あなたがたは信じなくてはならないはずです」
「……どうしてだい?」
ゆっくりと、アイオロスは顔を上げた。怪訝ながらも、さっきまでとは違う真剣な眼差しで を見つめる。
「あなたは神を――女神アテナを信じているのでしょう?」
「当然だ」
即答だった。 は僅かに口の端を上げる。次いで、たった今自分が引き合いに出した女神その人に顔を向けた。
「女神アテナ。お聞きしてもよろしいですか?」
白くなるほど握り締めていた手を僅かに緩めて、女神は頷く。
「なんでしょう?」
「あなたはこの地球とそこに住まう人々を、今後も愛し、見守り続けるおつもりですか」
「勿論です」
「――お見捨てになる日は来ないと、断言できますか」
あまりにも厳しく、無礼な問いだった。女神は一瞬言葉を失い、聖闘士たちは一様に息を呑む。
やめさせるべきかカノンは迷い、そして間に合わなかった。
女神は頷いたのである。力強く。自らに宣言するかのように。
「そんな日は、絶対に来ません。来ないと……信じています」
それはこの世の人間達にとって、どれほど心強い言葉だろうか。
――たとえ、答えの前にいくばくかの逡巡の間があったとしても。
は幾分表情を緩め、軽く女神に頭を下げた。そして、またアイオロスに向き直る。
「ではやはり、私がいた場所はあなた達の未来ではありません」
「どういうことだ」
アイオリアが鋭く問う。女神への無礼に憤っていた。しかし少々ながらも立ち上る怒気に、 が気圧されることはなかった。
「今後とも女神は地上を見守り続けるとおっしゃる。それなら、この世界の未来は私の世界の過去と一致しません」
そして は告げる。厳かに。
「なぜなら、我々の世界に神は存在しないからです」