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Confession3
「そろそろ相手を立てて実戦を行ってみるのも良いかも知れんな」
基礎の体力をつけさせることを重点に指導を始めてから二週間。ようやくここまで漕ぎつけることができた。童虎は久方ぶりの充実感を味わっていた。
は思った以上に優秀な教え子だった。
反応速度、動体視力は機械人形(モビルスーツ)を操縦している以上優れているのは当たり前なのかもしれないが、何よりも特筆すべきは、その集中力だ。注意力と言い換えても良い。
どうしても前方に固定されがちな注意を、 は全方向に向けることに長けていた。
全方向――すなわち を中心に据えた球体のように、後ろも横も、頭上からその足元に至るまでの全てに対して、満遍なく気を張り巡らせているのだ。
成る程。これが宇宙に生きる者か。
興味深くもあり、驚嘆すべきことでもある。確かに良く考えてみれば、宇宙空間には前後も左右も、そして上下の区別も何もない。放り出されてしまえば、自分の周囲全てに対して意識を向けなければならないだろう。
その代わり、と言うべきだろうか。 は自身の持てる反応速度に対して、それに追随するための基礎となる体力に少々欠けているようだった。勿論、女聖闘士を引き合いに出しているわけではない。ごく普通に生きている同世代の女性――例えば童虎の養女だとか――と比べても同等か、わずかに勝っているという程度だろう。持久力という点に於いては意外なほど劣っていた。
聞けば、生まれ育った宇宙では、そのほとんどをスペースコロニーか軌道ステーションというところでで過ごしていたのだという。そこは重力が地球上の1Gに対して、0.9~0.8Gほどしかないらしい。そもそも地上の重力に慣れていないのだ。
意地があるのか矜持のためか、 は何も言わないが、恐らく自分の体重すらも急激に重く感じて、慣れるのにはしばらく時間を要したはずだ。
その上、聖域に来てすぐに負った怪我のため、余程必要がなければ激しく動いたりはしていなかったのも災いした。 本人曰く、任務活動に支障が出る恐れがあるほど身体が鈍ってしまっていたそうだ。
だからしばらくの間、童虎は にまず基礎的な体力向上のための指導を重点的に行ってきた。重力に慣れさせ、筋力を養う。とはいえ、もともと良く鍛えられた身体をしていた。養うというよりは回復させると言った方が近いかもしれない。
指導は見る見る効果を上げて、ようやく今日、童虎から実戦という言葉を引き出したのだった。
しかし童虎の意に反して、 は少々戸惑った様子を見せた。
「実戦……ですか?」
年の割には感情を抑えつけるのが巧すぎると、そんな第一印象を抱いていた。しかししばらく近くで見るうちに評価は変わった。
感情を抑えているのではない。――何かを感じることをこそ、抑制しているのだ。
感情を持つこと。そのものを。
それは人のあり方としてはどうかと、童虎は深い懸念を抱かざるを得ない。そのように教育されたのか、そうあろうと自らを律しているのかはわからないが、どちらにしてもあまり良いこととは思えなかった。
「そうだ。実戦というか、模擬試合だな。実際に戦ってみることで、どれだけの動きができるようになっているのかがわかる」
しかし最近になって気づいた。それでも全く何も感じていないというわけでもないようだと。
表情や口調のわずかな変化から、確かな情動が見て取れる。それでわかった。
――感情の機微が少ない上に、それを表現するのが下手なのだ。
それでもそこまで気づいた頃には、その微かな感情の波を感じ取ることができるようになっていた。だから今も、 が相当困っているのがわかってしまう。
「……浮かない顔だな。気が乗らんか?」
単刀直入に問うてみれば、一瞬童虎を窺い見る。そしてすぐに俯いた。頷いたのかもしれない。
「人と直接拳を交えるのは……あまり……」
歯切れが悪い。大体において は明瞭かつ簡潔に言葉を紡ぐ。だからこんな様子は珍しかった。迷い迷い、口を開く。
「鍛錬の一環であっても……一環であるからこそ、標的(ターゲット)でも同僚でもない、私の事情とは関係のない人たちに手を上げるような真似はしたくないのです」
ぽつりぽつりと語りながら、 は童虎と目を合わせようとはしなかった。これも珍しい。余程嫌なのだろう。ならば一言、そう言えばいいものを。何とか理由をこじつけようとしているのだ。童虎は眉をしかめた。
「 」
呼んでも顔を上げない。溜息をついて、もう一度声をかける。
「 。気が乗らんのはわかった。別に怒りはしないから、顔を上げなさい」
それでようやく、 はおずおずと童虎を見上げた。
「――申し訳ありません」
沈んだ声だった。童虎は片眉を上げる。
「何を謝る?」
意地悪で問いかけたわけではない。ただ、気になった。断固とした意思があってそう言ったのなら、謝る必要などないはずなのだ。
少し待ったが、答えはない。重ねて問う。
「強くありたいのだと、そう言っていたな。だのにそれでは、己の力の度合いを測ることができぬであろう。――強くなりたいのではなかったのか?」
最後の言葉で、 は目を伏せた。視線を二、三度彷徨わせて、やがてゆっくりと目を上げる。口を開いた。重そうだった。
「なりたいのではなく――そうでなければならないんです」
「強くなければならない?」
「はい」
義務だというのか。それが。奇妙な話だ。
頷く を、童虎は見下ろす。なにかを堪えているようにも見えた。
聞きたくないような気がした。しかし知りたかった。
何が をこんなにも縛り付けているというのか。この痛ましげにすら思える頑なさは、一体どこからきているのか。
だから、問う。
「それは、何のためだ?」
「任務のためです。それが私の仕事です」
変わらず重そうに、しかし今度はよどみのない返答だった。嫌な予感がした。
「では 、お前は何故そのような仕事を選んだのだ? 危険を伴うばかりか、時間を越えてこの世に縫いとめられる。あまり割りの良い仕事とは言えぬな。それでもあえて選んだ道なのだろう? それは何故だ? それでも成したい、何かがあったのではないのか」
願いの混じった質問であったと、言いながら自覚していた。だからこそ、それは裏切られるのだろうとも思った。
願うのは、心のどこかでそうではないことを感づいてしまっているからだ。
だから失望はしなかった。
真摯な眼差しだった。あまりにもまっすぐに投げかけられるそれに耐え切れず、 は目を背けてしまう。
わからない。何故こんなにも、童虎は自分を気遣う言葉をくれるのか。わからない。
ここしばらくの間、熱心に指導してくれた。 が求めているものを与えようと腐心してくれていた。その厚意を拒絶しようとしている に、その言葉どおりに怒りもせず、なおもこうまで心を砕いてくれている。
伊達に永の歳月を過ごしてきたのではないことが、その深い眼差しから知れる。―― とは違って。
そうだ。時間だけなら、 のほうが重ねている。しかし決定的に違う、その厚みと重み。実際に起きて、何かを思い、感じ、そして確かに生きてきた時間は、童虎にはまだまだ及びはしないのだ。
その場しのぎの逃げ口上は使えない。見透かされてしまうのだろうから。カノンとは違う意味で、童虎は の心の奥底を見透かしてしまうのだろうから。
それ以上に、こんなにも真剣に のことを考えてくれる童虎に嘘はつけなかった。下手な言い逃れも、したくはなかった。
だから、本当のことを言うしかなかった。童虎が望んでいるのは違う答えなのだとわかってはいても。
「私は逃げてきたんです。逃げて来て、踏み込んだ道なんです。逃げ続けるためにはこんなことをするしかないんです……」
今まで誰にも吐露した事のない胸のうち。明確に言葉にしたことさえ、初めてだったかもしれない。口に出してしまうとこんなにも弱々しく聞こえるとは。
「逃げる? 何から逃げているというのだ?」
自身の言に愕然とする へ、童虎は静かに問いかける。その優しさが、今はかえって胸に痛い。なぜなら。
「私がいる所為で、私が生きている所為で、傷ついて……時には志半ばで斃(たお)れて逝く人たちがいるんです。私が私であるというだけで私を害そうとしたり利用しようとしたりする人々がいるからです……私はなにもできないのに。それでも皆、私を責めない。何も言わずに私を護ってくれるんです。ただ、大丈夫だよって、優しく言ってくれるんです。そんな皆に、私は何もしてあげられない。それでも皆、私に優しくしてくれるんです……」
言葉をうまく纏めることができない。感情的に話すべきではないと自らを律しながらも、感情そのものを吐き出しているのだ。纏まらないのも道理だ。
「与えられ続けるだけで何も返せない自分が歯がゆかった。――悔しかった。だから無力な自分を、無力なままでいさせてくれる優しい場所から逃げ出したかったんです。――もう見たくなかった。私の所為で傷つく人たちを!」
激昂する声を抑えることは、もうできなかった。
「無力な私は、無力であるがゆえに周りの人たちを傷つけてしまうんです。それが嫌だった。そんな自分は嫌でした。だからそうならない為には力が必要で……誰かを傷つけないためには、強くならないといけなくて……だから……!」
ああ。本当に、全然うまく話せない。そんな自分にも、ほとほと嫌気が差す。
「できることなら、もう誰も傷つけたくはないんです。戦いたくなんてない! でも、誰かを傷つけないためには戦うしかなくて……それだったら、必要最小限で済ませたい……」
童虎は黙って聞いていた。言い募る を抑えることはしない。むしろ黙って先を促していた。
「矛盾してるのはわかってます。でも……私には、こうすることしかできない――私が、私でしかない以上、この生き方しかできない……」
結局筋道だてて話すことはできなかった。それでも胸のうちを明かし切ってどこか清々した気分を、 は味わっていた。
不思議と落ち着いていく。童虎の視線はまだ に注がれていて、こんなにも取り乱してしまった後ならば恥ずかしくなってきてもおかしくはないのに。
あまり感情的になるのははしたないことだと、母に教えられた。それがマイナスの方向の感情なら、なおさら。
時に感情に従うのは人として正しいことだと、ほとんど表情を崩す事のない父から教えられた。
――自分は忠実に、それらの教えを守っていると は思う。その結果が現在の自分なのだ。恐らく。
そしてたった今、 は母の教えを破ってしまった。そのことに対して少しばかり後ろめたさは感じたけれど、童虎の視線はそんな を決して責めてはいない。
それどころか、暖かかった。
「言いにくいことを、言わせてしまったな。――よくぞこの童虎にそこまで打ち明けてくれた。嬉しく思う」
童虎はにこりと笑んで、 の頭に手を伸ばす。まるで子供にするように。撫でるその手はどこまでも優しい。
――優しい。
を取り巻く世界はどこまで行っても優しい。それが異世界であっても。変わりなく。
こんなに優しい世界を、 の所為で損なうわけにはいかない。
だからやっぱり、 は戦わなければならないのだ。
昂ぶる感情を吐ききって、 は放心したように童虎に頭を撫でられるままになっていた。
その様子はどこか途方に暮れた子供のようでもあり、涙の存在を忘れてしまった大人のようでもある。
途切れがちだった言葉の最後。童虎は が泣き出すかと思ったのだ。それほど声には切迫した響きがあった。
それでも良いと思った。泣きたいのなら、泣けばいいと。
しかし結局、 は口を閉ざしただけだった。
矜持か。覚悟か。それとも他の何かか。 の情動の発露を封じてしまっているものは。
いずれにしても、確信は持てた。 の弱さの源を垣間見た。
これでは勝てないかもしれないな。童虎はそっと溜息を落とす。
優しさゆえに、自ら傷を負い、負わせる修羅の道を選んだ。そしてその優しさゆえに、童虎の思い描く勝利というものを勝ち得ることは、 にはきっとできない。
懸念では、最早ない。確信だった。
もしかしたらそれこそが、 の求める結末なのかもしれない。そう思うと、とても気の毒だった。
なんと深い業を背負ってしまっているのかと。
とても。
気づけば朝の光が強さを増し、ヴェールのように漂っていた夜の靄を剥ぎ取っていく。
――童虎の胸に、靄がしこりとなって凝っていく。
改めて を見た。その優しい少女を。
童虎から目を逸らし、白い石造りの建物の合間から昇る朝日を眩しそうに見つめている。目を眇めて。まるで涙をこらえているかのように。
泣くことのできない彼女はそれが辛いことなのだと、きっと忘れてしまっているのに違いなかった。そんなふうに、 はとても無頓着だ。自分自身に対して。
他人には優しいくせに、自分には優しくない。その落差。その危うさ。
***
――もしも。
後々、童虎は後悔することになる。
――もしも、この朝の光の中で感じたことを誰かに漏らしていたならば。
後で悔やむからこそ、後悔というのだ。ならばやはり、先に思うことはできなかったのだろうけれど。それでも。
――あんなことにはならなかったのかもしれない。