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Side-S:10章 沈黙の理由1


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沈黙の理由1


「だから一体どういうことなのか納得のいく説明をして欲しいって言ってるんだよ!」
 通常ならばしわぶきひとつ聞こえることさえ稀な場所に、きつい女の声が鋭く響き渡る。何事かと顔をのぞかせた神官や女官達は、声を荒げる白銀聖闘士の剣幕に驚いてそそくさと逃げるように立ち去っていった。
「こっちはそれなりに用意周到に準備して乗り込んだっていうのに、いきなりどかんと音がしたかと思えば、あたしらの目標が建物ごと吹っ飛んでて生死の確認さえ取れないと来た! おまけに危うく爆発に巻き込まれそうになったんだよ! あんたたち、あたしになんか恨みでもあるのかい!?」
 まくしたてる彼女の顔は無表情な仮面で覆われていて、全身で表現される怒りとは裏腹にどこまでも静かなその表情は、見る者に恐怖すら覚えさせた。

 ここは教皇宮である。それもアテナ神殿へと続く神聖なる謁見の間への扉のどまん前なのである。
 さすがに場所と周囲の目を慮って、カノンは事態の鎮静化を図る。
「わかった! わかったから少し落ち着け、シャイナ」
 しかし事態はちっとも変わらなかった。
「ちっともわかってないじゃないか! 大体あれは聖域から与えられた正規の任務だったんだ。ことの顛末を一体どう報告しろって言うんだい!?」
「頼むから落ち着いてくれ……」
「これが落ち着いていられるか!」
 なんで俺がこの女の機嫌などとらねばならんのだ、というカノンの心の中での独白は当然のことながら誰にも届かない。口を出した分だけシャイナはますますヒートアップする一方。火に油を注ぐとは、まさにこのことだ。
「ちょっとそこのアンタ! 確か とかいったね」
 そしてシャイナの怒りの矛先はついにカノンの後ろで沈黙を保っていた に向かった。
「スカしてないで、ちょっとくらいなんか言ったらどうなんだい! そもそもあたしの仕事の邪魔をしてくれたのはあんただろう? こいつにばっかりしゃべらせてないで、少しくらい自分で弁解してみようって気にはならないのかい!?」
 仮にも黄金聖闘士に向かってのこいつ呼ばわりはともかくとして、実に最もな言い分である。
 こうして矢面に立たされた、この事態の要因でもある は、苦々しく顔をしかめるカノンとは対照的に眉一つ動かさなかった。ただひたすら無表情を保ったまま口を開く。
 どうせならそのまま黙ってやり過ごしてくれればいいものを。寸でのところでカノンは舌打ちをこらえた。
 どういうわけだか は、余計なことだけは妙にはきはきと言ってくれてしまうのだ。狙っているのか天然なのか、カノンとしては判断に苦しむところである。
「別にあなたの任務を邪魔するつもりはありませんでした。それどころかあなたたちが現れたお陰で少しばかり作戦を変更しなければならなくなって、結果的に計算どおりの成果を出せなかった以上、むしろ邪魔されたのはこちらの方だと思いますが」
「なんだって!? まさかあんた、悪いのはあたしらだって言うんじゃないだろうね!?」
「良いか悪いかは私の判断するところではありません。あの場に居合わせたのには、あなたにはあなたの、私には私の理由がそれぞれあるからです。私はただ結果論を述べているに過ぎません」
「…………っ!!」
 今にも歯軋りが聞こえてきそうだ。仮面に遮られてはいても、シャイナが今どんな表情をしているのかは手に取るようにわかった。おそらく怒りで顔を真っ赤にして鬼のような――仮にも女性に対して使う言葉としては適切ではないかもしれないが――形相をしていることだろう。
 対する は、それこそ仮面でも被っているかのように表情が全く変わらない。あれだけ言われたというのにその目には怒りの色はなく、突然こんなところで足止めを食らっているというのに、貴重な時間を取られたことに対する苛立ちすら見受けられない。
 それなのに、止せばいいのに挑発まがいのことまで言ってのけるのだ。もしかしたら、やっぱり突然喧嘩を吹っ掛けられて憤ってはいるのかもしれない。
「私の行動の自由は、あなたがたの女神様によって保障されたものです。そのことについて何かご不満がおありなら、直接上の方に奏上してごらんになってみてはいかがです?」
 シャイナは完全に言葉に詰まった。――怒りの為にか、肩を震わせながら。
 その様子を、冷たいとさえ感じさせないほど感情を窺わせない目で見遣って、 はシャイナに背を向ける。
 悠然と歩いて、一顧だにしなかった。
 握った拳をふるふると振るわせるシャイナと静かに歩み去る の両者を交互に眺めて、カノンは深く溜息をつく。
 同僚の誰かが今の自分を見たら十中八九兄と間違えるだろうなと、そんなどうしようもないことをふと考えた。


 ***

 その日の夜。
  とカノンに招集がかかった。それも女神直々のお呼びである。しばらく日本にいて、昨日戻ってきたばかりの女神からわざわざ声がかかるとは、どうにも良い気分ではない。
 昼にシャイナが に言われたとおり女神に直談判でもしたのかと、カノンは少なからずうろたえた。
 二人揃って大人しく謁見の間へ向かう道すがら、カノンは に恨めしげな視線を向ける。
「まったく……お前があんなことを言うから……どうするつもりだ?」
「どう、って?」
 いかにも不思議そうに聞き返されて、カノンはがっくりと肩を落とす。
 まさか自分で言ったことを忘れてるんじゃないだろうな。
「これで本当に行動が制限されたら、それは自業自得だ。――わかっているのか?」
 脅しが半分入ってしまったのは認めよう。
 それほどカノンは昼間、二人の女に挟まれて胃の痛くなるような思いをしたのだ。まったく、女同士の諍いというのは、男同士のそれに比べて底知れない恐ろしさがあるものだと、齢三十近くにもなって初めて知った。
 それはさておき。それこそ自業自得だと、あえてそんなふうに言ってみたのだが、どうやら相手が悪かったようだ。全く効果がないばかりか、カウンターまで食らってしまった。
「あなたの信奉する女神は、その程度の方なの?」
 あくまで口調は柔らかく、それでいて短くとも辛辣な一言。殊更に浮かべた笑顔の、なんとも嘘臭いことか。
 カノンは大きく溜息をついた。それはもう、これみよがしに。効かないとはわかっているが、これも一種の嫌味である。降参するより他にないカノンの、せめてもの意趣返しだ。
「……本当にたいした女だな、お前は……」
「それはお褒めいただきまして、どうも」
 やっぱり効かない。悔しいことこの上なかった。
 そんな不毛なやり取りをするうちに、昼間、シャイナともの別れした問題の謁見の間の前まで来ていた。
 カノンはもう一度溜息をついた。後ろからついてきている を振り返る。何の気負いも懼(おそ)れもない。ならばカノンも腹を括るしかない。
 重い扉を押し開けた。

 ***

 カノンにはああ言ってはみたものの、さすがに楽観視しすぎたか。 は誰にも気づかれぬよう、そっと嘆息を漏らした。
 謁見の間には を呼び出した張本人である女神、そして当然のことながら教皇シオン、更には黄金聖闘士が数人、雁首を揃えていたのである。
 だがしかし、珍しい顔ぶれと言えなくもない。
 このような場には大抵控えているサガが、今日はいない。
 そして黄金聖闘士たち。今日は確実にここ聖域にいるはずなのに、今この場にいない者があり、そしてここ最近姿を見かけていなかった者がいたりする。
 その筆頭は牡羊座のムウ。次に牡牛座のアルデバラン。
 この二人はしばらくの間見かけていなかった。
 そして魚座のアフロディーテ。彼はこの一週間ほど女神の護衛として日本へ同行していた。
 それから聖域滞在組としては獅子座のアイオリア、山羊座のシュラ。
 他にも聖域にずっといた者はいるはずなのだが、なぜか呼び出されたのは彼らだけのようだ。
 いずれも燦然と黄金に輝く聖衣を身に纏い、両脇に控えてどういうわけか全員が神妙な顔つきをしていた。
 そんな彼らを怪訝な面持ちで眺めつつ間の中央まで進み入ったカノンが片膝を突いて礼をとる。 は胸に手を当てて半歩引き、腰を屈める礼にとどめた。
 最初にここで教皇と女神に謁見したときにもそうだったように、玉座には教皇シオンが、そしてその傍らに女神が寄り添うように立っていた。よく考えなくても奇妙な光景である。
 先ず口を開いたのも女神だった。本当ならば先触れを教皇か、その下の者がしてからでないと御大は喋ったりしないものではないのだろうか。
 シオンが少々苦い顔をしているのが、その証拠のように思えた。
「突然お呼び立てしてしまってすみません、 さん、カノン。そして黄金聖闘士の皆さんも」
 女神直々の謝辞に、両脇を固めた聖闘士たちは一斉に頭を下げた。その様子を眺めていた所為で、カノンも面を伏せるのが一瞬遅れたのを は見た。
 妙な感じだ。昼間の一件が原因ならば、今ここに呼び出されているカノン以外の聖闘士たちは既に何らかの話をされているはずである。しかし今の女神の言葉は、今初めて彼らに声を掛けたといった風情だ。
「皆さん、顔を上げてください」
 鶴の一声で、全員が壇上の女神に視線を戻した。 も顔を上げる。
 この場の全員が注視する中、少しもそれを気に掛けることなく、女神は優雅な足取りで段を下った。合わせて、聖闘士たちの気配がざわりと揺れる。
  はカノンの横顔をちらりと盗み見た。目を見開いているところを見れば、相当に驚いているように見受けられる。では他の聖闘士たちもカノンと同様、女神の突然の行動に驚いているのだろうか。
 当の女神は皆と同じ場所に立って、ぐるりと全員を見渡した。口を開く。
「折り入ってお願いしたいことがあって、今日この場に皆さんをお呼び致しました」
 あっけにとられていた面々の中で、一番回復が早かったのはムウだった。
「お願い、などと――アテナ、我々はあなたの聖闘士です。何なりとお命じ下さって構わないのですよ」
「その通りです、アテナ。我等はその為にここに在るのですから」
 マントさばきも華麗に、アフロディーテが一礼して見せた。
 他の者も、何も――ムウとアフロディーテが全て代弁してくれたので――口には出さなかったが、それぞれ大きく頷いている。
 その様子をたおやかな笑みと共に見遣って、女神はゆるゆると首を振った。
「ありがとう。でも、今日はアテナとしてではなく、城戸沙織個人として、皆さんにお願いがあるのです」
 その言葉に、全員が一様に眉をひそめた。―― を除いて。
 城戸沙織として。グラード財団総帥の彼女が。聖闘士に。聖域に。依頼したいことがある。――この時期に。
  の中に集積されていたいくつかの情報がぴたりと出揃い、同じ枠に収まった。
 女神が次の言葉を発する前に、 は自分の考えを声に出す。
「二週間後にここギリシャで開催予定のパーティにおける、警護のご依頼でしょうか」
 さすがに女神は驚いたようだった。大きな目を更にまんまるに見開いて、口許に手を当てた。
「……よくご存知ですね。あまり一般には公表されていないはずの予定なのですが」
「でも隠されているわけではありません。一定の条件を満たした人物、もしくはその係累の方でないと招待されず、それでいてその場で政治経済に与える影響が大きいわけでは決してない、いわゆる本当の意味での”パーティ”ですね。招待客のリストも、どんなに調べたところで出てこない。どういうわけかマスコミも嗅ぎ回らない。なにかそのような不文律のある、いわくつきの集まりのようですが」
 淀みなく語る に、女神は心底感心したようだった。
「その通りです。本当に良くご存知ね――では」
 突然笑みを硬くした女神に、 は頷いて見せた。
「はい。……テロが予告されていることも知っています」
 場が一気にどよめいた。女神と 以外の全員が驚愕の声を上げたのだ。
 それまでひとり壇上から様子を静観していたシオンもついに立ち上がり、女神の元へと降りてきた。
「会合出席に際して、常には聖闘士の護衛をお求めにならないのに何故今回に限っては聖闘士を――それも黄金聖闘士をこんなにも多数ご所望になるのかと訝っておりましたが……まさかそのような不穏な予告がなされているところへあえて赴かれるおつもりだったとは、このシオンでもさすがに考えもしませなんだ」
 これ以上ないだろうというほど渋い顔をして、シオンは長身を屈める。自らの崇める女神と目線をしかと合わせた。
「アテナ。ご再考賜りたく、伏してお願い申し上げます」
 願う、と言いながらも、その口調は明らかに諌めるためのものだった。
 じっとみつめられて、さしもの女神も困ったように目を逸らす。もっとも誰に目を向けようと、この場の誰もがシオンと同じ意見なのだ。助け舟を出してくれるものはいない。
 女神は小さく溜息をついて、改めてシオンに向き直った。
「私が出ない。それだけで、一体何の解決になりましょう?」
「アテナ……」
 咎めるように名を呼ぶシオンを、女神は発言を続けることで制した。
「私ひとりが出席せずとも、パーティは滞りなく開催されます。主催側もこの予告は先刻承知の上なのです。どのような理由であれ、卑劣なテロに屈する姿勢を見せるわけには行かないという信念のもと、予定通りの開催が決定されたと聞いています。私は、その姿勢に敬意と共感を覚えました」
 一旦言葉を切ると、女神はひたとシオンを見つめ返す。
「なのにシオン。あなたは私に、そのようなならず者達に屈する屈辱を味わえというの?」
「……アテナ」
 今度はずいぶんと弱々しく、シオンは奉ずる女神の名を呟いた。言葉を掛けようとして、多分見つからなかったのだ。
 女神は表情を緩めた。それでも口調は緩めない。
「主催側でもかなり強固な警備体制を敷くでしょう。そして私が参加すれば、それをより堅固なものにできるのです――あなたたち、聖闘士という存在によって」
 くるりと皆を見渡して、女神は高らかに訴えかける。
「聖戦も終わった今、あなたがたが――私たちが戦うべきはもはや神ではなく、人の中に宿る悪そのもの。私は、私の聖闘士たちはその為の力と意思を持っていると信じています」
 シオンがその場に跪いた。続いて、黄金聖闘士達が次々と跪き、彼らの主神たる女神に恭順の意を示す。
 それはあたかも静かな水面に波紋が広がっていくかのようだ。
  はあっけに取られてその様を眺めた。ある意味見事な光景だ。
 その中でひとり だけが取り残されて、彼らとの距離をまざまざと見せ付けられる。
 聖域に来てからかなりの時間を共に過ごすことになってしまったカノンですら、今はこんなにも遠く感じられる。

 ひとりなのだと。今更ながら唐突にそう思った。

 最近はいつも誰かが――そのほとんどはカノンだが――傍にいた。だから、なんとなく忘れてしまっていた。
 本当は、ひとりなのだ。当然だった。 はひとりで、こちらに来たのだから。物理的には近くても、そうでない部分ではこんなにも遠い。
 遠い。
 ふと浮かんできたくせに、今にも溢れそうになっている思いを振り切るように、 は目を逸らした。
 ――その先には、女神。
 女神は の視線に気づくと、にっこりと笑ってみせた。その優しく、強く、彼女から立ち上る気配――それが恐らく小宇宙というものなのだろう――と同じく、慈愛に満ちた笑み。
  でもわかる、聖闘士と女神の差。
 人と神の差。
 これほどに隔たりが大きいのならば。
 女神もやはり、ひとりなのだろうか。

 そんな思いを、微塵も垣間見せたりはしなくとも。

沈黙の理由1 END


2010/02/01


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