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「ずいぶんと違う雰囲気になるものだね」
最終打ち合わせの場所に指定された部屋に一番乗りしていたアフロディーテは、二番目に入ってきた人物をかなり感心した様子でそう評した。頭のてっぺんから爪先まで、文字通りじっくりと眺めて、満足げに笑う。
「本物の沙綾嬢は童顔だったけど、22歳だというからね。そのくらい大人びていた方がむしろ本物らしいよ。化粧の仕方なんかも堂に入っているね。もしかして、そういったことも訓練されているのかい?」
はい、と頷いたのは である。
いつもなら結んでいる髪は下ろされ、鮮やかな青い色のドレスを纏っていた。最近ではありがちな肌の露出の多いものではなく、露出は少ないものの身体のラインにぴったりと沿って、却って色気を感じさせる東南アジアの民族衣装風なそれは、 の趣味なのか手配した女神――今日は城戸沙織と呼ぶべきだろう――の見立てか。あえてアジア風の衣装を選ぶことで、西洋的とも東洋的ともどちらつかずの の容貌が東洋側に傾いて見えていた。
理由はなんにせよ、良く似合っていた。しかし雰囲気がいつもより柔らかいように感じられるのは、衣装や化粧だけの所為ではないだろう。
「なるほどね。より日本人らしく見えるよう、瞳の色も変えているんだね。それはカラーコンタクト?」
「はい――ちゃんと東洋系に見えるでしょうか?」
首を傾げる動作につれて、 の肩から下ろした髪がはらりと前の方に零れ落ちた。その髪を一房、丁重な仕草ですくい上げて、アフロディーテはにっこりと微笑んで見せた。
「大丈夫だよ。アテナに比べれば、よほど東洋人に見える。髪の色も、最近は変えている人が多いからね。違和感はないよ」
言ってアフロディーテは腰を屈めて、すくった の髪に唇を寄せるようにした。淑女の手を取り、挨拶のキスでもするかのような優雅な動作。洗練されたその動きから、今回城戸沙織が彼を抜擢した理由が窺えた。
「髪の色はそれ以上変えることができなかったので少し気になっていたのですが……そう言っていただけて安心しました」
の言葉に、アフロディーテは伏せていた目を上げた。至近から今は茶色い の瞳を覗き込む。
「これ以上変えられない……? この色は君の本来のものではないのかい?」
少し気まずげに は頷く。
「ええ。……本当はもっと薄い色です」
へぇ、とアフロディーテは手にしたままの髪をまじまじと見つめた。
「もっと濃い色の染毛剤でも、もう色が入らないのかい? それとも落ちてしまうのかな。地毛はブロンド?」
「ええ、まぁ……カノンよりも色の薄い金髪ですね……」
言いながらアフロディーテが手にした自分の髪を、取り戻すように手繰り寄せた。
「……ナノマシンで髪の色も変えられるんです。設定を変えるかナノマシンが死滅しない限り、色が変わらないんです。でもそうしてしまうと、薬剤が効かないので……」
笑んではいたが、どこか困ったようでもあった。アフロディーテは髪から手を離す。屈めていた腰を伸ばして、それ以上の追求をやめた。
着るものはともかくとしても、 はあまり身仕舞いに頓着するようには見えない。それなのにナノマシンを使ってまでして――先の言葉からすると永続的に――髪の色を変えるとは、なにか事情があってのことなのだろう。
***
「支度ができているのはお前達だけか? 他の者はまだ来ていないのか?」
ノックもせずに入って来るなり、三番目だったカノンが先客二人に問いかけた。アフロディーテと同じく黒いスーツに身を包み、珍しく髪を後ろでひとつに纏めている。これでサングラスでも掛けていようものなら、護衛というよりその筋の人間だ。
「こんなお仕着せのスーツを着るだけだというのに、女よりも支度に時間がかかるとは……何をやっているんだ、奴らは」
ぼやくカノンにアフロディーテが苦笑する。
「こういった任務には慣れていない人間が多いんだよ、今回は。 が早かっただけさ」
言いながらアフロディーテはカノンを一通り眺めた。その視線をカノンは嫌そうに受け止める。
「なんだ?」
いや、とアフロディーテは肩をすくめた。
「あなたが意外とこういったことに慣れていそうなのが、意外で。思った以上にさまになっているんで、驚いたんだ」
「……奴らと違って、俺は外の世界に長かったからな」
ぼそりと言い捨てて、カノンはそっぽを向く。そのまま壁の時計に目を遣って、眉をしかめた。
「港にはあと二時間後までには着いていなければならんのだぞ。間に合うのか……?」
「女神のお支度に時間がかかっているみたいだから、他の人が早くても仕方ないわ。それにああいうところは少しくらい遅れても失礼にはならないから……」
やんわりと、 がカノンを宥めた。カノンは声の主に目を遣る。
大きな窓の脇に立ち、 は珍しく壁に背を預けていた。少しばかり少女趣味過ぎる繊細なレースのカーテンが、さんさんと輝く陽の光を弾いてなおいっそう白い。半分ほど開かれた窓からの風に煽られて、 を掠めている。その影がちらちらと顔に薄くかかって、それでも彼女の頬の白さを損なうことはできていなかった。
カノンは彼女につかつかと歩み寄る。腰を引き寄せ、 を壁から引き剥がした。
「……?」
軽く目を見張って見上げてくる を、カノンは部屋の中ほどに据え置かれたソファまで連れて行き、座るように促す。小さく苦笑して、 は大人しくソファに腰掛けた。もう一度カノンを見上げる。その視線を受け止めて、カノンはわずかに頷いて見せた。
この間、二人とも無言である。傍で見ていたアフロディーテは半分感心しながら、もう半分で呆れかえっていた。
ここ数ヶ月の間で随分と意思の疎通がスムーズになったようである。というより、これではスムーズ過ぎるだろう。もう少し言葉を交わして見せたらどうかと思わないではいられない。
――なにしろ今、この部屋には三人しかいないのだ。これではなんだか自分ひとりが爪弾きにされたような気分である。そのままでいるのはさすがに面白くない。果敢にも、二人の間に割って入ってみようと試みる。
「もしかして、 はヒールの高い靴は履き慣れていないのかい?」
は肩をすくめた。
「……ええ」
「いつもスポーツシューズのようなものしか履いてないな、そういえば。それも特別仕様の」
冷やかすようにカノンが横槍を入れる。アフロディーテは思わずまじまじとカノンを見つめてしまった。この男がこんな喋りをするところなど、今まで見たことがなかった。
そして更に驚くべきはその表情だ。いかにも意地悪そうな笑みを浮かべて見せてはいるが、意外なほど穏やかな目をしている。
――そこで唐突に気づいた。
そうだ。彼はカノンなのであって、決してサガではないのだ。今抱いた感想はすべて、アフロディーテが良く識るサガを基準にしたものではなかったか。
これまで、いかに自分がカノンのことをわかっていなかったのかが、よくわかった。
あまり皆の前では自分を晒け出そうとしていないのだ、カノンは。だから誰もが彼をサガと混同して見てしまう。あえてそれを狙っているのか、それともその生い立ちの所為でそのように振舞う癖がついているだけなのかはわからない。
しかし、ようやくわかった。理解したと言ってもいい。
彼はサガとは全く違う人間なのだと。サガを――あの人格も、今の人格も含めて――良く識っているアフロディーテだからこそ、たったそれだけのことで心の底から納得できた。
サガだったら絶対にしないだろう笑い方。話し方。そしてその眼差し。もしかしたら何もかもが、サガよりも穏やかで安定している。
否。比べることは愚かだ。全く違う別個の者を比べようなどと。
黙りこんでしまったアフロディーテに構わず、 とカノンは会話を進める。
「特別仕様って……そんなにおかしな仕掛けはしてないわ。磁石が入っているだけです」
「地上の人間にしてみたら十分おかしい。――というか、その口ぶりだともっと変な仕掛けをしている奴もいるということか?」
「まぁ……いろいろ仕込んでいる人は知ってるけど……」
「いろいろ? なんだ? 具体的に言ってみろ」
「なんでそんなことを言わなければならないの?」
「俺が気になるからだ」
「…………」
ほんの少し放っておいただけでアフロディーテは更に置いていかれてしまっていた。無言で通じ合うのは止めてくれとは思っていたが、これはこれで入り込む隙がない。
少々鼻白んだように一瞬口を閉ざしてしまったというのに、それでも は律儀に答える。
「刃物とか爆薬なんかを仕込むのは常套手段よ。他にもあるらしいけど……まだ知りたい?」
不本意そうに口を尖らせ、上目遣いでカノンを見上げる の表情もまた、少なくとも大勢がいる場では決して見たことのないものだ。いっそ無防備と思えるほどに自然な。慣れた人間の前でしか晒け出すことのない、これが彼女の素の顔なのだろうか。
だとしたら、やっぱり二人の間には分け入る余地はないのかもしれない。
軽く溜息をついて、アフロディーテは近くにあったテーブルに寄りかかる。二人の様子を静観することに決めた。
「いや、もういい。大体わかった。しかしそれではまるでテロリストだな」
「当然よ。もともとテロリストだったんだもの」
「……お前の仲間がか?」
「仲間というより、上司です。もともとテロ組織の尖兵として訓練された人なの。だから今、政府のカウンターテロ部隊の幹部でいられるのよ。テロリストの手口には誰よりも詳しいから」
なんとも色気のない会話である。しかしなかなか面白い。勿論、会話の内容のことではない。
どうやら似たもの同士のようだと、アフロディーテは心の中で断定した。
この一年近く彼が見てきたカノンという人間は、余程のことがない限り他人に心を許したり簡単に信用してしまったりする性質ではない。全てのことに対して悪く言えば懐疑的、良く言えば慎重に過ぎる面があるように見受けられた。
一方の は少々人見知りが激しいような感じがする。――まだ語れるほど良く彼女を知っているわけではないので、この程度の感想に留まるのだが。
そんな二人がこうまで他人を受け入れている。それは決して意識を共有してしまったという理由だけはないだろう。どこか似通った面があるのだ。それが互いを安心させている。そのように感じた。
それが互いにとって良いことなのか、悪いことなのかは別にして。
そういえば少し前に、アイオリアと話したことがあった。ふとアフロディーテは思い出す。
彼とは宮も離れているし過去のこともある。あまり親しくしていたわけでもなかったが、顔を合わせれば意外と彼はアフロディーテに好意的だった。
( がなかなか口下手みたいだったんで、驚いた。教皇や女神にはあんなに堂々と話していたのにな。カノンも結構無口な方だろう? あの二人、あれできちんと意思の疎通ができているのかどうか、思わず気になってしまった)
相当恨まれているものだと思っていた。
かつて彼らの上に立っていた教皇が偽者であることを知っていて、その上でその教皇に追従していたのだ。それをアイオリアはアフロディーテが死んだ後に聞いただろう。そして思い至ったはずだ。それまでアイオリアが兄のことを理由に受けてきた誹謗や中傷は、少なくともアフロディーテから受ける謂われはなかったのだと。
それなのにアイオリアはなんのわだかまりもないかのように、アフロディーテに話しかけるのだ。アフロディーテにはそれが居たたまれなくもあり、嬉しくもある。
そう――嬉しかったのだ。アイオリアに対して、この世に対して不義を働いてきたアフロディーテを、彼は赦し、仲間と認めてくれたのだ。嬉しかった。
恐らくことの仔細をつまびらかに告白し、改めて謝罪するようなことをアイオリアは望んでいない。そういったものを乗り越えて、後のハーデスとの戦いにおけるアフロディーテの行いを以って、アイオリアは彼を赦したのだ。ならば。
どうやら心配の必要はないようだと、後で教えてやろう。きっと彼は屈託なく笑うだろう。――そうか、それなら良かった、と。
二度と謀ることのない誠実な言動を積み重ねて、アイオリアには償いを続けていこう。
そして新たに築いていくのだ。仲間としての絆を。今度こそまっとうに培っていけたらいい。確固たる信頼を勝ち得て。
今度こそ。