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Party Night 05
「名をなんと言ったか……そう、花のような名でした。百合に似た……」
たった一言。
それだけで、 を取り巻く空気が一変してしまった。
いや、この表現は正確ではないだろう。ただカノンがそのように感じただけだ。
もっと客観的に言うのなら、ほんの少し表情が険しくなった、と言うべきだろう。あるかなしかのその変化に、カノンは目を奪われた。
それは恐らく、不意打ちだったのだ。まるで真っ暗闇で背後から襲われたかのような。そして――被害は甚大だ。とんでもない傷を負ってしまった。
もしくは、古傷を抉られたのか。痛みに耐えている の顔は同時に途方に暮れていて、カノンはそれで思い出す。
あのとき。
やっぱり はこんな顔をしていた。
実際には、現実のこの目で見たわけではなかった。それでも”あのとき”の はどこか呆然と、意識によって形作られた宇宙を見つめていたのだ。こんな顔で。間違いなく。
そして。
カノンは記憶を手繰り寄せる。夢でもあり、
――漆黒の
視線を落とせば、わずかに瞳を伏せた がいる。その瞳が、今は黒く翳っていた。常ならば水底のような深い青であるはずだ。それが、今は違う。どうにも見慣れない。
そして――そうだ。あのときの は、いつも見ている とも今カノンが見つめている ともまた違っていたのだ。
夕暮れ前の陽の光を集めたかのような、淡い色の髪をしていた。瞳の色はいつもの と同じでも、髪の色ひとつで随分と印象が違ってしまっていた。
そのときに得た、知識。膨大な情報。そのうちのひとつ。重要な人物の情報。
思い出す。
後に――つまり、最近―― とは別にカノンが暇に任せて独自に収集したデータの中に繰り返し現れる名がある。
情報の断片。結びつく。あたかもそれぞれから枝が伸びるように。
今しがたポセイドンが静かに暴発させた言葉。極めつけはこれだ。
――百合に似た、花のような名。
それから。
・ユイ。――ユイ。
カノンの中でばらばらに配置されていた情報が今、確固たる意味を持って、リンクした。
***
「それは、いつの話なのでしょう? どのくらい昔のことなのですか?」
堅い声で問う に対して、ポセイドンの態度は実に飄々としていた。
「軽く数千年は昔の話になりますね」
あっさりとそう言い切ったポセイドンは、軽く目を眇めて を見る。
そんなかつての主に、カノンもまた目を向ける。口調からも感じたが、その顔を見ればどこか楽しげなのが一目瞭然だ。その斜め後ろ、現在の主君の少々苦々しげな表情が対照的だった。
そして、 。カノンはまた彼女に視線を戻す。――驚いた。
先程垣間見せていた陰りがいつのまにか引けていた。妙にきっぱりとした目で、ポセイドンを見返している。
ああ。カノンは確信する。 の口から飛び出す言葉が予想できた。間違っていないはずだ。カノンの推測は、恐らく正しい。
先ずは否定だ。
「ではそれは、私ではありません」
理由がある。
「そのとき、私はまだ生まれていなかったはずですし」
嘘ではない。断固として。違うのだから。
「ですからあなたがお会いになった方というのは、私のことではありませんね」
は鮮やかに笑んで見せた。その笑顔がひときわ輝いているのは、その胸のうちとは完全に反比例しているからだ。上衣の長い裾を軽くつまんで、丁寧に頭を下げる。
「申し遅れました。わたくしは と申します。海皇ポセイドン、お初にお目にかかります」
「――こちらこそはじめまして、 」
ポセイドンもまた に合わせて胸に手を当て、一礼した。これにはさすがにポセイドンの背後に控えた海将軍達も驚いたようだった。普段あまり表情を動かさないクリシュナが目を見開き、いかつい大男に化けているカーサなど、今にもサングラスがずり落ちそうである。唯一バイアンだけが怒気もあらわに を睨みつけていた。
「ポセイドン様! そのように得体の知れない女に頭を下げられるなどと!」
堪らず声を上げた配下に、ポセイドンは鋭い視線を向ける。
「控えよ、シーホース」
「ですが……」
なおも言い募ろうとするバイアンに、ポセイドンは静かに言い放つ。
「私は、この世のいかなる星の加護も纏わぬ稀なる賓客に、相応の礼を払ったまで――私は海、ひいては『
「は……?」
気勢を削がれ、バイアンの を見る目が困惑へと変わった。そんな部下を諭すように、ポセイドンは続ける。
「己の知や力の及ばぬ存在への畏怖、そして畏敬の念は、誰もが本来持ち合わせているものだということだ。それが人であれ――神であれ」
「異質な――」
不意にクリシュナが口を挟んだ。
「気配は、その娘のものでしたか」
しかし、と彼は閉ざされたホールへの扉を見遣る。その眼光が鋭かった。
「それだけではない。ここには……」
それきりクリシュナは口を噤んでしまった。すかさずカーサが問いただす。
「ここには、なんだ? 言いかけて止めるなよ。気になるじゃねぇか」
「……読めぬと、気になるか?」
うるせぇよ、とカーサはぼそりと吐き棄てた。さすがに仲間の心は読まないようにしているのだ。しかしクリシュナ相手では読もうとしても読めないような気がする。実際、ちらとも読めたためしはなかった。精神的に鍛えてある人間は難しい。
しかしこの という女は、それともまた違うのだ。ちらりと彼女を見てから、カーサは先程クリシュナが目を向けていたホールへと視線を移す。首をひねった。
「どうにもここには、お前とは違う意味で読めねぇやつが多いしな……」
眉をしかめて、カーサはぼやく。だから、と言い差そうとした言葉をクリシュナが引き取った。
「その理由が私の言葉でわかるかもしれんと思ったか?」
「そうだよ」
ぶっきらぼうに肯定したカーサに、先程から驚いたような眼差しを向けていたバイアンが恐る恐るといった調子で声をかけた。
「カーサ……その……読めないとは、どういうことだ? お前の力も及ばないような恐るべき奴らが、ここにはいるということなのか?」
「いや、恐るべきと言うかなんと言うか……」
カーサは腕組みをしてしばし唸る。俯いて考え込んだかと思えば、いきなり顔を上げて、灯りが煌々と目立ち始めたホールを見遣る。
そんなことを数度繰り返すのを、この場の誰もが黙って見守っていた。
いつの間にか空からは夕日の赤みが消え、紫紺を強く帯び始めている。ポセイドンが張った結界の所為で音こそ洩れ聞こえては来ないものの、人々の集うホールの中がよく見えた。
きらびやかなシャンデリアの光。その下で笑いさざめく人々。掲げられたグラス。着飾ったゲスト達。その胸元で、指先で、きらきらと光が弾ける。
カーサの視線につられて、いつしか全員がその様を眺めていた。
――特に変わったところなどないように見える。
まばゆいばかりの光景の中、ところどころに影が沈む。気にならない程度のものだ。目立つはずもない。それはゲスト――雇い主の動向とその周囲に目を光らせている護衛たちだ。まさしく影のようにぴったりと各々の主に張り付いている。
その様子にも、別段変わったところはないように見えた。
少なくとも表面上は。
しかしカーサの目は、その裏を見透かすのだ。
ようやく口を開いた。
「どうやって人の心を暴いているのかってのは、まぁ企業秘密ってことにさせてもらうが……条件があるんだよ」
「条件?」
鸚鵡返しに聞き返したバイアンに、カーサはご丁寧にも頷いて見せた。
「ああ。その条件に当てはまらない奴らが、ここには相当数いる。……たとえばここにも」
ひたと を見つめる。えぐるような、鋭い眼差しだった。
「お嬢さん、あんたもそのひとりだ」
その瞬間、海闘士達はえもいわれぬ戦慄を味わった。聖闘士達――そこには女神も含まれるので、聖域勢と言うべきか――が一斉に驚愕の表情を浮かべたからだ。
しかし海闘士の頂点に立つ彼等がそのように感じたからには、勿論原因はそれだけではない。
かつて――主神たるポセイドンが現世における玉体を以って君臨するまで彼等を纏め上げ、事実上誰からも筆頭と目されていた男の、見たことのないほどの険しい顔。
それはほんの一瞬でも彼等を萎縮させるのには十分だったのだ。
それほどまでに、彼は未だ彼等海闘士達にとって強い影響を与え続けている。……なんとも悔しいことに。
カノンの様子に一番おののいたのは、当然そんな発言をしてしまったカーサだ。すぐさまとりなしの言葉を口にしようとしたのはほとんど条件反射のようなものだ。
「シードラゴン、別に俺は……」
「それは本当か?」
カーサの言葉を遮って、カノンは強い口調で問いただした。カーサとしてはぽかんとするより他はない。
「……え? 本当って、何が……」
思わずしどろもどろになってしまったカーサに、カノンは難しい顔のまま復唱する。
「 と同じ『読めない』条件を持った奴らが、ここには沢山いるということが、だ」
「あ……ああ。嘘ついたって仕方ないだろう」
「そうか……」
頷きながら呟いて、カノンは隣に立つ を見下ろした。
それまで伏目がちに黙り込んでいた は、その視線を感じたのか顔を上げる。何事かを問いかけているカノンの眼差しを受け止めた。軽く首肯して見せる。
「――そうか」
もういちど同じ言葉を呟いたカノンは、今度は背後をちらりと見遣る。視線の先には島があった。ポセイドン達がこのテラスに出てきたときに見つめていたものだ。そちらに向けてわずかに目を眇めたその表情は、依然として険しい。
「随分と気にしているようだね――あの小島を」
できるだけ軽い口調で、ポセイドンはカノンに声を掛けてみた。
今日のカノンの様子はおかしい。他の聖闘士たちとは明らかに違う。その理由が何なのか、大いに興味を引かれたのだ。
果たしてカノンはどこか慌てたようにポセイドンが指摘した背後の小島から視線を外した。そしてその視線は、ポセイドンに向けられる前に、 へと向かった。
その は、カノンがポセイドンの言葉に反応したのと同時に弾かれるように目を上げていた。ポセイドンを見据えている。だが口は開かなかった。そしてカノンは、そんな を見つめているきりだ。
それでやっと、ポセイドンにも薄々ながらも事情が飲み込めた。
鍵を握っているのは、 だ。カノンはそれに付き従っている。もしくは見守っているだけだ。
たぶん前者だろう。ポセイドンは見当をつけた。
今はアテナに堅固な忠誠を誓っているカノンだ。当のアテナが同席する場で勝手な行動を取るとも思えなかったし、なによりも重要なことだが―― からは、アテナの息吹のようなものが感じられるのだ。ならばカノンほどの実力者が付き従い、他の黄金聖闘士が2人もついているのも道理というものだろう。
そしてそのことはポセイドンに、やはり、という懸念を抱かせるのには十分だった。
自らが治める海の聖域。その近くで不穏な動きがあった。だから調べさせた。
ごく最近のことだ。
そうして抱いた懸念と、それは根が同じものだと、神代からの記憶がそう告げている。
「……あの島はここしばらく、やたらと人の出入りが多いところだ。人だけではなく、妙なものも沢山運び込まれている。それも、人目を避けるようにしてね」
アテナが何を考えているのか。ポセイドンは測りかねているのだ。
平和を標榜し確かな意思と力を以って、ポセイドンとハーデスという事実上格上の二神を抑え込むことに成功した今生の若き女神。
彼女が何を思い、何を望んでいるのか。
自らも一度はぶつかり、そしてハーデスとの対戦を傍観していた彼には、わかったような気がしていたのだ。
しかし、それはなんと根拠のない思い込みであったことだろう。
ジュリアンの中でまどろんでいたときとは違い、今や彼の持つ記憶は鮮明だ。それに縁れば、現在アテナが抱え込んでいるものは、あまりにも危険すぎる。
確たる考えがあってのことだというのなら、その狙いがわからなかった。
それとも何度も繰り返し人間として生まれ、そして死んでいった彼女の記憶が、もしかしたら曖昧になってしまっているのかもしれない。だからポセイドンが――かつて同じ時代を生きた神々ならば――感じる危機感を、そうとは知覚できずにいるだけなのだろうか。
わからない。何一つわからなかった。
ならば、確かめなければならない。
「似たようなものを、私は見たことがある」
ひたと を見据えた。
この世界のものではない彼女には、ポセイドンという名の神たる威光は何の意味も持たないのかもしれない。少なくとも、あのときはそうだった。
――否。
ポセイドンだけではない。あのときには揃っていたどんな神々の存在すら、彼らの前では無意味であったのだ。
「そして先にも言ったとおり、あなたとよく似た人も、私は見たことがある。今度は――」
ここまで言えば、アテナも気づくだろうか。自分が一体、何を抱え込んでしまっているのかを。
「何がもたらされるのだろうね?」
そして、なによりも問題は目の前の だ。彼女があの時の当事者でないだろうことは理解した。
だが彼女は一体、なにをどこまで知っているのか。ポセイドンの懸念をわかっているのかどうか。確かめなければならない。
返答如何にによっては、ポセイドンはアテナとの和平協定を破ることにもなる。
「……わかりません」
真意を探るポセイドンの眼差しを、 はどこか戸惑ったように受け止めた。眉をひそめて、ポセイドンの視線から逃れるように俯く。
もう一度、つぶやいた。
「わかりません。私には――なにも」
「わからない、か」
揶揄するようにポセイドンが復唱すると、 は俯いた顔をゆっくりと上げる。
「私よりも、あなたの方がいろいろなことをご存知なのではないのですか?」
そう言って見上げてくる の瞳は恐ろしいほど真摯だった。
「さあ。どうだろうね――知りたいのかい?」
「情報が」
ポセイドンの問いに、 は間髪を入れずに即答を返す。
「決定的に不足しています。現在の状況も……過去のデータも」
軽く唇を噛んだ。再び俯く。
その様子がとても悔しそうだとポセイドンは思い、それでやっと、抱いていた懸念が少しばかり薄らいだ。
ちらりと背後に目を遣れば、アテナが柳眉をひそめている。気まずげなその表情は、ポセイドンを少しばかり満足させた。
大丈夫だ。彼女は、ちゃんと覚えていた。
それでポセイドンは少々気を良くする。それならば、アテナがあえて彼女に語ろうとしていないらしい事柄を、止められるまでは教えてやろうか。
せっかくそう思ったのに、カノンが になにやら入れ知恵をしていた。彼女の肩を軽く叩き、小さく首を振って見せている。神頼みはリスクが大きいからやめておけとか、多分そういうことが言いたいのだろう。
カノンが懲りたであろう神本人であるポセイドンは、当然そのくらいのことは察した。そして元上司の心を読むなどと大それたことはできないものの、うっかり類推してしまったカーサにもそれがわかった。
だがいくらなんでもこの場でそんなことを口に出せるわけもない。さてどうするかとポセイドンは意地悪げに、カーサは他人事ながらも半ばはらはらと見守る。
だから が小首を傾げてカノンを見上げ、項垂れるように頷いたのには二人とも驚いた。
その表情は夕闇にまぎれてもう定かではない。しかしどことなく苦笑気味であったように見えたのは、張り詰めていたカノンの緊張がわずかにほぐれたように感じられた以上、間違いはないだろう。
思わず顔を見合わせた海皇とその僕の困惑ぶりに、もう二人の海将軍も戸惑いを隠せない。
そんな彼等を―― とカノンも合わせて眺めやり、魚座の聖闘士がやれやれと肩をすくめた。やはりあの出発前に、人前でのコミュニケーションのとり方について多少なりとも忠告しておくべきだったと後悔しながら。