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Party Night 06
夕日の残照はそろそろ夕闇に駆逐されそうだった。テラスに吹き付ける風は湿り気を帯びはじめ、肌に冷たい感触を残していく。
それに引き換え、人々が集うパーティ会場の明かりはいよいよ煌々と輝きを増し、人々の熱気すら感じられるほどだ。ここからでは聞こえないが、喧騒もピークに達している頃だろうか。
しかし今、この世に現出した神が二柱も居合わせるという極めて尊く稀な場は、そのような俗世から完全に隔絶されていた。
この場に居合わせた聖闘士達の海皇の前ではなるべく沈黙を保とうとする姿勢は、神というものに対する畏敬の念から出たものであって、それ以上でも以下でもない。
だから交わされる会話に耳をそばだてつつ、海皇が敷いた簡単な結界の向こうにも注意を払っていたムウが全員に向かって警告を発したのは、決して話の腰を折るためではなく単なる親切心からのことだ。
「こうしていられるのも、そろそろ時間切れのようですね」
果たして皆がムウに注目した。次いで、まばゆい室内へと視線を移す。
「……ああ。確かにな」
多少怪訝な顔をする者もいる中、真っ先にカーサが反応してみせた。
「ポセイドン様も、そっちの女神さんも第一級のゲストだからな。いい加減、姿が見えないことに気づいて探し始めた奴らもいるみだいだ」
それに、とカーサは に向かってにやりと笑いかけた。
「ミス『サアヤ・キド』にも随分関心が集まってるしな。なにしろ初めて姿を現した、世界のグラード財団への新しい足がかりだ。せっかくの機会をむざむざ逃したくない奴らがわんさかいるぜ。それが偽者とはねぇ……あのハイエナみたいな奴らも、そうと知ったらさぞ驚くことだろうな?」
わざわざ嫌みったらしく言ってみたのだが、 は一切表情を変えることはなかった。ただ軽く肩をすくめただけだ。
心の中ばかりか表情まで読めないと来たか。カーサが寸でのところで舌打ちをこらえることができたのは、 の代わりにカノンが渋面を作ったからに他ならない。
「どうする?」
ひどく短いカノンの質問に、 もやはり短く答えた。
「大丈夫よ」
顔を上げる。煌く灯りに眇められた瞳は、あたかもその先にあるものを鋭く見据えているかのようだった。
「一旦戻りましょう。――その後、頃合を見計らって退場した方がよろしいでしょうか?」
質問はアテナに向けたものだ。問われたアテナは軽く目を瞠って、はっと口許に手を当てた。
「 さんがここにいらしたのは……もしかして……?」
そういえばここに来る前、アテナ――沙織自身もグラード財団と何とかして誼を結ぼうとする輩に手を焼いていたのだった。ポセイドンはその様子を思い出し、ひとり静かに苦笑した。
この様子では、どうやらアテナはそういった事態を想定しておらず、 にも対処法の指示を出していなかったようである。知恵も司る女神にしては随分な失態だ。
それに、とポセイドンは に目を遣る。会場から抜け出してこんなところに退避せざるを得ないほど、沢山の人間から声を掛けられてしまったのだろう。無理もない。
城戸沙織の縁者であるプロフィールを見る限りでは、彼女は二十歳を少し超えた妙齢の女性ということになっていた。その上、この容姿だ。もしも彼女がグラード財団の関係者でなかったとしても、同じような状況に陥っていただろう。
恐らくアテナはそこまで考えが至らなかったのだ。自らが年齢的に若すぎることもあって、そこまでの目にはまだ遭っていない――それこそ覚醒前の『ジュリアン』が異例だったと言っても良い――ので、そういった事態が起こりうることを想像できなかったのだと思われた。
それらを責めるそぶりは全く見せず、 は沙織の言葉に沈黙を以って応えている。なのに、初めから と共にここにいた聖闘士の一人が、よせばいいのに余計な進言を始めてしまった。
「畏れながらアテナ。他のゲストと比べてみても、明らかに に近づいてくる輩が多すぎます。さすがにあれでは……」
言いにくそうに言葉を濁して、アイオリアは癖の強い栗色の髪をくしゃりとかきあげる。その横でやたらと目つきの鋭いシュラが、今は切れ上がった目じりを苦笑の形に下げていた。
「こういった場での立ち居振る舞いが身についているのはいいことなのかもしれませんが、却ってそれが裏目に出てしまったような……」
「どういうことです? アイオリア、シュラ?」
あえて遠回しにした言葉の意味を問いただす主に、聖闘士たちは顔を見合わせて肩をすくめる。やがてシュラが事務的な口調で沙織に報告しはじめた。
「調子に乗ってプロポーズまがいのことを口にする輩まで出てくる始末でして。このままでは今後、本物の『城戸沙綾』嬢にも累が及びかねない、それは拙いのではないかとカノンが強固に主張するので、仕方なく先程このような場所に一時避難をしにきた次第です」
「…………おい」
いきなり名前を出されて、カノンが低く唸った。しかし女神の御前だからかそれ以上の追求はせず、わずかに目を泳がせる。それからいったん目を閉じて、すぐに開いた。女神に向き直り、至極真面目な口調で告げる。
「これ以上 に『城戸沙綾』を演じさせては、本物の沙綾嬢に悪影響が及ぶ恐れがあります。恐れながら『城戸』の名の魅力は人を惹きつけすぎるのです。会話に応じないわけにも行かない状態でこれ以上 に相手をさせては、今後色々と――」
言い募るカノンを は途中で制した。自分の対応能力を見くびられているのが面白くない。
「私なら、大丈夫です。さっきも言ったけど、対応だって間違えたりはしていないわ」
言葉の腰を折られたカノンは同様にやり返す。
「どの口でそれを言う? それこそさっき俺も言ったが、お前の対応はとてもじゃないが見ていられない部分も多かった。第一、過度なスキンシップを受け入れすぎだ。お前の常識とこちらでの一般的なそれとに、ある程度のズレがあることも考えろ」
「考えています。ちゃんと周囲を見て、参考にしているわ」
「所詮付け焼刃だろう」
パンパンと手を打ったのはポセイドンだった。
あっけに取られていた面々が、はっと我に帰る。 とカノンに全員の視線が突き刺さった。憮然とする二人をポセイドンもまた半眼で見つめる。
「本当に、そろそろ戻った方がいい頃合だ――痴話喧嘩なら他所でやるがいい」
言い放ち、ゆったりと踵を返す。同時にまるで薄いガラスが粉々になるかのような微かな音が全員の耳に届いた。テラスの扉に施されていた結界が霧散する。
瞬時に会場の喧騒が戻ってきた。海に面したこちらの壁は景色がよく見えるようにと、ほとんどガラス張りになってはいるが、勿論防弾強化ガラスである。それほど音がこちらまで筒抜けということはない筈なのだが、それでも結界を解いてみればその騒々しさは桁違いだ。
かりそめの神域から人の世界へ。
静かで荘厳だが、停滞した空間が消え去った。かわりに残されたのは粗野でどこか殺伐としながらも、決して空虚ではない活気の溢れる現実という名の場所。
ポセイドンはそちらへと戻る。途中、困ったように立ち尽くしているアテナの肩を叩いて共に戻るように促した。かつての姪は素直に頷き、煌々と灯る明かりの方へと顔を向ける。一瞬、眩しそうに目を眇めた。
――実際、眩しい世界だ。
雑然とし、儚いようでいて意外としたたかで力強い。無知ゆえに無垢なのか、すでに汚濁にまみれているのか。未完成なのか、それとも爛熟し切って崩壊しつつあるだけなのか。
どちらにしても、それは過去の栄光に似ていた。
だからこそ目を背けたくもなる。それでいて、目が離せないのだ。
少なくともポセイドンはそう感じている。――アテナは、どうだろう?
「 さん。……わたくし、どうやら大変なことをお願いしてしまったようですね。申し訳ありませんでした。そういうことでしたら、タイミングを見て部屋に戻っていただいても構いません。アイオリア、シュラ、カノン。あなた達はもしも異変が起きたらすぐに動けますね? それまでは さんと一緒に待機していてください」
後手に回りはしたもののきびきびと指示を下してしまうと、女神はもう臆することなく人工の光の下へと向かう。彼女に付き従う聖闘士たちもまた、後に続いた。
その様子を見送ってから再び歩を進めたポセイドンと共に、海将軍達も動く。
「…… ?」
低くひそやかな声に、ポセイドンはちらりと背後を振り返った。
カノンが に手を差し出している。その手をおずおずと取った が、結局一番最後の退出者だ。会場に戻ってもうまくやれると言い張る割に、実際には戻りたくなんかないのだ。一目瞭然だった。
その様子に苦笑し、海将軍達から怪訝に思われないうちに、ポセイドンは二人から目を逸らす。
なんとも皮肉なことだと思った。
人の世界へ戻ることを一番躊躇しているのが、本来、神の世界とは何の関係もないはずの であるということが。