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Party Night 08
あてがわれた部屋に入った途端、衆目を浴びていない状態というのががいかに快適なものか はしみじみと実感した。
ほんのちょっと溜めていた息をついただけのつもりだったのが、自分でも驚くほど盛大に聞こえてしまって思わずうろたえる。恥ずかしさからさっと周囲を見回してみれば案の定、シュラにはちらりと横目で見られ、アイオリアには苦笑された。そしてとどめにカノンに背中を叩かれる。
「お疲れ」
肩をすくめて、答えないでおいた。勿論、恥ずかしかったからだ。
そんな の態度を気に留める様子もなく、カノンは首もとのネクタイを緩めている。ついには外して放り投げてしまった。それに習ったのかどうか、アイオリアも隙なく着こなしていたスーツのジャケットを無造作に脱ぎ捨てる。気付けばシュラもいつの間にかタイを緩め、上のボタンを外し、更には上着を脱いだ上に袖まで捲り上げてしまっていた。
そんな連中に囲まれて流されないはずもない。少しばかり脱力感を覚えていた もまた手近だったソファについ腰を下ろしてしまった。通常ならば鏡台前のスツールなりライティングデスクのチェアなり、もっと座る場所を選んだだろう。これでは万が一にも咄嗟の事態が起こった場合、対応が遅れてしまう。柔らかく身体を受け止めてくれるソファに背まで預けながら、 はそんなことを考えた。それでも今日は、どんな危険が迫ろうともどうやら守ってもらえるらしいので何の心配もいらないはずだ、とも。
魂の抜けたような束の間の静寂を破ったのはアイオリアだった。
「それにしても『城戸沙綾』のネームバリューとは凄まじいものだな」
辟易しているのか感心しているのか、どちらかわからない感想にシュラが訂正を入れる。
「ネームバリューは『城戸』にしかなかっただろう。しかし がそこに『沙綾』という付加価値をつけてしまった。最後にはその付加価値が、名実共に揃った価値になってしまったようだがな」
肩をすくめたシュラに は少々困惑した目を向けた。言っている意味がよくわからない。それなのにカノンまでもが意味不明の例えを始めるのだ。
「ああ。餌がないかと寄ってみれば、そこにいたのが想像以上に上等な獲物だったんで、大喜びするハイエナ共、といった感じだったな。全く意地汚い奴らだ。上っ面だけ着飾っても、身に染み付いた腐臭がぷんぷんする。――あんなのに囲まれて、よく頑張ったな、」
労うように肩をぽんぽん叩かれても、わけのわからない言葉が苦笑とともに掛けられているのでは、ちっともありがたくはない。 はさらに脱力してしまった。
さらに続いたカノンの言葉にアイオリアとシュラの顔が少しばかり青くなったように見えたのは、絶対に気のせいではないはずだ。
「蹴散らすのは簡単だが、ヘタに始末するわけにもいかん。全くもって面倒だ。いっそまとめて異次元送りにでもしてやれたら、どんなに胸がすくだろうと何度思ったことか」
酷薄な笑みだけ見ていると、いまにも喉の奥でクククと笑い出しそうだ。案の定、ぼそぼそとつぶやく声が聞こえてきた。
「……本当に改心したのか、奴は……?」
「昔のサガみたいだな……やはり腐っても兄弟と言うことか……」
一瞬にしてカノンの表情が変わった。見事なまでの変わりようのそれを向けられたのは当然、言葉を胸の内にだけしまっておくことのできなかった哀れな同僚達である。
「――何か言ったか?」
今度は空恐ろしいほどの爽やかな笑顔。シュラは隣の宮の聖闘士でも来たのかと錯覚を起こしかけた。あまりにも寒すぎる。アイオリアも同じよう凍り付いていた。
そんな二人に救いの手を差し伸べたのは、呆れたような の声だった。
「カノン……二人をストレス発散に使うのはやめたほうがいいと思うわ」
「本音を言って何が悪い。……ストレスが溜まっていたのは認めるが」
またしてもさっとうそ臭い笑顔を引っ込めたカノンはしれっと言ってのける。
「溜め込んで黒くなるよりは、言うだけ言ってすっきりしてしまった方が健康にいいだろう? 俺にとっても、周囲にとっても」
「それで、気は晴れたの?」
「そりゃもう。すっきりさっぱり。俺は根に持つタイプじゃないんだ」
「……どうだか」
どこまでもしゃあしゃあとしたカノンと、あまり表情を変えないものの明らかに呆れ返っているとわかる のやり取りを、精神的ブリザードから解放されたシュラとアイオリアは生温かく見守っていた。
***
「――”読めない”うちの一人ですか、あの方は?」
いきなり核心を突いた質問だった。前振りも何もない。
いっそいさぎが良いその聞き方に、むしろカーサは好印象を抱いた。特徴的な眉の、静かな面立ちをした聖闘士を見返す。彼――ムウもまた、カーサに鋭くはないが真摯な視線を向けていた。彼に頷いてみせる。意味するところは勿論、問いに対する肯定に他ならない。
この場の
『さっきのアルバーという奴もそうだったが、このバルツァーという奴も、城戸沙綾の身代わりをやっていたあのお嬢さんと同じだ……読めない』
カーサの思念を受け取った全員が、一斉に眉を潜めた。しかし海闘士のそれと、聖闘士のそれとではその主成分が決定的に異なっている。
クリシュナとバイアンからは、どういうことだという疑問ばかりが感じ取れた。
一方聖闘士達から感じるのは、驚愕だ。さすがに聖闘士の中でも最高位にいるだけのことはあって、それこそ簡単には”読めない”。しかし間違いないだろう。
下手をしたらゲストの女性客を霞ませてしまいかねないほどの美貌の男は、その秀麗な顔に深い懸念を浮かべている。
聖闘士でなくても護衛としては十分に迫力があるだろう巨漢は、先程までは意外にも人の良さそうな穏やかな顔をした人物だったが、今は眉間に深い皺が刻まれている。
そして質問をしてきたムウはあまり表情を変えていないのでわかりにくいが、それでも先に挙げた”読めない”人々とは根本的に違うので、やはりそうとわかる。
「そうですか……」
ややあって、また口を開いたのはムウだった。多分に憂いを含んだ口調だったが、カーサに向けた眼差しは柔らかい。
「あなたの主は、気づいておられたようですね。そして、確かめたかったのでしょう。あなたはその点、確かに適任です」
「……あんた達、オレよりもいろいろ知ってそうだな」
あまりに達観したかのような物言いが少々面白くなかった。思わずそうつぶやいたカーサに、それまで険しい顔をしていた大男が苦笑を向ける。
「俺達はそれほど詳しいわけじゃない。お前のお陰で、ちょっと合点がいくようになっただけだ」
「合点……いったかい? アルデバラン」
憂いを湛えたままの表情で、美貌の聖闘士が首を傾げた。
「ああ。なんとなくだが。さっき……」
言いかけてアルデバランは口を噤む。談笑を続ける沙織達にちらりと横目を向けた。
『さっき、あのテラスで海皇がカノンと、そしてになにか言っていただろう?』
再び念話で語り始めたアルデバランにアフロディーテが頷いた。
『ああ。彼等が眺めていた小島がどうとかという、あれか。……確かに、の”任務”に関係しているものがこんなところにあるとは、偶然にしてはできすぎていると思ったけどね』
『”任務”だと? やはり貴様ら、何かの魂胆があってこんなにも多人数の聖闘士を派遣してきたのか? 今度はなんだ? どこの神が相手だ? いくら地上の問題とはいえ、ここは海界も黙ってはおれん場所なのだぞ。ポセイドン様を差し置いて、勝手に動くのは協定違反ではないのか?』
幾分けんか腰で矢継ぎ早の質問を投げかけてきたのはバイアンだ。
『少し落ち着け』
声なく食って掛かるバイアンを宥めたのは、意外にも彼の同僚だった。肩に手を置き、そのまま少し引っ張って下がらせる。
『クリシュナ! 何故止める?』
『馬鹿が。思い出してみろ――先程ポセイドン様に向かってあの娘が言っていた。自分は”部外者”だと。聖域の聖闘士ではないと。ならば彼らにそんなことを言っても仕方があるまい。そもそも彼らも、合点がいくとかいかないとか言っているくらいだ。よくは知らんのだろう?』
最後の一言は、聖闘士達を見据えながら放たれた。鋭い眼光に射抜かれて、それでも三人の黄金聖闘士は少しも悪びれることなく頷いてみせる。実際その通りだ。
『色々知りたいのは、我々も同じさ。しかしどうにも首を突っ込む余地がなくてね――これまでは』
肩をすくめて苦笑するアフロディーテの隣で、アルデバランもまた腕を組み、嘆息する。
『先程の海皇の言葉で、ようやく今も何かが起きようとしているということがわかったくらいだ。そういう意味では、貴公らの方が我々よりも危機を察知していそうなものだがな……』
少しばかり途方に暮れたような聖闘士たちに、バイアンは気勢を削がれた。それを察して、クリシュナがようやく肩にかけたままだった手を退ける。
『全く、短慮な奴だ……鼻息が荒いのは、まぁお前だから仕方ないが……』
『放っとけ!!!』
『じゃあシードラゴンは、一体どういう役回りなんだ?』
念話であるにもかかわらず、ぽつりと呟きのような思念をカーサが漏らした。常日頃、他人の思いを読み取っている男だ。自身の意識のガードには長けているはずである。それが緩むということは、それほど彼の疑問が深いということに他ならない。
同僚たる海闘士達は思わず――もとより声は出していないが――黙り込む。難しい顔をして、聖闘士たちに目を向けた。
『あんた達が知らなくても、シードラゴンは何かよく知っているような雰囲気だったな。……いいのか?』
今度は確固たる意志を持って、カーサは聖闘士たちに問いかける。
心配してやる謂れはない。しかし。
『奴がかつてなにをやらかしたか、知っているんだろう? 今回は、大丈夫なのか? 何か企んでるとか、そういう心配はしてないのかよ』
居並ぶ聖闘士たちをぐるりと見回す。
直接彼らと拳を合わせることはなかったとはいえ、かつては敵同士だった間柄だ。それなのにこんな忠告じみたことをしてやっている。とても奇妙な気分だった。――そんな自分に、そして彼らに、嫌悪すら感じないこともまた、奇妙だ。
『心配は、していませんよ』
相変わらず読めない表情のまま、ムウが答えた。静かな笑みをたたえている。
やっぱりそうかという思いと、どうしてそんな風に言ってしまえるのかとの思いがカーサの胸に同時に浮かんだ。他の奴らはどうなのかと思って目を向けてみれば、アルデバランもアフロディーテも無言で笑顔を浮かべていた。剛毅な笑顔のアルデバランに対し、アフロディーテのそれははっきり苦笑とわかる。
カーサは面食らった。三者三様、真に思うところは違うようだが、とりあえずの意思は一致しているらしいことが意外だった。
『……聖域というのは、おめでたい奴らばかり集まっているのか』
黙ってしまったカーサに変わって、吐き捨てるようにバイアンがつぶやく。
『奴は、裏切り者だ。我等海界の者にとってはな。我等を自分の野望のために謀り、そればかりかポセイドン様までも利用しようとした。――そもそも、お前たち聖域にとってもそうだったはずだ! なぜそんな奴を許す!? 許せるのだ? お前たち聖闘士も、そして女神アテナも!』
本来、聖闘士達に向けられるべきではない怒りを露にしたバイアンを見て、そもそもそのように水を向けてしまったカーサが幾分気まずい表情を浮かべた。それでも止めようとしなかったのは、バイアンの言葉はカーサの本心でもあるからだ。
一方謂れのない弾劾を受けることとなった聖闘士達は一瞬互いに顔を見合わせる。やがて静かに答えたのはムウだった。
『どうやら何か誤解をなさっているようですね』
『誤解? なにをだ?』
恐らくバイアンはなおも言い募ろうとしたのだ。しかしムウはそれを許さなかった。
いらぬ誤解は解くべきだ。それもできる限り穏便に、しかも早急に。そこに両界の安定した関係の継続と、ひいては聖域の矜持がかかっているのならなおのこと、それは重要な言葉になるはずだ。
だからムウはあくまでも静かに、そして慎重に言葉をつむぐ。ムウ個人の感情と公人としての理解との間には本当のところ、微妙な齟齬がある。それらを間違わないように公平に打ち明けるのは、実際難しい。
『彼がかつて犯した罪そのものを、許したわけではありませんよ。女神がどのようにお考えなのかはわかりませんが。ですが少なくとも、私は決して彼の罪を許したわけではありません』
『……なに?』
思い込みと全く逆のことを言われて、バイアンはぽかんとムウを見返した。
ムウはほっと頬を緩ませる。意図したかった部分は、多分正確に伝わった。そしてそこに、アルデバランが絶妙なフォローを入れてくれた。
『俺もそうだな。ムウと同じで、カノンがやらかしたことをまるっきり許したわけではない。そしてカノンもまた、許されることを望んでいるわけではないし、許されるとは思っていない。――俺にはそう見えるのだが』
ムウはほんのわずかの間、瞑目した。なるほど。まさにその通りだ。同じことを、思っていたのか。
そしてアルデバランはムウが口に出すのを躊躇っていたことを、快活に、迷いなく言い切る。
『――だからこそ、今のカノンは信用できるんじゃないかと、俺はそう思っているのだがな』
この件について、他の者の意見を聞いたことはなかった。少なくともムウはそうだったし、恐らくアルデバランも同じだろう。
カノンについては先の冥王との前哨戦において、女神が直々に己の傍らに在ることを認めた。そうである以上余程のことがない限り、余程の人物でない限り、これに異を唱えることができる者など聖域にはいないだろう。
だがカノンが聖域に在ることを容認されている理由はそれだけではないと、黄金聖闘士としてのムウは思う。アルデバランも同じように考えていたのなら、同じ意見の者も多いはずだ。
背を少しだけ押された気分で、ムウはアルデバランの言葉を引き継ぐ。
『そうですね。彼は自分が罪人であることをよくわかっている。だからその罪を償おうと常に努力をしています。聖域で彼と少しでも交流のある者ならば、ほとんどの者がそのように評価するでしょう。実際、彼は冥界との戦いにおいて命まで捧げて見せた。海底神殿の崩壊を、満身創痍ながらもせっかく生き延びたというのに。そして傷の癒えきらぬ身体で聖域までやってきて――私は実際にその場面を見たわけではありませんが――蠍座の黄金聖闘士に咎人として断罪の攻撃を受け、それをすべて耐え切ってなお、女神のために戦うと言ってのけたという事実もある。許したわけではありませんが、それでも私は彼のそういった部分を信用しているのです』
最も適切な言葉で、自分の思いを言い切ることができた――と、思う。こっそりと息をついて、ムウはバイアンを見る。カーサを、そしてずっと黙ったままのクリシュナを見る。
彼らはムウ達、聖闘士以上に、カノンに対して複雑な思いを抱いているはずなのだ。
かつて彼らの仲間のシードラゴンを騙り、あまつさえ筆頭としてポセイドン降臨以前の海界に事実上君臨していたカノン。彼によって海界は本来起こるべきではなかった聖戦を起こした挙句、壊滅的な打撃を受けた。
しかしカノンがポセイドンを覚醒させたからこそ、現在の海闘士は神代より定められた本来の資質に目覚め、今こうして集うことができたというのもまた事実だ。
その魂がそもそも海闘士のものである以上、主神であるポセイドンの傍に仕えることは彼らにとって至上の喜びであるはずだ。その喜びを与え、そして奪っていったカノンに抱く思いがどのようなものであるか、聖闘士であるムウには到底測り知ることはできない。
だが、そんな彼等――かつては敵対したものの、今は同じくこの世の平和を願う同志となった――海闘士達に対して、唯ひとつ願うことがある。
何かを、だれかを憎み、恨み続けることだけはして欲しくはなかった。彼らにとってのその対象がカノンだから、そう思うわけでは決してない。
ムウは知っているからだ。そんな負の感情を抱き続けることの虚しさを、苦しさを。
――かつて大恩ある師を殺し、なりすました男がいた。
その邪悪な簒奪者を憎みながらもどうすることもできなかった。
ただ遥かかなたへ逃げ落ちて潜むことしかできなかった幼い自分。
力はあった。だが、なにもできなかった。その無念の日々。――決して忘れることはないだろう。
やがて時が満ち、彼の奉じる女神と彼の後進たる若き聖闘士達によって、彼は積年の苦しみから解放されたはずだった。すべての真実もそのとき知った。
だが、長年抱え続けてきたものはそう簡単に消えてはくれなかった。
苦しみ、悩み、そして恨み続けた日々。それらは確実に現在のムウを形作る要素のひとつであって、どうあっても否定できるものでもない。かといって、仕方がなかったのだとただ受け入れることもできるわけがない。
結局、彼の苦しみは終わらない。終わっていない。
そして、そのようなことで苦しみ続ける未熟な己自身に、ムウはやり場のない怒りを覚えるのだ。とてつもない虚しさを伴いながら。
いまだにムウを苛むそれらの感情の原因を作ったのは、いわずと知れたサガだ。
聖戦後、彼とともに黄泉帰り、今再び双子座を任された。そして、教皇シオンの傍で補佐を行っている。――かつて、自らの手で殺めた教皇の傍らで。
現在のすがた、その何もかもに異論はないはずだった。いまや何もかもが清算され、何の問題もないからだ。
そしてそれ以上の配置はないとムウ自身わかっている。
だがしかし。
釈然としない。どうしても。記憶という名のしこりが、どうしても消えない。
――サガを憎いと思う気持ち。
そして、そのサガに教皇と女神の殺害を唆したというカノンに対しても当然、激しい怒りを覚えずにはいられない。
結局、消えはしないのだ。このあまりにも虚しい、連鎖する負の感情は。
胸の奥に燻り続け、今でもじりじりと彼の胸を焼き続ける。
海闘士達がカノンに抱く思いとムウのそれとは、全く違うものだろうか。それとも限りなく近しいものだろうか。
ムウにはわからない。
だが、根は同じものだ。同じ人物が、その行いによって自らの背に負った業だ。
それを許すとか許さないとか、論じたところで実はもう何の意味もない。神によって既に審判が下された以上、ただの人間であるムウたちがどうこう言っても詮無いことなのだ。
だからずっと心に巣食い続けるこの思いは、もう二度と顧みられることもなく、救われることもない。
――ただひたすらに、虚しさだけが募る。
こんな苦しみを、自分の他の誰にも、抱えて欲しくはなかった。平和になったこの世界で。できれば、もう誰にも。