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一通り話し終えて時計を見れば、まだそれほど時が経っていないことに気がついた。
シオンの私室の大きな振り子時計は、過ごしてきた歳月を物語るにふさわしい質感と音で部屋に馴染んでいる。その中で、 だけが一人そぐわないような気がする。時計の刻んできた時間よりも長い年月の話をしたというのに、それはなんともあっけなく、軽く空気に溶けてしまった。
は深くため息をつく。拍子抜けした気分になった。自分が抱えてきたのは、こんなにも簡単に語ってしまえる程度のものだったのか。
それだけのものを、後生大事に抱えていた。聖域(ここ)の人々に、これほど迷惑をかけて。
始終うつむいていたのは、反応が怖かったからだ。
だが が黙っても、誰も言葉を発しようとしない。怪訝に思って顔を上げた。この場には教皇と、その補佐であるサガ、そして協力者のカノンしかいないのだが、皆一様に難しい顔をして黙り込んでいる。
いい加減にしてほしいと思うほどの時間の後、一番最初に口を開いたのはシオンだった。
「……かけるべき言葉が、これほど見つからんとはな……」
ソファに深く腰掛けたシオンは、その若々しい容貌からは想像できないほど疲れたような顔をしていた。膝に肘を置き、両手は額の前で組まれて、混乱気味の頭を支えている。
「まさかこれほど驚くような話を、こんな歳になって聞かされるとは思いもよらなかった。根の……業の深い話よな」
手から額を放し、下からすくい上げるようなまなざしが向かいの に向けられた。
「だがこのことを、女神は本当にご承知の上なのだろうか? お前の母御が、いにしえの女神の慈愛にあずかったことはもはや疑わぬ。だが女神は結局、 には会っていないのだろう? そのときのお前はいまだ母御の腹の中。名すらなかったのだ。そしてお前が生まれたのは、お前の世界。それきり何千年もこちらとは関わらず、女神も今はその当時の女神と全く同じではあらせられない。本当にお前の思うとおりなのか」
「女神様に直接質したわけではありませんから、それはわかりかねます。ですが、そう考えるのが自然かと。なにもかも、合点がいきますから。――私が聖域(ここ)に入ってこれてしまったのも、ある意味必然だったのかもしれません」
「だが、やはり解せんな。それだけの恩寵を授かりながら、お前は女神が嫌いだと言い放った」
「……え?」
は目をしばたたかせた。覚えがない。しかしシオンは重ねて言う。
「言ったのだ。覚えていない状態での言葉だったのなら、それはやはり偽らざる本心なのだろう?」
「……」
さすがに青ざめた。そっとシオンの隣のサガの様子も窺ったが、わずかに眉をしかめているところを見れば本当のようだ。
エピオンの支配下にあったとはいえ、女神が坐す館を手にかける寸前だったのだ。それだけでも万死に値する蛮行だった。それを聞いて怒り心頭だったシオンにそんなことまで口走って、よくもそれで殺されなかったものだ。ぞっとするのを通り越して、感心した。
黙り込んでしまった をじっと見つめ、シオンは徐に再び口を開いた。
「時に、 よ。お前、腹に大きな傷があるとか」
「……なぜそれを?」
なぜ知っているのかというよりも、なぜ今そんな話をするのかと聞いたつもりだった。だがシオンは前者の意味で捉えてしまったのだろうと、最初は思った。
「星華が、もののついでに漏らしおった。ずいぶん古そうな傷だとか。――それが、お前の原点か」
深い声だった。 ははっとする。
そういえば業の深い話だと、シオンは感想を述べたのだ。驚いたと。むしろ、驚いたのは の方だ。どうしてそこまで察することができるのか。永の年月を見てきた眼力は、成る程、伊達ではない。
観念する。当初はそこまで話す気などなかったのだが、今更隠すことでもないように思えた。
「――そうです。幼い頃のものです。そのとき、私を護衛して下さっていた方は全員亡くなりました。私は、これだけの怪我を負いながら、助かった。……母は神様の加護だと言いました。あなたには、優しい女神様のご加護があるの、と。だから大丈夫だと――強く生きて、と」
「助かったのに、それを恨むのか」
黙っていられなくなって、サガは口を挟んだ。 の話の着地点が全く予測できない。こんなにもアテナに対して含むところがあろうとは、夢にも思っていなかった。
「その後も同じようなことが何度もありました。でも私は、私だけは助かった。いつも……私だけは」
脇腹に手を当てた を、サガは痛ましい思いで見つめた。一番初めに、 が聖域に転がり込んできたとき、サガはその傷痕を目にしている。確かにひどい傷だったのだろうと思わせる痕だった。
「いっそ、最初の時に助からなければ、その後に私のせいで死ぬ人間はいなかったはずなんです。……直接言われたこともあります――お前が死ねばよかったんだと。何度もそういうことがあって、思うようになりました。これは……なんの呪いだろうか、って」
きっと他にも消えない傷をたくさん負っているのだろう。身体だけではなく、心にも。サガは思う。だからこんなに、痛みを堪えるような顔をするのだ。
「どうせなら、生まれてこなければよかったんです。そうすれば、私のせいで死んでしまう人なんていなかった……」
「アテナの加護と、お前が生まれてくる、来ないは別の話ではないのか。それは逆恨みと――」
首をかしげたシオンの言葉を、 は強い調子で遮った。
「同じ話です。女神がなぜ母の胎内にいた私に祝福を与えたのか、おわかりになりますか?」
「いや……」
口籠もったシオンとサガにちらりと目を向けて、 はすぐに視線をそらす。どこか遠いところを見るような目をしていた。
「そもそも母はこの世界に来なかったとしても、無事に私を出産することはできなかったはずなんです。母は地球生まれの地球育ちで、でも当時は宇宙と地球を頻繁に行き来する生活を送っていました。宇宙というのは、いろいろな意味で困難な場所です。人間の生命活動に様々な弊害も与えます。中でも、正常な妊娠・出産が困難になるという弊害は大きいものでした。それを回避する処置は遺伝子の操作で可能になりましたが、地球出身者である母にはそんな操作は当然されていません。そのままの妊娠状態を続けていれば、胎児はともかく母体にも危険があったはずです。ここからは推測ですが、彼女は女神の前で、おそらく何らかの危機的状況に陥った。そうでなければ、出産時に生命の危険にさらされるだろうことが確実にわかったのかもしれません。そして彼女を助けるために――女神は奇蹟を授けた」
成る程。一理ある。シオンは頷かざるを得なかった。
アテナは出産を司る神ではない。だから直接の干渉はできなかっただろうが、それでも胎児に祝福を与えるという形でなら納得がいく。たとえ母体に影響を及ぼせなくとも、生まれてくるはずの子供にこうあれと加護を与えれば、それは神の力の宿った、成されなくてはならない必然となる。つまり、万障を除いて生まれてこなくてはならなくなる。万障とはすなわち、 の言う不育症のことだろうし、それを克服できるのなら、母子ともに無事であるはずだった。
「でも……女神はそんなこと、しなくても良かったんです」
硬い声で は言い募る。
「異世界の人間が一人どうなろうと、この世界の神であるアテナには関係なかったはずです。むしろ無理をしてまで助けてしまったことで、後々異世界では生まれるはずのなかった人間がのうのうと生き続け、死ぬ必要のなかった人間が死にました」
異世界の話を持ち出されては、シオンにもサガにも反駁する言葉などなかった。いくらそれが、彼らの主神の奇蹟の否定であっても。
「女神は、間違えたんです……」
「俺は、そうは思わん」
唐突に声が上がった。それまで黙って、一言も発していなかったカノンが腕を組んで を見ていた。繰り返す。
「俺には、アテナの行いが間違っていたとは思えん」
射るような視線だった。 にひたと向けられている。
「お前の言っていることは結果論でしかない。結果的には、確かにお前の言うとおりだろう。だが、いくら神とはいえ、果たしてそこまで先のことを予測することなどできただろうか? どういった経緯でお前の母――リリーナがアテナの元にたどり着いたのかは知らんが、少なくともリリーナはただむざむざと死んでいいような立場ではなかったはずだ。それを、当時のアテナも理解されたのではないのか? そうでなくともアテナには、目の前で助けを必要としている無辜の人間をみすみす見殺しにする理由もないのだからな。お前の意見は、うがちすぎのように思える」
の目に炎のような煌めきが宿ったようにシオンとサガは感じた。憤怒の炎。一瞬で燃え盛る。言い返すだろうと、二人とも思った。真っ向から否定されて、それを激しく否定し返すのだろうと。
だが は瞳を閉ざしただけだった。怒りがちらつくまなざしを隠して、顔を背ける。――カノンから、顔を背けた。
「……そうでしょうね。カノンは、そう言うと思ってた……」
聞き取れるかどうかの掠れた声を、カノンは聞き漏らさなかった。
「どういう意味だ、それは」
低く怒気を孕んだ声に、それでも は目を背けたまま取り合おうとしない。
「――話が逸れました。こんなことをお話ししたかったわけではありません」
毅然と顔を上げ、シオンとサガに訴えた。強引な話題の転換は、少なからずこの場の全員を驚かせた。
「折り入って、お願いしたいことがあるのです」
サガはちらりと向かいに座った弟を見る。厳しい顔で を凝視していたカノンの眉がさらにしかめられたのを確認した。では、今から がするお願いとやらは、カノンの関知するところではないのだ。サガは察する。
これまでは、そのようなことはほとんどなかったように記憶している。常に二人の間では情報の交換がなされていたようだし、監視者と虜囚という名目上の立場にもなんら問題はなかった。
その関係性に歪みが生じているのではないか。サガは懸念を抱いた。そういえば先ほど、 の居室へ赴いたときの様子もおかしかったのだ。カノンはひどく苛立っていたようだったし、 はここ最近見たことがないほど頑なな態度を通していた。
パーティへ向かう前は、何事もなかったはずだ。では昨夜、なにかがあったのだ。事件以外にも、なにかが。
それがなんだったのか、今のサガには知る由もない。後でカノンに問い質してみようかと、密かに心に決めた。
「我らに願いとな。なにやら穏やかではなさそうだ」
聞こう、とシオンは姿勢を正した。
もぴんと背筋を伸ばす。両手を揃えて、膝に乗せた。その指先が白い。かすかに震えているようにも見えた。自分から切り出したくせに、口を開くまでに少々時間がかかった。だが、一度話し出せば言葉は簡潔にして明瞭だった。
「……皆さんのお力を、お貸しいただきたいのです。そのために、収集したデータはすべて開示します」
カノンが腰を浮かせた。
「 !?」
シオンの顔つきも引き締まった。無言で先を促す。
「大変お恥ずかしい話ですが、もう私一人の手には負えないと判断しました。……昨夜はなんとか、奇しくも敵から提供されたモビルスーツ・エピオンで阻止することができましたが、次は恐らく無理でしょう。敵組織の規模は予想以上に大きかった。これまで地道に拠点を一つ一つ潰してきたつもりだったのですが、どうやら焼け石に水だったようです」
「今まで、そのことに気づかなかったのか?」
サガの問いかけに、 は苦み走った顔をした。
「懸念はしていましたが、正直、そこまで食い込んでいるとは思わなかったのです。……予想が甘すぎました」
「食い込んでいる、とは?」
今度はシオンが尋ねる。それこそ『予想以上』に厳しい話だと感じた。
「大元の母体は私の世界の一組織でしかありません。かなり古株で狡猾、影響力も資金能力も高い厄介な組織でしたが、それでも一組織でしかなかったのです。それがこの世界で様々な勢力を取り込んで、強大かつ巨大化してしまっているようです。――そもそもそれが、この世界に来た目的だったのかもしれません。元の世界では資源の流通が厳しく管理されているので、武装蜂起するためにその抜け道を求めていただけだと考えていたのです。それなのに、まさか人的資源まで求めていたなんて……」
「人的資源ということは……敵の中にはこちらの世界の人間も多いということか」
「もしかしたら、末端の戦闘員のほとんどはこちらの世界の人間かもしれません。今思えば、初めからおかしかった……」
はそもそもの始まりの日を思い出す。ゲートを抜けて、こちらに来てしまう前の戦闘を。
あまりにも撃破が容易くて、違和感を感じたのだった。トーラスの配備数も異常に多かった。もしかしたら、あそこは戦闘員の養成所だったのではないだろうか。
一から戦闘員を育て上げるのはそう簡単なことではない。コストもかかるし、なにより個人データが管理されている世界では、多人数を動員すれば嫌が応にも目立つ。
だがこちらの世界の人間を使えば、人口の移動は目につかない。なにより、この世界に何らかの資金的基盤があるのなら――実際、バルツァーはあちらの人間でありながら、こちらでは有数の資産家として通っている――コストの問題もそれで解決するのだ。
「私の世界へ、こちらから大量に資源および人員が流れている可能性が高いかと思われます。同様に、こちらの世界へもなんらかの兵器や技術が相当量流入していると考えるのが妥当でしょう」
重い沈黙が落ちた。振り子時計の音だけが妙に反響して聞こえる。まるでなにかのカウントダウンのようだ。 は思い、それはどこへ向かうための秒読みだろうかと、半ば人ごとのように考えた。
やがてシオンが絞り出すような声を出した。
「……対岸の火事だと思っていたのだがな。蓋を開けてみれば、足もとは既に火の海か……」
「それらの可能性が考えられることを、なぜ今まで報告しなかった?」
サガの言葉は に対してではなく、カノンへ向けられた。
「俺は、知らなかったからだ」
悪びれずにカノンは答え、相変わらず から目をそらさない。
「 からは、何も聞いていなかった」
含むところがないわけのないカノンの物言いに、ようやく は反応した。顔はやはり背けたままで。
「……隠していたわけではないわ」
「ではなぜ言わなかった?」
「気づいたのは、昨夜だもの。アルバーに会って、それでやっと気づいたの。ずいぶん昔から、彼らがこの世界に介入していたことに」
「あの男か……」
忌々しげにカノンは舌打ちをする。
「支配がどうとか言っていた。この世界には神がいるのに、平和には未だほど遠い。だから、神以上のシステムが必要だとかなんとかとほざいていたな。――あいつは、危険だ」
そう吐き捨てたカノンは、 が決定的にうつむいてしまったことに言いようのない胸くその悪さを覚えた。
「あいつはもはやお前の敵だ。何を気にする必要がある?」
「……優しい人だったの。きっと、優しすぎたんだわ……だから、あんなことを考えついてしまったのね……」
眉間に皺が寄るのを止められなかった。どうしようもなく苛立つ。その憤りが、 の言葉に対してものなのか、目を合わせようとしない 自身に向けられたものなのか、カノンにもよくわからない。ただ、衝動のまま怒声を上げるところだった。
「でも、駄目なの。わかってる。そのやり方だけは、認めない。認められない――わかってる」
ようやく向けられた のまなざし。カノンは喉元まで出かかっていた声を呑み込む。
「私は、ちゃんとわかってる。止めるわ。どんなことをしても。どんな手を使っても」
「……本当だな?」
「本当よ」
なんとか絞り出した平静な声に、 は微笑って答えた。
「……だって彼、狂ってるんだもの。エピオン(あんなもの)の見せた未来を信じ込んでるなんて、狂っているということだわ。――あんなもの、理想でも何でもない」
さらりと言い切る の視線は、カノンを通り越してどこか別のところを見ているようだった。
「でもね、気持ちはわかるような気がした。従ってしまったほうが楽なんだもの。きっと簡単に、楽になれる。狂うのって思ったよりも簡単なのね。知らなかった」
「 ……」
どこか夢見るような口調だった。カノンはかける言葉を持ち合わせていない自分に気づく。カノンには、その境地はわからない。
「でも、とても悔しいものだわ。狂うのは、楽だけど悔しい。悔しくて悔しくて、それで狂ってしまう。どうしようもない……」
へと向かう自分以外の視線にふと気づいた。見なくてもわかる。サガだ。凝視していた。――やはり、かけるべき言葉は見つからなかった。
わずかな沈黙の後、シオンの声が重く響いた。
「 の要請、聖域への正式な依頼として確かに聞き届けた。だが……少し時間をもらいたい」
え、と は顔を上げた。シオンは難しい表情を崩さない。
「予想以上に事態が逼迫しているようだ。すぐにでも対策を練り、早急に必要な場所に必要な人員を派遣したいのはやまやまだ。実際、これが十数年前であったなら、すぐにでもそうしただろう」
「女神に……伺いを立てなければならないということですね」
さっと表情曇らせる に、シオンは首を振った。
「伺うのではない。事態を奏上し、さらに助力を願おうかと思う」
「助力?」
サガが怪訝な顔をする。シオンは太い笑みを浮かべた。
「これは世界の危機だ。地上だけの問題ではない。それなのに聖域だけで事に当たるというのでは、互いに不干渉とする和平協定をむざむざ破るようなものではないか?」
「……まさか、他の二界へも協力を要請するとおっしゃるのですか!?」
腰を浮かせるどころではなく立ち上がってしまったサガを、シオンは泰然と座ったまま見上げる。
「アテナにおかれては、それを他の神々に求めることは義務であろうしな」
「アテナの義務とは、どういうことです?」
いくら何でも理解不能だ。カノンは突然大きくなってしまった火種に竦むしかない。瞠目しているところを見れば、 も同様の有様だ。 の代弁をするかのように掠れた声で問うたカノンに、シオンは呆れたように溜息をついた。
「そもそもの話を振ってきたのはお前達であろう。なにを驚いておるのだ。――いにしえの女神が、 の世界のものと接点があるという。昨夜の話を勘案する限り海皇ポセイドンも無関係ではあるまい。おそらく、神代において、神々は多かれ少なかれ関わっていることではないかと思う。神々が、異世界の存在とその脅威を知悉していることは間違いない。ではそれを承知でアテナが異世界の人間である を聖域にとどめたのであれば、アテナには他の神々に事態を説明する責務があろうということだ。……常々、疑問に思ってきたことがある」
「疑問?」
が聞き返す。シオンは膝の上で手を組んだ。サガを、カノンを、そして をひとりずつ見渡した。
「あまり、口に出すべき言葉ではないのだがな。お前達になら、問題なかろう。……神に刃向かい、神を謀り、神を嫌うお前達になら。神の絶対性を信じていないこの不敬な言葉を聞かれても、糾弾されることはないだろう……」
二百年以上に渡り女神の代行者として存在してきた男の言葉に、三人は目を剥いた。誰もが沈黙してしまった中で、シオンは長年にわたる疑問を、ついに口にすることができたのだ。
「かつてこの世は、神が生み出し、神に拓かれ、神が支配してきた。だが今はどうだ? 神に作り出された卑小な存在でしかなかったはずの人間が――これこそが不敬に当たる言葉だが――事実上、支配している。いくら聖戦によって神々がその覇を競おうとも、実効支配者たる人間をどうにかしてそれを成そうとしている事実を鑑みても明らかだ。神は、人間にこの世界を取られたままなのだ。――では、それはいつからだ? 人間は、いつからこの世界を支配している? 神が『神話の時代』の残滓として忘却の淵に追いやられたのは、いったいいつからなのだ?」
「――――」
サガとカノンは完全に言葉を失った。そんなこと、考えたこともない。
まさか、と が小さく叫んだ。シオンは意を得たとばかりに薄く笑う。
「そうだ、 。――この世界が今の形を得たのは、お前の世界と関わりを持ったときからではないのか」
大儀そうに、しかしよどみのない動きで、シオンは立ち上がる。窓辺に歩み寄った。
「すべての答えが、得られたような気がする」
外は既に夕闇に閉ざされている。それでも月が煌々と照らしていた。白い光を投げかけられて。――アテナ神像は、暗闇に屹立する。
「海界も、冥界も、歴史の闇に沈んでしまった。時折力を蓄えた神が目覚めるとき、それに合わせて興るだけ。だが聖域だけは――アテナの聖域だけは、そうはならなかった。なぜだろうかと、不思議で仕方がなかった。――前聖戦の後、聖域(ここ)に生きて戻ったとき、本当に不思議に思ったのだ。守るべき主神が坐さない聖域と聖闘士にいったい何の意義があり、存在し続けねばならない意味とはどこにあるのか、と。幾度己に問いかけたかわからん」
いったん言葉を切り、シオンは愕然とした表情の双子を振り返る。かつて、自分をこの長い生から追い落としたこどもたち。
「……長かったのだ。女神のいらっしゃらない二百有余年は、本当に……」
双子はそろってうつむいた。何かとても悪いことをして、叱られて、しょんぼりしている子供のようにシオンには見えた。それを笑って、もう一度アテナ神像を仰ぎ見た。
「だが、今、その意味がようやくわかったような気がする。……我々は、人間だからなのだな」
「人間……?」
カノンが顔を上げた。遅れてサガもシオンを見る。心持ち青く見える顔は、言葉を発しない。
「海闘士や冥闘士達、他の神々の戦士達と違い、我々聖闘士は神から力を与えられるのではなく、自らつかみ取っている。どこまでも、人間なのだ。だから彼らと違って各々の思いや価値観が違い、時にはそれが衝突し、悲劇も起こる。――だが、それでいい。それこそが、正しい人間の姿だろう。普通の、当たり前の人間の」
衣擦れの音がした。それでシオンは、サガが顔を覆ってしまったことを知る。
「ただの人間しかいなかったからこそ、人間の支配する世でアテナの聖域は数千年もの間、存在し続けることができたのだ」
振り返った。予想通りの光景だ。サガは両手で目を覆い、カノンは拳を固く握りしめている。シオンは笑う。もう一度。そして と視線が合った。
「なぜだと思う? アテナが既に力の失せた他の神々と道を違えて、それほど人間に与したのは―― よ、なぜだと思う?」
「地上の平穏が人間達の平和と同義ということなら、わかるような気がします……」
突然の問いかけに、 はうろたえはしてもしっかりと答えた。シオンは頷く。先を促した。
「アテナは……平和を、ただ与えるだけにしたくなかったからではないでしょうか。平和というのは、誰かから与えられるものではない。与えられるということは、与えた存在に隷属するのと同じことです。でもアテナに地上を支配するつもりなんてないことは、見ていればわかります。だから、人間自身の手でつかみ取って欲しかったんです。そうして平和を手にしたなら、同時にそれを維持する責任が生まれます。それを長い時間と世代を超えて担わせるために、聖域を、聖闘士と呼ばれるだけの、ただの人間に託した……」
淀みなく語る を、シオンは満足げに眺めた。
「恐らくそれで間違いないと思う。して、 よ。お前はそのような考えを、誰から受け継いだ?」
「――――!」
「母御からではないのか? アテナと、遙かな昔に何かを語らったに違いない、お前の母御から。――人は、想いを繋ぐことができるのだからな。お前の言うとおり、時間と世代を超えて」
瞠目し、シオンを見返す の表情は無垢だった。驚きも憤りも超越してしまった、そんな風情だった。シオンは の下へ歩み寄る。
「完全平和、と初めて顔を合わせたときにお前は言った。それこそが、お前の母御の提唱した理想なのだろう? そして恐らくアテナも、それに同調された。そうした思想とこの聖域が無関係だとは、もはや思えん。そしてそんな理想を受け継いでいる者として、アテナはお前を殊遇した。志を同じくする者を、アテナはおざなりにすることなどできなかったのだ。……だから よ、頼む」
座り込んだまま動かない の傍らにシオンは膝をつき、目線を合わせた。
「アテナを、それほど嫌わないではくれないか?」
青い瞳がさらに見開かれる。零れ落ちてしまいそうだと、シオンは埒もないことを考えた。
「確かにアテナはお前に母御を重ねただろう。だがそれだけの情に流されるほど神とは生易しいものではない。長年、神の意志に仕えてきた私にはわかる――あの方は戦女神なのだ。どこまでも厳しく、慈悲深い御方だ。お前に戦う意思があったからこそ、アテナはお前を厚遇したのだ。誰の代わりでもない、お前をな。――覚えてはいないだろうが、昨夜、お前は言った。誰もが皆、女神ですらもがお前を母御を通してしか見ようとしないと。だが、そんなことはない。そんなことは、決してないぞ」
両肩を包み込むように手を置いて諭すシオンの言葉を、 は項垂れて聞いていた。やがてゆっくりと両手で顔と覆う。その指の隙間から、言葉が零れた。
「……おっしゃりたいことはわかります。でも、私が生まれてきてしまったことに関しては、やっぱり私は感謝できないんです……すみません……女神が母を――私を助けたりしなければ、苦しい思いを人にさせることもなかったし、私もこんな思いをしなくてもよかったんです……こんな、悲しい……」
切れ切れの言葉を、シオンはぴしゃりと撥ね付ける。
「それは逃げだ。 。生まれ落ちてきた以上、程度に差はあれ、誰もが少なからず抱え込む業というものがある。お前のそれは、確かに人に比べればより酷であったかも知れん。だが殊更に特別だとは私には思えん。それに今までの人生において、お前には苦しみしかなかったか? 今も、聖域(ここ)に来てから、少しの喜びもなかったというのか? 嬉しいことや、少しでも心動かされることはなかったか? ――我らと関わったこの半年以上は、全く無駄な日々であったのか?」
わずかに の両手が浮いた。それはそろそろと胸元に降りていき、強く組み合わされる。伏せたままの頭が激しく左右に振れた。
シオンは の肩をぽんぽんと叩いた。震えるそれをそっと抱きしめる。
昨夜シオンの拳を突っぱねたはずのその身体は、思ったよりも小さくて細かった。小さな嗚咽とともに揺れる背はまるで子供だ。長い人生の中で幾度となくこんな風に抱きしめてきた小さな子供達と、なにも違うところなどない。
深い慈しみを込めて、シオンはその背を撫でた。
「わかっているのならば良い。――聖域は、総力を持って、そして早急にお前とともに戦うことを約束しよう。だから今は、少し休め。今まで一人で、本当によく頑張ったな」
の頭がこくりと動いて、法衣の膝元にぽつりと雫が落ちた。
Burst into flames 3 END
伏線というか設定の大量回収回でした。
ヒロインがちゅうn(ry気味なのは仕様です。すみません。
そうしないと話の最初と繋がらなかったもので。