※ 記事タイトルクリックで本文表示 ↑ ※
二日ばかりいじってやれなかった01のコンソールを無駄に叩きながら、 はもう何度目かわからない溜息をついた。
――なんであんなこと、言ってしまったんだろう。
現状で把握している敵組織拠点のリストなら、もうほぼ細かいところまでカテゴリ分けして、データもメモリスティックにコピーしてある。後はどこかでこちらのPCで読み出して、紙に打ち出してやればいいだろう。これだけ機密度の高い重要事項をプリントアウトするなど、以前の からしてみればとうてい信じられない愚挙だ。
だがこちらの世界では――とくにこの古式ゆかしい伝統を堅持する聖域では、そうでもしなければ情報を伝達することができないのだ。そういった物事の機微を、 はカノンから学んだ。
こちらに来てからはほとんどなにもかも、カノンから教えてもらったのだ。カノンがいなければ、今日までこうして生きていられたかも、実際は怪しい。
――それなのにあんな暴言を吐いてしまうなんて。
どうかしている。やっぱり、どこかおかしくなってしまったのだろうか。でもゼロシステムにも幻朧魔皇拳にも、暴言を吐かせる作用なんてないはずだった。大体、あれからもう一日以上経っている。どちらの影響も既に考えられない。
また は溜息をついた。本当は、わかっている。――わかっていた。
八つ当たりなのだ。ただの我が儘。子供っぽい、ただの。それなのに女神がどうとか変な理屈までこねてしまった。全部、言い訳じゃないの。なんてみっともない。女神にしてみたら濡れ衣もいいところだ。なんて恥ずかしいことを言ってしまったの。
顔を覆う。ここは01のコクピットで、ハッチだって閉めてある。誰にも見られるわけではないのに、それでもそうせずにはいられなかった。
誰も悪くなんてない――自分以外は。
そうだ。自分が全部悪いのだ。良くしてくれるカノンの好意を、こんなに簡単に踏みにじって。その好意が女神に因るものだという事実があったからといって、カノンのしてくれたことが無であるわけがないのに。
なにを期待していたんだろう。それだけはわからない。どうしてもわからない。
カノンに、いったい私はなにを求めているの? あんなに良くしてくれたのに、これ以上まだなにかを望むというの? ――なんて欲深い。
また涙が滲んできた。 は必死で堪える。あの夜から、まるで涙腺が壊れてしまったかのようだ。壊れたといえば胸だってそうだ。ずっと痛いまま。息苦しいくらいに。
いつからだろう? は考える。胸がこんなに痛むのは、いったいいつから?
答えはすぐに出た。聖域に戻ってきてからだ。幻朧魔皇拳で頭の中を掻き回されて、そんな中で聞こえたカノンの言葉。――女神の命令で、 を守っていたという。
駄目だった。堪えきれなかった涙がついにぽろりと零れる。本当にどうしてしまったというの?
歯を食いしばった。鼻の奥がつんとするのをやりすごして、目元を拭う。考えるな。これ以上、考えては駄目。必死で思考を別のものとすり替える。
今、やらなければならないことはなに?
データを聖域側に渡す用意と、作戦行動の提案。指示はできないだろうが、どのようにその任務を為すべきかはある程度進言する必要がある。
勿論、丸投げするわけにはいかない。 だって作戦行動には参加する。そのためには、またカノンの護衛を受け入れなければならないだろう。カノンの言ったとおり、女神は の護衛をやめることはしないはずだ。
では、別の人に変えてもらうよう頼んでみたら?
ふとそんな案が頭をよぎり、 はふるふると頭を振った。できるわけがない。反射的にそう思い、それはなぜかと首をひねった。
他の者では詳細を知らないからとか、モビルスーツがどうとか、そんなのはもう関係ないはずだった。データを開示してしまう以上、それは関係ない。
――では、どうして?
また目頭が熱くなって、 は顔を覆っていた手を取り払う。シートに背をもたれかけさせて上を向いた。
――降参だ。
完敗だった。 はついに認めた。
本当は、わかっていた。目を逸らしていただけだ。認めたくなかったのだ。もともと存在するはずのなかった人間が、いない方が良かったはずの人間が、そんな感情を持ったって仕方がない。何も感じてなどいない。自分をそう欺瞞しながら生きてきた。その方が楽だから。
しかしこちらの世界に来てから、そんなふうに思い込もうとしていた心の箍が時折外れそうになることがあった。
こちらの世界には――この、まだ人類を手放したことのない青い星には、そんな力があると は感じる。
それは何気ない陽の光だったり、刻々と変わる空の色だったりする。たとえば人が何もしなくても勝手に生えては茂る草花に、一定のリズムで寄せては返す海の波。どんなに胸一杯に吸っても新鮮で様々な香りに満ちた大気や、全く管理されていない雑多な生命。
なにもかもが の情操を刺激して、次々と新しい感動が生まれた。胸の奥で硬く凍り付いていた魂を揺さぶりながら。
どんなフィルタも通さないで、直接 自身に向けられる目があった。それが好意であっても猜疑でも、他の誰をも重ねずに浴びせられるものであれば、それは に喜びをもたらした。
そんなふうに、 の心は緩やかに解されていっていたのかもしれない。
そして、 はついに思いだした。この胸の痛み。その理由。――その名前。かつては も確かに与えられ、そして心の奥にしっかりとその種を抱いていた。
愛という。至高の感情。
芽吹いて、殻を突き破る。これはその痛み。――なんて甘い。
気づいてしまったら、認めるしかない。たった一人に向けられるこの気持ち。まだ小さいけれどしっかり根付いてしまっていて、もうどうしようもない。
「……だって、好きなんだもの……」
誰かに守ってもらうのは嫌だった。守ってくれている人が傷つくのを見るのは嫌だったから。そのうち、誰かが傍にいるのも嫌になった。
でもカノンは違った。
傍にいるのが当たり前になっていた。全然嫌じゃない。それどころか。
「嬉しかったの……一緒にいられて、嬉しかったの」
女神の命令で傍にいてくれただけかもしれないけれど、そうだとしても、嬉しかったのは本当だ。
それなのに、あんなことを言ってしまった。馬鹿みたい。……きっと嫌われた。
もともと面倒だと思われていたに違いない は、今やカノンにとって間違いなく厄介者だ。近くにカノンがいないことは、なぜだかわかる。身を切るような孤独を感じる。確信だった。聖域には、今はきっといないのだ。 から少しでも遠くに離れたかったのだろう。ずいぶん怒っていた。無理もない。
でも、戻ってこないわけにはいかないだろう。そのときには、どうしよう?
は必死に考える。――どうしよう。
カノンならきっと女神の命令が解かれるまで、それを私情で違えたりはしない。腹の底ではどう思っていようとも、女神の意志のままに行動するのだろう。
なら、問題は にしかない。どうしたい? どうすればいい? どんな顔をして向き合えばいいの?
不意に脳裏にフラッシュバックする声がある。
『感情のままに行動するのは、人間として正しい生き方だ』
ずっと昔に聞いた言葉。誰よりも感情というものが欠如しているように見えていた父親が言ったのだった。
そのときは彼がこんなことを言うなんてと耳を疑っただけで、真意を推し量るつもりもなかった。だが、今ならその意味がわかるような気がする。
は考える。どうしたらいいのか。
――私は、どうしたいの?
行動までは、きっとできない。でもせめて――自分の心くらい、認めてみよう。
「傍に……」
口に出して言ってみる。聞いて欲しい人は、ここにはいないけれど。
「……いて欲しい」
それだけでいい。多分、そんなに長い時間ではない。だから、それだけでいい。それ以上は望まないから。――望めないから。
生まれた場所も、生き方も、なにもかもが違う。こんな想いが芽生えてしまったこと自体が間違いだ。痛みを伴いながらせっかく芽吹いた感情は、決して花咲くことはない。
結末がわかっていても、今は。
「傍にいたいの……」
あんまり馬鹿馬鹿しくて、涙が出る。溢れて、零れた。自己の抑制も満足にできないなんて、本当に馬鹿。
そんなだからきっと事態はここまで悪化した。ようやく要請した助力も、どの程度有効かわからない。この世界の底力を見せつけるのか、そうでないのか。
どちらにしても 自身にはもう、万に一つも勝ち目はない。結末は、恐らくそう遠くない未来に訪れる。
――それまでは、せめて。
「傍にいさせて」
そのためには、先ずやらなければならないことがある。
「――謝らないと。全部謝って……許してもらえなくても、せめて今まで通りに」
そう。今まで通りでいい。それ以上望んではいけない。
機械の発する微細な振動音が複数共鳴しながら満ちた狭いコクピットのなかで、 は決然と顔を上げる。胸を押さえた。ざわめく胸を。
――戻ってきた。彼が。近づいてくるのを感じる。
それなら、はやく。
はやく、伝えに行こう。
胸の内をすべて口に出すことは、できないけれど。
***
聖域は意外とアテネ市街に近い場所にある。そう遠い場所へ行っていたわけでもないので、アフロディーテやデスマスクと別れてからそう時間が経たないうちに、カノンは聖域の結界内へと足を踏み入れていた。
アテナが帰還していると聞いた。
そしてカノンと違って、 はずっと聖域から出ていないのだろう。本人がそう言っていたのだから間違いない。
――アテナは、カノンを呼んでいるという。
足取りは自然と重くなった。 は、すでにアテナに謁見したのだろうか。軽くついただけだったはずの息が、重く沈んで溜息に変わる。
――解任の通告をされてしまうのだろうか。
が拒絶しても、昨日教皇の間で宣言してしまったとおり、カノンは の傍にいるつもりだった。だがアテナからそれを止められてしまえば、話は別だ。カノンはアテナへの忠誠を翻すことなどできはしないのだから。
どうしようもなく苛ついた。だがそのストレスを足を速めて緩和することもできない。ついにカノンは立ち止まり、手近な石塊に目を向ける。拳を握りしめた。
思ったよりも弾力のない岩だった。派手な音とともに、カノンの小宇宙によって砂粒程度まで破砕され、砂煙でも巻き上がったかのようだ。
しかし少し経っても収まるはずの轟音が消えない。おかしいと思ったところで、やはり収まったはずの砂煙がまた上がる。カノンはたまらずその場から背後に数メートル飛び退った。上を見上げる。轟音の出所を。
白いモビルスーツが、羽を広げて降り立とうとしているところだった。
聖域で大人しくしていると言ったのはどこの誰だとカノンは悪態をつきかけて、ここはまだ結界の内なのだと思い出す。しかしなぜこんなところに? まさかこれからどこかへ出撃(で)るつもりだったとでもいうのか。だがそれならば、01が降下体勢を取っている理由がわからない。
訝りながら、カノンは01を見上げ続ける。黙って待った。
やがて01は地に足をつけ、羽を閉じた。屈み込む体勢を取り、手(マニピュレーター)が胸部のハッチへと向かう。
マニピュレーターの上に姿を現しても、 は少しの間そこからカノンを眺め下ろしているだけで動こうとしなかった。風に髪が弄ばれて、 の顔を隠す。それを鬱陶しそうに抑えつけて、ようやく はマニピュレーターを下降させた。
カノンからほんの2~3メートルほど離れた場所へ降りたって、 はカノンを見つめた。目だけはきっぱりとしているようなのに、下ろされた手は明らかに行き場を探して落ち着かない。上衣の裾をつまんでは離し、なにかを逡巡していた。
別に意地悪をしてやろうと思ったわけではない。だが開いた口はどういうわけかつっけんどんな言葉を吐いた。
「アテナには、もう俺の解雇を依頼してきたのか?」
それは禁句だ。アフロディーテにさっき言われたばかりだし、自分でもわかっている。だが一度口にしてしまった以上、取り消すことはもうできなかった。
果たして弾かれたように、 の手がいじくり回していた裾を放して止まる。カノンをまっすぐ見ていた瞳が下を向いてしまった。
「ごめんなさい」
思いの外、しっかりとした大きな声だった。自分の声に勇気づけられたかのように、 のまなざしはもう一度カノンへと向かった。
「さっきは、ごめんなさい……ひどいことを言ったわ。あの発言は……撤回します」
「…………」
あまりにも予想外の台詞にカノンは毒気を抜かれる。まさか謝罪されるとは思わなかったのだ。ムウもアフロディーテもデスマスクも、カノンだけが悪いかのように彼を責めていた。カノンもまた、指摘されたとおりだと少なからず反省している最中だったから、驚きはひとしおだ。しかもたった今、また言い合いに発展しかねない暴言を吐いてしまったというのに。
狼狽から来る沈黙を、 は別の意味で受け取ったらしかった。せっかく上向いた顔が、また伏せられる。
「怒っているのでしょう? 当たり前よね。本当にごめんなさい。……今更、許してもらえるとは思わないけれど、でも」
どこか必死な表情で、 はカノンを見上げた。口早に告げる。
「あともう少しだけでいいから、私に付き合ってもらえないかしら。これまで私達、それなりに上手くやっていたと思うの。あとほんの少しだけでいいから、また今まで通りに――」
「……悪かった」
縫い止められたように動かない へと、カノンの方から近づいた。カノンの胸ほどの高さしかない頭にぽんと手を置く。馴染んだ感触だと、今更ながら思う。ほんの数時間触れないでいただけだというのに、なぜ懐かしいとまで感じてしまうのか。
「俺の方こそ、言い過ぎた。悪かった。本当に、アテナに俺の任を解くように要請されていたらどうしようかと心配していたところだ」
じゃあ、と の顔から翳りが消える。
「また今まで通りに……してくれるの?」
言葉の途中を濁したのがすこし引っかかったが、あえて追求しようとは思わなかった。頷く。
「ああ。乗りかかった船だ。たとえ任を解かれたとしても、最後まで付き合ってやるさ。――どうした?」
最後の問いは、惚けたように凝視されたからだ。すぐにはっと表情を改め、 は軽く頭を振った。
「いいえ、なんでもないわ。……ありがとう」
言って、うつむく。ありがとうともう一度つぶやく声が聞こえて、カノンは手を乗せたままだった頭を引き寄せた。
礼を言われる筋合いなど、本当はない。孤独に苛まれている の傍にいてやろうと決めたのに、それをあっさり反故にしかけた。そんな自分を、それでも頼りにしようとしてくれている。――嬉しかった。
今度こそ、なにがあっても裏切るわけにはいかない。胸の内からにじみ出る喜びに、カノンは誓う。
守る。どんなことからも、なんとしてでも、 を守る。――命令ではなく、自分自身に寄せられた信頼にかけて。聖闘士である前に、ひとりの人間として、それは為さねばならない大事だ。一度は人間としての道を踏み外した。今度こそ、違えるわけにはいかない。
密かに決めて、カノンは の背に腕を回す。さっきまで不安に震えていた背中をぽんぽんと叩いてやった。――本当なら抱きしめたかった。
だが自分には、きっとそんな権利はない。こんなに罪にまみれた手では。
今の自分がいったいどんな顔をしているのか、わからない。ただ、とても見せられないような状態であることだけは確かだ。どこもかしこも熱くて、唇がわなないている。目頭から溢れてきそうになるものを堪えるのに必死だ。
予想通り、ずいぶん怒っていたのだ。でも想像と現実は が思う以上に違っていた。実際の怒りに触れて、 の心は早々に萎えそうになってしまった。予想以上だった。
それでも勇気を振り絞った。できたのは、自分の都合をまくし立てることだけだった。これでは駄目だと諦めかけたとき、だしぬけに聞こえた謝罪の言葉。信じられなかった。あんなに怒っていたのに。
頭に乗せられた大きな手は、あたたかかった。そのぬくもりが、少し途切れがちな深い声が、 に染み込み、固く凝っていたなにかを溶かす。恐れのあまり冷え切り縮こまっていた心臓に熱い血が再び通い出して、喜びの鼓動を歌う。どくんどくんとうるさいほどに。
我慢できなくなって、下を向いてしまった。それでも口だけは勝手に動く。ありがとう、と。考えなくても出てくる言葉。涙の代わりに零れた気持ち。
添えられた手に力が籠もった。そして今度は、頬に額に感じる熱。カノンの胸に押しつけられたのだと、気づいたときにはもう片方の腕が背に回されていた。屈強なカノンの胸板は固かったけれども、ぴったりと押しつけられた耳に届く脈動は柔らかい。そっと背を叩く手からは、いたわりが感じられる。
はされるがまま、カノンを少しでも感じ取ろうと目を閉じた。
このぬくもりが、この拍動が、この腕が。一度は散ったなどとは、とても信じられない。怖くはなかったのだろうか? どれだけ痛かった? どれほど苦しかったのだろう? でもそんなもの、女神の――この地上のためなら、なんてことはなかったのだろうか?
エピオンに繰り返し見せられた死の瞬間を は思う。 にとってのあれは、予測された結果でしかなかった。虚像だった。だがカノンにとっては、一度は現実になったのだ。そう考えると、あまりの恐怖に震えずにはいられない。――本当なら、カノンはここにこうして といることなどできなかったはずなのだと、そう考えると。
それは にしても同じことだ。唐突に気づいた。もしも昔、母が女神に救われなかったら……? やっと、それを思った。
生まれて初めて、 は女神に感謝した。心の底から。ようやく。
それはずいぶんと現金な心根だ。だから罰が当たる。 は自嘲の笑みを浮かべた。こんなことだから、この幸せは続かない。受けて当然の天罰だ。
でもそれを恨むつもりはない。少しでも幸せを感じることができたのだから、それ以上の僥倖はない。むしろ、この恩には報いなければならなかった。
だから は心を決める。
女神とその戦士達が――カノンが、その身と命を文字通り捧げて守ったこの惑星(ほし)を、できる限り守ってみせる。
力は到底足りないだろう。でも最後の最後まで、できうる限りのすべてを振り絞って、少しでも守れたらいい。
こんな無力な腕でも、できることはあるはずだ。 にはまだ使えるものが残っているのだから。