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☆名前変換小説ではありません。
夏だというのに、寒い日だった。吹きすさぶ季節違いの寒風が、これから乗り込む船を不安定に揺らしている。
羽織っただけだったコートの前を合わせ、彼女はぶるりと身を震わせた。不意にその裾を引っ張られて視線を向ければ、やはり寒そうな顔をした息子が不安げに彼女を見上げてきている。安心させようと微笑んだ。
「寒いわね。ちゃんと暖かくしないとダメよ?」
しゃがみ込み、息子のコートのボタンも喉元までしっかりと留めてやった。ついでにファーで縁取られたフードも目深に被せる。
わかっていた。震えているのは、寒さのせいだけではない――少なくとも、彼女はそうだった。
息子をぎゅっと抱きしめると、彼もまたしがみつくように彼女の背に手を回してくる。まだまだ頼りないと思っていたその腕は、しかし意外なほど力強い。
そんな息子の肩越しに、彼女は周囲に注意深く目を走らせる。用心に用心を重ねてここまで来た。だがついに限界が来たようだった。船が岸から離れれば、恐らくもう後はない。
息子から身体を離し、さらにフードをしっかりと被せる。この子だけは、なんとしても守らねばならない。
強い願いを込めて、ロザリオを託したのは昨日のことだ。正教徒の多いこの国でそんなものを持っている人間は少ない。だがそんなことも知らない幼い息子は無邪気に受け取ってくれた。あれを大事に持ち続ければ、彼には未来が保証されるだろう。
そして授けたもう一つのものがある。
ロザリオを渡したとき、彼女は息子に言って聞かせたのだ。これから出港するこの船は、彼の父親の待つ東の果ての国へ向かうのだと。
だがそれは嘘だ。北極海に面したこの海から、かの国へ向かう船など一隻だっていない。――それでも、彼女はひとつも嘘などついていないのだ。
この船を下りた後、息子は必ずその国へ行けるだろう。
そのことだけが彼女の希望で、彼女が最後に夢見ることを許された、輝かしい未来だった。だからその未来のために、彼女は息子に与えたのだ。――新たな人生を生きるための、新しい名前を。
それは彼女が息子に用意してやれる、恐らく最後のものだ。
もう一度抱きしめた息子のぬくもりが本当に愛おしい。ずっとこのままでいたかった。
だがそのささやかな願いは、乗船開始を告げる汽笛によって無情に吹き飛ばされる。一つ頭を振って、感傷を振り払う。決然と立ち上がると、彼女は息子の手を引いた。
「さあ、行きましょう」
まだ終わりではないのだ。上手くやらねばならない。
そうすればもしかしたら、彼女が息子と共にこの先へ向かえる可能性が、万に一つでもつかめるかもしれないのだから。