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Side-S:中編04 Northern Cross 01


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 『夏』
 どの国にもその季節を示す言葉はあるが、意味は本当に同じだろうか。
 乾いた冷涼な風に吹かれながら、氷河はふとそんなことを考えた。
 昨日までうだるような熱気に辟易していたのが信じられない。7月も終わりだというのに、ここ東シベリアはまるで東京の冬のようだ。もっと内陸に行けば日本人でも夏を実感できる気温になるが、あいにくここは北の沿岸部だ。冬の冷え込みは内陸ほど酷くはない代わりに、夏でも涼しい。と言うより寒い。
 だが今年はそれでも例年よりは暖かいようだった。ほぼ一年中海を埋め尽くす氷も夏の期間だけは陸から遠ざかるのだが、今年はそれがいつもより早かったと聞いている。
 しかし今となっては、それは氷河にとってどうでもいいことだった。海氷を割ってでも冷たい海へと赴く必要は、もうないのだから。
 それでも一年に一度。この日だけは来ると決めていた。
 ――母の命日。
 船の事故があったのだ。だが彼の母以外に犠牲者はいなかった。だから慰霊祭が行われるわけでもなく、彼の他には誰がその魂の平穏を祈りに来るわけでもない。しめやかで寂しい、彼だけの祈りの日。
 花を投げ入れる。氷はなくとも冷たい海に手を差し入れ、氷河はそっと瞳を閉じた。墓標もないのだ。この海こそが氷河にとってはそれと同じ意味を持っている。もう会いには行けないけれど、こうしていれば触れていられるような気がした。
 母と死に別れてから、もう8年もの月日が流れている。氷河が彼女と過ごしたのは7年間。一緒にいた日々よりも、一人でいる時間の方が長くなってしまった。
 これからずっとその年月は長くなり、それにつれて氷河の中から母の面影は薄れていくのだろう。
 寂しいとは思う。だが悪いことではないはずだ。いつまでも死者を想い、縛られ続けることを、彼女自身が望みはしないだろう。――ようやく、そう考えられるようになった。
「少しは俺も、大人になりましたか? マーマ……」
 小さくつぶやく。笑みさえ浮かべてこの海を見ることができるようになったのだ。兄弟達にはまだまだボロクソに言われてしまうが、一歩進むことができたと自分では評価している。
 悼み続けること。それが甘いとか不要なこととは、氷河は思わない。自分は確かに彼女に愛されていた。その愛を忘れることは、人としてのなにか大切なものをなくしてしまうことと同義だ。
 胸に下げた形見のロザリオを握りしめ、氷河はしばし黙祷を捧げる。
 彼女は、確かに母として自分を愛してくれていた。そして氷河の父、城戸光政のことも確かに――これを認めるのは悔しいが――愛していたのだろうと思う。

 では、彼女を愛していた人間はいたのだろうか。

 ふとそんな言葉が頭をよぎった。一陣の突風に揺さぶられて、氷河は目を開く。冷たい風が彼を殴るように吹き抜けて、海を白く波立たせた。
 氷河自身については、この際カウントすべきではないだろう。言うまでもないことだ。では氷河以外に誰か彼女に肉親はいなかったのだろうか。――いないはずがない。母にも親はいたのだろうし、兄弟だって、もしかしたらいたのかもしれない。他の親戚や、親しい友人も。
「なぜ今まで考えなかったんだ……」
 呆然と氷河は後ろを振り返る。この大地の続く場所に、自分に――母に連なる人間がいるかも知れない。彼等は彼女の死を知っているのだろうか?
 もしも知ったら、悲しむだろうか?
 悲しませるだけだとしても、肉親が、知己があるのなら知らせるべきではないだろうか?
 今は彼女の辿った末路を氷河だけが知っている。それは畢竟、氷河が彼女を独占し続けていることに他ならない。彼女は氷河の母である前に、誰かの子であり、誰かの友人だったはずなのに。
「探さなければ」
 氷河は岸辺に膝をついた。もう一度、波に触れる。母の墓石を、撫でている気がした。
「知らせてあげるよ。マーマが好きだった誰かに、マーマのことを。――待っていて。必ず、探して連れてくるから」
 立ち上がる。すぐに駆け出して、振り返らなかった。宣言したことを成すまでは、もう振り返らないと決めていた。


 ***


 数えるのが馬鹿らしくなるほどたくさんある部屋は、全室が空調設備によって快適な温度に保たれている。しかしなにぶん広い屋敷のこと、いくらなんでも廊下の片隅に至るまで完璧にそんな設備があるわけはない。
 日本の、それも個人の邸宅には珍しい完全な洋館の縦長の窓から外を眺めれば、これまた洋風の幾何学的な庭が広がっている。
 黄昏を迎えた残照の中、ヒグラシの甲高い声ばかりが木々の合間に響き渡っていた。肌にまとわりつくような重い熱気とどこかもの悲しいヒグラシの音は、人の手によって作られたこの地にそぐわない風景を見事に裏切って湿り気の強い日本的な情緒を強硬に主張する。
 あえてその暑気を遮断しようともせず、氷河は窓際にもたれかかって夕闇に浸食されつつある廊下に佇んでいた。目の前のドアが開くのを待っているのだ。
 自らノックして入っていこうという気にはなれなかった。露骨に嫌な顔をされるのは目に見えていて、それはこれからする頼み事の成就の確率を自ら下げる行為に他ならない。勝ち目のない戦いに挑むのは幸か不幸か慣れていたが、この扉の先にいる相手には到底勝てる気はしなかった。
 黙って待っているうちに、空の朱が徐々に藍色に浸食されていく。人口密集地の汚れた空であっても、それなりに美しい光景だ。こんな風に空を眺める時間が得られたのは悪くない。重い気分が、少し軽くなる。
「ぅお!?」
 扉が急に開いたのと、奇声が上がったのはほぼ同時だった。待ち人――辰巳徳丸がようやく姿を現したのだ。
 扉を開ける速度もそうだが、開き口の真ん前に立っていたわけでもない氷河を確認する速度は称賛に値した。なんて反応速度だ。あまりに突然のことに驚いて、声すら上げることができなかった氷河は内心で舌を巻く。
「なんだ氷河じゃないか。驚かせるんじゃない! いるならいると言え――って、こんな所でなにをしているんだ? この先にはお前が立ち入ってもいい場所なんかないぞ。あんまり屋敷の中をうろちょろするな。未成年だし城戸家の養子扱いになっているからここに住まわせてやっているが、大事なお客様だってこの屋敷には大勢出入りされるんだ。お前のような奴らがお目に触れては失礼だろう。与えられた部屋の区画以外は出歩くんじゃない」
 ちょっと氷河を目にしただけで流れるように出てくる苦言の数々には、腹を立てるよりも感服した。良くもこれだけ口が回るものだ。こんな文句ばかりが湧き出てくるような頭だから、わずか30代半ばでそんな有様になるんだ。夕日が差し込んでいるわけでもないのに光り輝く辰巳の頭頂部を見て氷河はそう思ったが、当然口には出せるはずもない。ただ黙って頭を下げた。
「すみません、辰巳さん。ちょっとお願いがあって、お仕事が終わるのを待っていました」
 言い切っても頭を上げない。氷河だけではなく、恐らく他の兄弟達も身を以て知っている辰巳への対処法だった。普段なら知っていても実行はしないが、今はやらなければならない理由がある。ひたすら下手に出れば、とりあえず悪いようにはされないはずだ。
「おう、なんだ……改まって。わざわざずっと俺を待っていたのか?」
 果たして辰巳の声からわずかばかり険が消えた。氷河はようやく頭を上げる。しかし上げきらない。とにかく下から。鉄則だった。
「はい。いつもこのくらいの時間にはお仕事が終わると、沙織お嬢さんから聞いていますので」
「そうかそうか。で、なんだ? 小遣いの値上げなら無理だからな。そもそも城戸家の一員である以上、恥をかかすわけには行かん。よその子供よりはかなり多めにやっているはずだぞ」
 どうしてこう余計な一言、いや二言三言も多いのだろう。少しばかり沸騰しそうになるはらわたをつとめて冷却し、氷河はなるべく殊勝に聞こえるよう口を開く。ここから本題に入るのだ。すぐに突っぱねられないよう、ことさらに気を遣った
「ええわかっています。お陰で不自由することなくやっています。そういうことではなく……個人的なことでお願いがありまして」
「個人的な? なんだ? 勿体ぶってないで早く言え」
 急かす辰巳の、鞄も持ってすっかり帰り支度を整えている様子を見れば、早く帰りたいのだろうと察しが付いた。ならば本当にこれ以上もたもたすると却って機嫌を損ねてしまいかねない。そうは思うのだが、やはり少し言いにくかった。このために待っていたというのに、どんな罵詈雑言が浴びせられるかと思うとやはり気持ちが萎える。
「はい……あの」
「早くしろって」
 また声が尖ってきた。氷河は目を瞑る。思いっきり頭を下げて、勢いをつけた。ここまで自分を追い込めば、後には引けない。
「俺の母親の身元についてこちらになにか記録が残っているのなら見せていただきたいのです!」
 一息に言い切る。恥ずかしさと、すげなく断られそうな予感がない交ぜになって顔を上げることができなかった。恐らく辰巳は呆れきった表情で、そんな氷河を見下ろしていることだろう。
「また『マーマ』か……そういえばお前、母親の命日だと言って昨日ロシアに帰ったばかりじゃなかったか?」
 やっぱりだ。溜息混じりの声が痛い。それでもようやく切り出せたのだ。氷河は顔を上げる。せっかくの機を逃すわけにはいかない。辰巳に詰め寄った。
「ご迷惑なのはわかっています。でも、教えて欲しいんです! ロシアでも役所に行って聞いてきたのですが、全然記録が残ってないと言われてしまって――もうこちらで聞くしか手がかりがなくて」
「……ロシアでも調べてきたのか?」
 辰巳の目つきが少々変わった。はい、と氷河は頷いて、続ける。
「母に家族がいるのならばぜひ連絡を取りたくて、調べてみようと」
「家族?」
「はい。母方の親戚を、俺は誰も知らなくて。よく考えてみたら、彼女が死んだことを彼女の家族は誰も知らないんじゃないかって――知らせてやらないといけないんじゃないかって……」
 口に出した氷河本人が思わず恥ずかしくなるほどにしどろもどろな物言いだった。頭の中にあるうちは言いたいことは整理されているのに、どうして声に変換されるとこうも要領を得なくなるのだろう。
 こんな言い方では、また馬鹿にされて申し出も一蹴されてしまうに違いない。失敗の味は思った以上に苦かった。氷河は思わず顔をしかめる。うつむいた。
「そういえばそうだな……あのとき助かったお前は、なにも覚えていないわなにも知らないわで、結局お前の身元すらよくわからない有様だったんだっけな。旦那様がお前の顔をご存じでいらっしゃったから、お前だけはなんとか引き取ったりすることはできたんだが、お前の母親については結局なにもしてやれなかったんだよな……遺体すら引き上げられなかったというしな」
 珍しく神妙な声に驚いて、氷河は顔を上げる。しきりに顎を撫でながら、難しい顔をした辰巳は思い悩むように首を捻った。
「だがな、もしもお前の母親の身元がわかっていたのなら、当時にどうにかしていたはずだとは思わないか?」
「……!」
 問いかけの形をとった拒否の言葉。氷河は愕然となる。城戸家(ここ)ならば、そのくらいの情報は持っていると頭から信じ込んでしまっていた自分の迂闊さにようやく気づいた。
「……それから悪いが、旦那様の愛人に関しては、俺は基本的にノータッチだったんでよく知らないんだよ。その当時、俺はまだ学生だったしな。関わってないんだ。それに表沙汰になっては色々まずいこともあるし、なにより個人的なことだから、そもそも記録なんて公に残すはずもない。まさか財団の職員みたいに履歴書があるわけでもないしな」
 辰巳の言うことはもっともだった。百人以上か以下かは知らないが、城戸光政には兎に角とんでもない数の愛人がいたはずなのだ。そういう相手を本人以外が記憶はおろか記録しているなど、普通に考えればありえない。
「そう……ですか」
 悄然とうつむいてしまった氷河を哀れんだのか、辰巳は取りなすように付け加えた。
「……とは言え、リストのようなものはあったらしいんだがな。生活費のようなものを渡している相手もいたみたいだし、第一それがないとお前達のような私生児を捜して回ることもできなかったわけだから」
「じゃあそのリストって」
 ぱっと顔を上げた氷河に、辰巳は重々しく首を振る。先走る期待を制した。
「もう、どこにもないはずだ」
「………………」
「そのリストは多分、旦那様に長年仕えていた俺の親父が作ったものだ。親父は旦那様に篤い信頼をいただいていたからな、そういう旦那様の影の部分を一番多く知っていた人間だった」
「じゃあ、辰巳さんのお父さんに聞けば」
 食い下がる氷河に、辰巳は静かに告げる。
「親父は、3年前に死んだよ」
「え……」
「仕事の引き継ぎで書類は全部目を通したし、個人的な遺品の整理もみんなやったが、そんなリストは見つからなかった。恐らく、用が済んだ時点で全て処分していたんだと思う。見つからなかったということは、つまりそういうことなんだろう」
 こんなに申し訳なさそうに話す辰巳を、氷河は初めて見た。ならばその言葉は本当に真実なのだろう。もともと傲岸不遜で鼻持ちならない人物ではあるが、嘘をつくような人間ではないことは、沙織が彼を傍で重用していることを見ればわかる。
「……そうですか……ありがとうございました。お時間を取らせて済みませんでした」
 わずかな望みを絶たれて今度こそがっくりと項垂れ、氷河は踵を返した。夏の長い日ももう差し込まなくなった廊下をとぼとぼと戻り始める。
 その背を辰巳は追ってきた。
「財団の力を使えば、ある程度調べることはできると思うぞ。お嬢様にお願いしてみたらどうだ?」
 辰巳にしては珍しく、皮肉もなにも含まれない言葉だった。だが氷河は頭を振る。
「いえ……そこまでお手を煩わせる気はありません。ありがとうございます」
「諦めるか?」
 なにかを確認するような色を帯びた辰巳の声に氷河は立ち止まった。結局はそういう方向に持っていきたかったと言うことだろうか。馬鹿にされる気はない。はねつける。
「いえ。もうちょっと頑張って、調べてみようと思います。もう一度、ロシアで」
 見据えて宣言する氷河をちらりと見てから、辰巳は少し考えこむように目を伏せた。
「俺もそう詳しいわけではないが、ロシアってのは、やっぱり今でもいろいろある国だろう? 正攻法でいけると思うか?」
 随分と真面目な口調だった。別に氷河を虚仮にするつもりはなかったようだと、それで知れた。
「それは……」
 冷静な指摘に氷河は口ごもる。辰巳の言うとおりだった。
 おかしいとは、既に思っている。昨日から今日にかけてロシアの役所で色々調べようとしたのだが、記録がないとすげなく追い返された。その対応があまりにも早すぎることに、かの国をよく知っている氷河が違和感を覚えないはずがない。お役所仕事とは大抵時間がかかるものなのだ。
 かつて氷河が母と死に別れた当時と今では、国の名がそもそも変わっている。様々な登記情報の混乱があることなど簡単に予想がつく。だがそれだけではない。何とも悪いことにその国体の内実、その根本部分はそう変わっていないのだ。運良くそこを修業地に引き当てることができた身であるからこそ、氷河はその闇の部分を詳しくはなくとも、肌で知っている。辰巳はそこを見事に指摘していた。
 たいした洞察力だと、氷河はほとんど初めて辰巳を見直した。正直見くびっていた部分があるが、さすがは天下のグラード財団総帥の執事をしているだけのことはあるということか。
「お嬢様に頼むのが嫌でも、やっぱり専門家の力を借りたほうがいいんじゃないか?」
 心証が変わると、意見も受け入れやすくなるものだ。氷河は素直に耳を傾けた。
「専門家?」
「ああ、探偵とかな」
「探偵……」
 氷河は目をしばたたく。言われるまで全く気づかなかった。そういえば世の中にはそういう職業もあるのだった。成る程、そんなに無知な氷河が無駄に頑張るよりも、そういう専門家に依頼する方が確かに効率は良いだろう。
「ありがとう、辰巳さん! そういう手もあるんですよね! 俺、調べてくれそうな所を探してみます!」
 俄然元気を取り戻し、氷河は辰巳の手を取り上下にぶんぶんと振ることまでした。あまりの慕われぶりに辰巳は目を白黒させる。光政の遺児から、こんな態度を取ってもらったのは初めてだった。
 さすがは聖闘士。あっという間に長い廊下を走りきり、姿が見えなくなるまではほんの一瞬だ。誰もいなくなった廊下を辰巳は戻る。ひとりごちた。
「ただのマザコンかと思っていたが、ああなると孝行息子と評価を変えるべきかな……」
 すっかり陽の落ちた仕事部屋に舞い戻る。灯りをつけて探したのは一冊のファイルだ。書棚の片隅で厚い埃を被ったそれには、氷河にはないと言い聞かせた履歴書がファイリングされている。
「《スミルノワ・ナターリア・イワーノヴナ》……これだな」
 ぱらり。めくれば生真面目な表情の美女の写真の横に、タイプされた細かい文字と少し大きめの自筆のサインが並んで書き込まれていた。流麗な文字を目でなぞる。しっかりとした強い筆圧で記されたそれは、決して欺瞞を感じさせるものではない。しかし。
 次いで添付された封筒から中身を取り出す。
「旦那様のロシア語通訳、か……信頼できるルートを通して正規に雇った通訳のはずなのに、照会した身元は一見良く偽装されているものの、詳しくつつけばまるでデタラメ、と。それでも雇ったと言うんだから、本当に訳がわからないな……」
 当時、それこそ『探偵』に頼んだわけではないものの、グラード財団が裏の人脈を駆使して調べ上げた情報らしい。その正確性においては疑問の余地はない。どう考えても辰巳の一存で漏らして良い情報ではなかった。だから悪いとは思ったが、彼女の実の子である氷河にもこのファイルの存在は伏せたのだ。その貴重なファイルをぞんざいに机に置き、辰巳は首を傾げた。
「旦那様との関係も、どうも他の愛人と違うような気がするしな。雇ったのが19年前なら、氷河が生まれるまで随分間がある。確かあいつ、もうすぐ16だったはずだよな? ……あの旦那様が、こんな美人相手にそんなに長い間手をこまねいていたなんて……いやいやいやいや!」
 そう長い期間ではなかったものの、辰巳が忠義を捧げた主のことである。いくら誰もいない部屋とは言え、ついうっかり誹謗の言葉を口に出してしまった自分自身に辰巳は失望する。
 紐解いても別に用が足せるわけでもなかったファイルを閉じ、辰巳はまた元の書棚にそれを戻した。ぽっかりと空いた隙間に丁寧に納め、ついでに周りの埃も払う。そういう雑事をしていると、過去の記憶が掘り起こされやすくなる。
「そもそもどうしてあの時、俺がわざわざシベリアくんだりまで氷河を迎えに行かされたのか、未だにわからないんだよな。――いや、初めは女を迎えに行けと言う話だったのに、肝心の女は海の底。いたのは子供だけだったんだっけか」
 書棚がすっかり綺麗になった。手を止めて、辰巳は禿頭をぶんぶんと降る。わからないものは、わからない。考えるだけ無駄である。そして類推することにも意味はない。事実なんて言うものは、事実でなければ意味がないのだ。調べてみなければその内実などわかりっこない。
「ヘタに藪をつつかれたら、大蛇が出てきそうだ。それはどうにもまずい……やっぱり先に手を打っておいた方が良さそうだな。入れ知恵をして置いてよかった。さすが俺、やることに無駄がない――さしあたり口止めできそうな奴と言ったら、あいつしかいないだろうな……」
 デスクの上の電話に手を伸ばす。受話器を取り上げ、めくったのは隣に備え付けてあるアドレス帳ではない。胸ポケットからプライベート用のそれを取り出し、辰巳はデスクに広げて置いた。
 番号をプッシュし、呼び出し音を聞きながら辰巳はちらりと壁の時計を確認する。19時半。ゴールデンタイム。これなら直で話がつけられそうだ。
 果たしてぞんざいな男の声が応答し、辰巳はアドレス帳をパタンと閉じた。
「おお、松ちゃんか、久しぶりだな! 相変わらずうだつの上がらない稼業で悠々自適な日々を送ってるみたいじゃないか、羨ましいなまったく!」
 うるせえタコと受話器から怒鳴り返されて、辰巳はにやりと笑う。名乗りもしないのにこの反応なら大丈夫だ。これなら食いついてくれると、少しばかりほっとした。

Northern Cross 01 / To Be Continued


マーマの足跡を辿りながら一段階成長する氷河の話。
……にしたかったんですけどね。これを書いてる時点ではね。←
気が向いたら別ブログの方にでも裏話とか書くかもしれません。

 ※裏話書きました。http://goo.gl/53kM 後半部分です。

2010/06/04


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