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☆名前変換小説ではありません。
不幸にも氷河を乗せてしまったタクシーの運転手は高齢の男性だった。しかし驚くほど臨機応変な対応は、経験のなせる業だろうか。
「海の方へ走ってください!」
乗り込むと同時に、そんなあやふやな行き先しか告げなかったにもかかわらず、聞き返すことなく急発進させてくれた。ちらりとバックミラーで後ろを確認した後、何事もないかのように聞いてくる。
「青海の方でいいですかな? それとも有明の方?」
事情を察したのだろう。人気の少ないところへやってくれるつもりのようだ。氷河は頭の中の地図を広げる。
「青海方面でお願いします。一番先まで行ってください。どこか、人の少ないところへ」
「かしこまりました。――道はどうされます?」
一応そう尋ねてくれたが、運転手も追われていることには気付いているのは明らかだ。頻繁に車線変更を繰り返し、スピードもそれなりに出している。ダッシュボードに飾られた『30年間無事故無違反』の証明書が胡散臭く感じられるような運転の荒さだが、それが本物であるならばプロ中のプロと言うことだ。
「お任せします」
それだけを答えて、氷河は握り締めていた数枚の一万円札を運転手に手渡した。
運転手は顔の横に差し出されたそれを横目で眺め、次いで氷河の顔をバックミラーで一瞥する。視線はすぐに逸らされ、一枚だけが器用に抜き取られた。
「お客さん。青海くらいだったら、一枚だけでもお釣りが出ますよ」
「でも、ご迷惑をおかけすることになるかもしれません」
「私の仕事はお客様を目的地までお送りすること。それ以外の面倒ならお受け致しませんので、これで結構ですよ」
きっぱりと言い切られて、氷河は怯む。本当に迷惑がかかるかもしれないのだ。それに口止め料の意味もあった。
「ですが」
言い募ろうとする氷河を運転手は穏やかに制する。
「失礼ですが、お客さん。そんな格好をしておいでだが、まだお若いのでしょう? そんなに何万も、簡単に支払えるようなお年ではないようにお見受けします。それとも、とんでもなく裕福なお家の方なのですかな?」
「……裕福といえばすごく裕福な家に住まわせてもらってますが……でもこのお金は、自分のものではありません。さっき逃げろと言われて渡されたものなので……」
思わず正直に答えてしまった。恐らくは奇妙なその返答に、しかし運転手はそれ以上突っ込んで事情を聞き出そうとはしなかった。ただ含むように語る。
「なら、大事になさい。稼ぐというのは、簡単なことではない」
経験してきた人生の重みと長さを感じさせる言葉だった。年齢からして戦中、戦後と激動の時代に揉まれながら生き抜いてきたのだろう。
だが氷河とて、そこいらの同年代の日本人には予想もつかないような奇矯な境遇を経験してきた。金銭で苦労してきたわけではないが、それでも運転手の真意を理解できないわけもない。
「――知ってます」
「そのようですな」
なにがおかしかったのか、運転手は呵々と笑う。そうしながらも周囲の――特に後ろから追ってくる車の確認も忘れてはいない。中央車線から突然左側へ二車線ほどまたいで移動すると、細い横道へと急ハンドルを切って左折した。
「時にお客さん。金の大切さをきちんとご存知のようなのでお尋ねしますが」
運転の荒さとはかけ離れた穏やかさで、運転手は再び口を開く。
「なんでしょう」
「もしも百億円やるから世直しをしろと言われたら、お客さんならその金、どう使いますか?」
氷河はきょとんと今の言葉を反芻する。どうにも突拍子のない話だった。移動中の他愛無い世間話にしても、あまりにもぶっ飛んでいる。
氷河の戸惑いを感じたのか、運転手は苦笑と共に補足を入れた。
「世直しってのはね、ほら、今の世の中ときたらどうもおかしい事がたくさんでしょう? 例を挙げればきりがありませんけどね――そうですね、お客さんみたいな若い人が、変なことに巻き込まれていたりだとか。まあ、いろんなものをひっくるめての話です。もしもお客さんに飛びぬけてすごい力――それをここでは金と定義したわけですけどね、そういうのがあったら、どうしますかとお聞きしたんです」
やはり良くわからない。氷河は首をひねる。良くはわからないが、氷河なりに解釈することはできる。
「どんな大金を持っていようとも、それだけで何かができるだなんて俺は思いません。あなたのおっしゃる世直しというのがどんな意味のものなのかわからないのですが、でもこれだけは言えます。お金があるというだけで、思い描いたことを簡単に実現できるものではないと」
「ほう?」
興味深そうなその相槌は明らかに先を促していた。だから続ける。
「なにかを成すために、確かに『力』は必要でしょう。それが財力であれ、他のなにかであれ。でもそういった要素を複数持っていたとしても、何事かを成すのは、さらにそれを見届けるのはとても難しいことです。――俺は少なくとも一人、その道半ばで斃れた人間を知っています」
「道半ばで? ……それは、どういったお方なのですか?」
運転手の声に、始めて追求の色が混じった。答えなくてはと、短い言葉ながらもそう思わせる運転手の話術が巧みなのだろう。氷河は聞かれるままに口を開いていた。
「その男は、本当に掛け値なしの大金持ちでした。そして大きな事業をいくつも手がけては成功している、辣腕の経営者でもありました。しかし一方では大勢の愛人を抱え、子供もあちこちに作っているような男でした。その数といったら、他人に言ってもちょっと信じてもらえないくらいです。しかもその男はその事実を一切、明るみに晒されたりはしないほどの影響力を持っていて、実際にその力を有効に行使していた。……どんなに有能であっても、人間性だけを見れば最低な男としか思えません」
「…………」
すっかり聞き入ってしまったのか、運転手の相槌が消えた。だが決して呆れているような風情ではない。それに励まされるように、氷河は語り続ける。
「彼はある時、唯一無二のひどく尊いものを見知らぬ人間から唐突に託されてしまいました。彼にはそれを拒む術はなかった。なぜならその相手は瀕死だったからです。最期まで、彼にそれを守ってくれと頼んでいたのだそうです。……世界というのは時として、必然としか思えないような奇跡的な偶然を引き起こします。その男にそれが託されたのも、まさにそういった奇跡のひとつだったのかもしれません。その出会い自体は偶然であったにもかかわらず、彼には託されたものを守りきる財力も影響力も有り余るほどにあったのですから」
まさか馬鹿正直に事実を全て語るわけにもいかない。相当ぼかしてはみたものの、運転手が先程口にした百億円云々と同じか、それ以上に突拍子もない話であることに変わりはなかった。
だがそうとわかってはいても、氷河の口は勝手に動く。もしかしたら、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。母の足跡を追うに当たって、結局は知らないままでいることは適わなかった父の話を。
「虫の息の中、相手は彼に告げたそうです。いずれそれを守るものが集まってくるだろうと。だからその時が来るまで、それを守って欲しいと。そして彼はそれを受け入れました。しかしそれだけではなかった――彼は、その『時』が来るのを待ったりはしなかったのです」
言葉を捜して、わずかに言い淀む。どう表現したものか、心の整理はついていない。だが黙ったままの運転手が仕事に専念しながらも言葉の続きを待っていることは空気でわかる。
「……彼は、彼自身の手で、その『時』を引き寄せることを考えついてしまいました。数多くの贄を差し出すことで、それを成そうと」
贄、と。
自分の口から出た言葉に氷河は愕然となった。そうだ。光政は神(アテナ)に贄を捧げるかのごとく、惜しげもなく自らの血を引いた子供達を世界各地にばら撒いたのだ。
氷河自身も間違いなくその内の一人で、だからこそその点に拘るしかない。
なぜ光政は、アイオロスの言った未来をただ信じて待つことをしなかったのか。
なぜ突然見も知らぬ人間から託された得体も益体も知れない『神』などというものを、言われるがまま遇する気になったのか。もしも自分が預かったはずの『女神』が、本当はただの赤ん坊でしかなかったとしたら? ――そう考えたことはなかったのか。
ただの赤ん坊かもしれない赤の他人よりも、なぜ氷河を初めとする実子達にその目を向けてはくれなかったのか。
そして疑問はさらに深まる。
なぜ自分に連なる者から聖闘士を排出しようなどと考えたのか。――その目論見がどれだけ成功するか、その確率を城戸光政はきちんと考えたのか。
伝説の聖闘士という存在を知り、それを自分の手の届くところに置きたいという所有欲が勝ったのか? もとより多くのものを手にしていた男だ。その可能性は充分にある。それはそれでいい。
だがそのために差し出されたのがよりにもよって、なぜ氷河達でなくてはならなかったのか……!
考え始めればキリが無かった。なにもかもが悔しい。もともと城戸光政という人間に対して抱いていた印象など良いものではなかった。だが知れば知るほど手のつけようがないほどにそれはさらに悪くなって、いつしか憎しみすら覚えるほどになってしまっていた。
つまりかつての氷河は城戸光政に――父親に、わずかながらも期待を抱いていたのだ。母が尊敬の念を抱き、最後まで信頼していたであろう男だ。信じたかった。たぶん、信じていたかった。だがその思いは調べていくうちに裏切られ続け、やがて小さな期待は憎悪に変わった。
城戸光政は、死んでいて幸いだったのだ。もしも氷河たちが聖闘士となって戻ってきた時に生きていたら、きっと、誰かが――。
そんな想像をするのはえげつないことだ。わかっている。それでも考えずにはいられない。
手を下すのは氷河だっただろうか。それとももっと早くからいろいろと知っていたとおぼしき一輝だったかもしれない。とにかく彼が存命であったなら、己の子の怒りの捌け口となっていたに違いないのだ。だが城戸光政は死によってその運命から逃れることができた。つくづく運のいい男だ。
そして氷河のやりきれない思いは、結局どこにも逃すことができずに燻り続けるしかない。悔しかった。それはもう、どうしようもないくらいに。
いろんな思いが渦巻いて、氷河はそれ以上喋ることができなくなってしまった。運転手も黙ったままだ。タクシーは重い沈黙を載せたまま、対向車が少なくなってきた暗い道をひた走る。
妙なことを口走りすぎたのだとようやく気付いた。氷河は気まずく目を車外へと向ける。建物の隙間から見える先が暗い。東京湾が見えている。
振り返って、後ろを見る。何台かの後続車に阻まれてはいるが、時折無理な車線変更をしている白い車は見間違えようがなかった。まだ追って来ている。
「贄とは……ずいぶん恐ろしい話ですな」
不意に運転手がそんなことを口走った。氷河は向き直る。話はもう、終わったと思っていた。
「そんなものを捧げなくてはならなかったとは、その男というのはずいぶん追い詰められてでもいたのですかな?」
「追い詰められていた?」
意味がわからない。聞き返した氷河を運転手はバックミラー越しに見る。
「贄なんていうものは、自らの身を削るほどに大事なものでなくては意味がない。違いますか? どうでもいいものを捧げたって、贄の役には立たんでしょう。どうしても手放したくないもの。かけがえのないもの。そんなものでなくては、贄にはなりません。そしてそんなにも大切なものを捧げるくらいだ、よほどの大願があったのではないのですか?」
「……!」
目が覚める思いがした。そんな風に考えたことなど、なかった。
大願。
そう言うからには、それは地上の正義に他ならないと氷河には予想がつく。城戸光政は息絶える前のアイオロスから聞いたのだと言う。託された赤子は女神アテナ。この世に邪悪がはびこる時、何百年かに一度降臨する救世主なのだと。
「正義を守ることを……あの男がその先にある平和を望んでいたというのか? あんな無用の戦いを俺達に押し付けた、あの男が……」
にわかには信じられなかった。
そもそも氷河達、グラード財団の息のかかった聖闘士を集めた銀河戦争などという企画の初期構想は城戸光政によるものだ。子飼いの聖闘士をその掌の上で戦わせ自らの影響力を誇示しようとしたのだろうと、その無益なイベントを知った聖域関係者達は押しなべてそう思ったに違いない。
勿論、氷河もその一人だ。だからこそ、初めからグラード財団の召集になど応じたりしなかった。赴いたのはあくまでも、聖域からの勅命があったからだ。グラード財団の名に屈したわけでは、決してない。
しかしよくよく考え会わせれば、運転手の言うことはもっともなのかもしれない。
城戸光政は、女神と共にアイオロスから託された射手座の黄金聖衣を所持していた。アイオロスの言葉により、聖闘士の存在や聖域の実在を知った。少し調べれば、黄金聖衣は最も位の高い聖闘士に与えられるものであることなど簡単にわかったはずだ。
だがいくら黄金聖衣を所持していても、それだけでは意味がない。それを纏い、正義の拳を振るえる聖闘士がいなければ黄金聖衣には大した価値などないのだ。
グラード財団は――城戸光政は、本当ならばアテナの本拠地である聖域に逆賊が君臨していることを知っていた。女神を擁している以上、そんな邪悪の巣窟と係わり合いなど持てようはずがない。しかし聖闘士を束ねるのは聖域だ。アイオロスの言葉どおり、もしも『真の勇気と力を持った本物の聖闘士』が現れたとしても、それが聖域からやって来る以上は信用が置けない。そんな者に黄金聖闘士たれとその至高の聖衣をおいそれと与えることなどできはしない。
だから城戸光政は、託せる人間を自ら育てようとしたのではないだろうか。自分の子が聖闘士になることができれば、その子は偽りの聖域とは関係がないことは明白だ。すなわち黄金聖衣を託すに値する聖闘士を最も確実に得られる唯一の方法。それこそが。
「銀河戦争は、まさかそのために――」
銀河戦争とは、射手座の黄金聖衣を託せる聖闘士を見出だすためだけにでっち上げられた企画だったのではなかったのだろうか。それだけのために城戸光政は己の血を引く子供達と、自ら築き上げたグラード財団の総力、持てる全てを注ぎ込んだ。
――城戸光政という男は、女神アテナがまさしく本物の救世主であることを信じていた。
真実はわからない。だがそう定義すれば、城戸光政がそうまでした行いの全てに説明がつけられる。
城戸光政は、女神アテナを信じていた。女神がこの世を救ってくれると信じていた。そしてその大役の一端を、自分も担わなくてはならないのだと信じた。そして信ずるもののために――この世界を守るために、なりふり構わず持てるもの全てを差し出した――?
そう考えれば、救われる――ような気がする。少なくとも氷河の気は、それで晴れる。
そうであるならば城戸光政という人間は、確かに母が敬愛の念を抱き続けただけのことはある傑物だと、そう評価できる。
氷河が父という存在に対して抱いていた期待は、裏切られない。
「かつて、私が知っていた人物の話ですがね」
運転手が唐突に話題を変えた。氷河は知らないうちに伏せていた顔を上げる。周囲がさらに暗い。商業地区を抜け、港湾施設の並ぶ区域に入ったようだ。
「元から持っていた財力に加え、とんでもない才覚に恵まれた男でした。冷徹なまでに大鉈を振るってはやることなすことみんな成功するものだから、手練手管に長けていると悪い目で見られがちな男でした。しかもそうなるよう、あえて狙っているような節までありましてね。まったくどうしようもない。しかし、やっていることそのものは至極まっとうなことばかりで、悪ぶってはいましたが、実はちょっと珍しいくらいの正義漢でした。ま、やり方だけを見れば随分と損をしているとしか、私には思えなかったんですが」
「――?」
何の話だろうか。氷河は黙って耳を傾ける。
「その男と最後に話したのも、この車の中でした。――随分、心痛を抱えているようでしたよ。大事にしようと思っていたもの全てに、ひどい仕打ちをしてしまっているのだとね。その少し後、彼は死んだと聞きました」
「それは……お気の毒でした」
話の先が見えない。困って氷河は差し障りのない相槌を打つにとどめる。車が少なくなって、追跡が気になった。後ろを見る。
「その男は、最後に少しだけ秘密を打ち明けてくれました。ロシア――当時はソ連でしたが、その当局の重大なネタをつかんだとね。その数年後でしたか。ソ連という大国が崩壊したのは」
「……!」
後ろを振り返っていた氷河は、運転手に向けていたその後ろ頭をガツンと殴られたような心地がした。このタイミングで、なぜその国の名が出てくる?
「裏の話ではありますが、彼は政治的にも大きな影響力を持っていました。もともと当時、ソ連を初めとした東側各国の情勢には暗雲が少々立ち込めていました。彼はそこへ、なにか重大な一石を投じたのかもしれませんな。それによって長く続いた東西の冷戦は終わり、世界は、完全でなくとも少しは良い方向へと動いた。もっとも、彼がその様を目にすることは結局叶わなかったわけですが」
――まさか。
氷河はバックミラーに映りこむ、運転手の顔をまじまじと眺める。その好々爺然としながらも、油断のならない光を湛えた目をした老人を。
運転手の話の何もかもは、氷河の知るその男の話と一致している。
「あなたは、もしかして城戸光政を――」
「到着ですよ、お客さん」
全てを口に出す前に車は止まった。氷河の横のドアが自動で開く。
「お釣りは無くても構いませんかな? ――代わりに、もう一つだけお聞かせしましょう」
無言で車から降りる直前、運転手は釣り代わりの一言を送った。
「ノーザンクロス。それが最期の輝きでもって導いてくれたのだと、彼は言っていましたよ。そのときの私には、なんのことやらさっぱりでしたが」
堅いコンクリートの地面に降り立ち、氷河は胸に下がる十字架を握り締める。その瞬間、脳裏に閃くものがあった。
この光景、この感触。――覚えがある。前にも一度、こんなところで、こんな感覚を味わっている。
夏の夜。人気の少ない港。手の中の十字架。空気はうんざりするほど暑いのに、踏みしめた地面と手の中の金属は不思議なほどに冷たいのだ。既視感と呼ぶには、それはあまりにも鮮明だ。
なぜ忘れていたのか。氷河は目が覚めた思いで、もう一度十字架をぎゅっと握りこんだ。屈んで運転手に声をかける。
「ノーザンクロスは今でも輝いていて、俺を導いてくれています。――どうも、ありがとうございました」
運転手が頷き、ドアが閉まる。かわりに窓が開いた。
「久々に面白いお客さんに巡り合えて楽しかった。ぜひとも私のゲームにお誘いしようと思ったのだが、あなたには少々フィールドが狭いようだ。では、ご武運を祈ります」
それだけ言うと、亜東タクシーと文字が入った車は上のライトを消し、猛然と方向転換をして去って行った。
エンジンとタイヤの軋む音が消え、人気の少ないコンテナヤードに暫時の静寂が満ちる。タクシーは来た道とは別の方向へ向かったが、この埋立地の先端部分まで通じている道路は少ない。追跡者達とかち合わないことを氷河は祈った。
果たしてその願いが通じたのかどうか、それほど時間をおかずに再び、かなり噴かしているエンジンの音が聞こえて来る。騒音はタクシーの消えた方向からのものではない。胸を撫で下ろした。
周囲を見回す。光量のある照明が等間隔に設置されたコンテナヤードは決して暗くはない。そのぶん、野積みにされたコンテナの影や、岸壁の直線に切り取られた海の漆黒が深かった。人の気配はとりあえずない。これなら少しばかり派手に立ち回っても大丈夫だろう。
あえて照明の当たっている部分を選び、海を背にして氷河は迫り来る追跡者を待つ。これではまるで背水の陣だと思ったが、別に絶体絶命でも決死の覚悟を決めているわけでもない。氷河は聖闘士なのだ。うまくやれる自信ならある。
問題は、ここにいるのが年端も行かない子供などではなく、旧ソ連出身の『ナターリア・スミルノワ』であると相手に思わせることができるかどうか。それだけだ。
スポットライトを思わせる光の中に立った氷河の数メートル先で、コンテナの陰からタイヤの軋む音と共に唐突に白いワゴン車が現れた。
完全に止まりきる前にドアは開かれ、武器を手にした外国人が次々と出てくる。全部で5人。作業着姿の者もいれば、一目で防弾チョッキとわかるいでたちの者もいる。
正念場だ。気分が引き締まる。つられて口角が上がる。不敵に笑っているように見えるだろう。
氷河の発する目には見えないプレッシャーのようなものを感じるのか、慌てて襲って来ようとする者はいない。暴力が身に染みている人間の方がそういった気配には敏感なものだ。
だから氷河も感じる。目の前の男達は全員がその道のプロだ。
事務所の前で氷河に声をかけた男が、ここでもやはり一番に口を開いた。
『スミルノワ――この裏切り者。まさか生きていたとはな』
知り合いなのか。今の氷河は、それほど母に似ているだろうか?
そんな疑問を抱いただけで、それ以外は何の感情もわき上がってこない自分に氷河は軽く戸惑う。母を知っていた人間に会ったのは、これが初めてだったのだ。親しくなくとも――銃口を向けられるような間柄であっても、求めていた母の知己であることに変わりはないのに。
『お前のせいでなにが起こったか、わかっているのか? お前の行いがどれだけ大きなものを沈めてしまったか、その罪深さをお前は自覚しているのか!』
勿論、わかっていた。氷河の母――スミルノワ・ナターリア・イワーノヴナは、何もかもを理解していたはずだ。だから氷河はその詰問に頷いた。
なんとなく氷河も事のあらましを把握しかけている。だから頷いたのだ。
しっかりと、同郷の男達を見据えて。
Northern Cross 06 / To Be Continued
この部分を書くまで、城戸光政についてまさかこんなに考察する日が来ようとは夢にも思っていませんでした。
プロットの段階でもどうやらここまで掘り下げるつもりはなかったとみえて、その辺については全く触れられていなかったため、ぶっつけ本番で書くことになってしまいました。
正直、結構後悔しましたが、なんか自分の中で練り上げた氷河という人格が随分とその部分にこだわってくれてしまってどうしようもなく(笑)
それでもただ言いなりになるのも悔しいので、お遊びでタクシー運転手を登場させてしまいましたが、これがまたさすがに一癖も二癖もある人物で。
さすがはジュイスシステムなんてものを創り上げ、セレソンゲームを考えた人物だけのことはあっていい仕事してくれましたw
というわけでDARKER THAN BLACKに続く第二弾、東のエデンからのキャラ引用小話でした。
このままいくともしかしたら十数年後、この世界の日本にミサイルが降るかもしれませんね。DTBと違って設定的に齟齬は生まれなさそうですしw
別ブログの方にここまでの話に出てきた小事についての解説的補足などを書いてみました。
→ NorthernCross小ネタ(追記部分)
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