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☆名前変換小説ではありません。
ある夏の深夜、城戸邸はにわかに騒がしくなった。
何の連絡もなしに門限を過ぎても帰って来なかった氷河が、日付の変わる直前になってようやく戻ってきたと思えば、なんとずぶ濡れだったのだ。ただ濡れているだけならともかく、なんだか磯臭い。というより半分乾いていて生臭い。
しかもそれだけではなかった。
城戸邸に入ってすぐの広いホールでようやく灯りに晒された氷河の風体は、濡れていることを差し引いたとしてもあまりに異様過ぎた。
「……誰?」
一番に出迎えた星矢がそれきり絶句する。
「氷河だと思ってたんだけど……どちらさま?」
瞬までもがそう尋ねてしまったが、それはまだマシな反応だと言える。共にホールへとやってきたほかの兄弟達はことごとく、驚愕と哀れみの篭った生温かい目で氷河をまじまじと見つめていた。のみならず、ひそひそと耳打ちしあう。
(女装……だよな)
(母親が恋しいあまり、真似でもしたくなったんでしょうかね)
(似合ってるってのがまた)
(あいつ、正気なのか?)
(お前、幻朧拳かなにか使わなかったか?)
(馬鹿な。そんなことをして俺に何のメリットがある?)
(いや、だってさ……)
当然会話は全て当人に丸聞こえである。顎まで滴り落ちてきた汗だか海水だか涙だかわからない水滴を拭えば、手の甲に口紅が移って疲労感がどっと増した。頭が痛むのは、頭頂付近できっちりと結ばれた髪のせいだろうか。結んだ部分に付け足された長い付け毛がじっとりと濡れて、頭がひどく重い。前に落ちてきたその長い偽の金髪を鬱陶しく払いのけ、氷河は兄弟達をぎろりと睨みつけた。
「お前達……」
握り締めた拳ををふるふると振るわせた時だ。
「氷河! 無事だったのですね!」
ホールを見下ろせる階段から、張り上げていても落ち着いて聞こえる柔らかな声が降ってきた。氷河を初めとした全員が振り仰ぐ中、昼間とは違ってゆったりとした衣装を身に纏った城戸沙織が足早に降りてくる。
「辰巳から話は聞いています。怪我はありませんか? 追っ手はどうしたのです?」
ちょっと女装しているというだけでドン引きしてくれた薄情な兄弟達とは違い、沙織は心配そうに尋ねてくれた。これが女神の慈愛と言うやつか。少しばかり感動しながら、氷河はなかなか取れないポニーテール状になっている付け毛を引っ張る。いつまでもこんな姿を晒していたくない。早く取ってしまいたかった。
「とりあえず撒くことには成功したと思います。本当は死んだように思わせたかったのですが、死体が上がることがない以上、それは無理でしょう」
「死んだと……思わせたかった?」
沙織の秀麗な貌が悲しげに歪む。もしかしたら母親に似せた姿をしている氷河本人の口から、そんな言葉が出たことに驚いているのかもしれなかった。次の言葉で氷河はそう察した。
「あなたは、それでもいいのですか?」
「勿論です。実際、スミルノワ・ナターリア・イワーノヴナという人間はもう9年も前に死んでいるのですから」
交わされるやり取りの意味がまったくわからない青銅聖闘士達が互いに顔を見合わせる。
「なあ、あの二人、なにを言ってるんだ?」
「追っ手だとかなんとか、穏やかじゃないざんすね」
那智と市がひそひそとやり始めた隣で邪武がわなわなと肩を震わせた。
「お嬢様と……二人だけしかわからん会話だと……!?」
「いや、お嬢様は辰巳から聞いたと言っていたじゃないか」
蛮がとりあえずとりなしているが、どうやら邪武の耳には入っていないようである。
「マザコン野郎め、許せん!」
「おい、邪武!」
蛮だけの手には負えなくなったのを見て取った激が加勢するが、宥めるのは難しいようだった。――神話においても一角獣とは、意外と獰猛なのである。
「ちょっと邪武、やめなよ!」
「おい邪武、なに一人で盛り上がろうとしてるんだよ!」
異変に気づいた瞬と星矢が慌てて拳を振りかざしかけた邪武を止めに入る。
「ナターリアというと、確かロシア人の名だったな。確か氷河の母親はナターシャというのではなかったか?」
そんな騒ぎを少し後ろから眺めていた紫龍がふとつぶやいた。反応したのは、やはり兄弟達からは一歩引いていた一輝だけだった。
「氷河の母の名などよく知っているな。だが違う。関係ないのではないか?」
「いや。ナターリアの愛称がナターシャと言うらしい。ロシア人の名前には、元の名からは想像もつかないような愛称が多数存在するのだと老師にお聞きしたことがある。ナターリアとナターシャなら、まだ納得のいく範囲だろう?」
「確かにな。それに9年前に死んでいるとなれば、奴の母親が死んだ時期と一致する」
一輝と紫龍は顔を見合わせた。揃って声を潜める。
「9年も経ったというのに追っ手がかかるなど尋常じゃない。奴の母親はもしかしたらロシアン・マフィアとか、そういう類の人間だったのか?」
「マフィアなどといくらなんでもそこまでは。――いずれにせよ、氷河の話から俺が抱いていたイメージとは随分かけ離れているらしいことは確かだな」
イメージとやらの再構築でもしているのか考え深げに腕を組んだ紫龍は、そういえば、と首を傾げた。
「氷河だけは集められた大半の兄弟の仲でも珍しく、初めから孤児だったわけではなかったな。日本に来る際に事故で母親が死んだと聞いたような気がするが」
その言葉に、一輝が苦虫を噛み潰したような顔をする。
「俺達だって最初から孤児だったわけではない。孤児院に預けられたのも、城戸光政が俺達を集める際に、それぞれの愛人の元から子供を引き取って回っているなどという醜聞を晒さなくて済むよう手を回した結果に過ぎない。親のいない哀れな孤児を引き取りましたという美談に仕立て上げるためにな」
兄弟達の中でも、なぜか一輝はそういった事情に詳しい。遥か僻地の修行地に飛ばされた一輝がそれをどうやって知ったのか。疑問に思うことはあっても、その情報が眉唾などでないことを紫龍は知っている。それなのに氷河の母親のことは知らなかったというのも不思議な話だ。
「事実、中には今でも親が健在な奴だっている。大金と引き換えに、一切の関わりを絶ったんだ。奴らは国内にいたから城戸光政はそういうこともできた。だが氷河の母親はロシア人だ。その手が使えず、城戸光政は――氷河の母親を、もしかしたら……」
情報を掴むのは上手くとも、詮索するのは得意でないようだ。さすがに全ての言葉を出さなかった一輝を、紫龍はいっそう声を低くして強く諌める。
「城戸光政は確かにひどい男だが、そこまでの悪人ではなかったはずだ。そんな悪人だったら、どうしてアテナをあんなふうに育てた? 沙織お嬢さんは確かに少しばかり傲慢ではあるが、正義と愛をなにより大切にし、自己犠牲をも厭わない誠実さを持っている。そんな人間を育てることができた男を、俺はそこまで貶めて考えようとは思わん。憶測は不用意に口にするものではないぞ、一輝」
「………………」
きつい反論を、一輝は無言を以って受け入れた。それでもやめようとしない仏頂面は、城戸光政という人間に対して一輝が抱き続ける怒りそのものだ。それほど鬱屈した感情を自分の子に植えつけてしまう程度には、城戸光政は確かに悪人だった。それは紫龍も認める。だからと言って事実無根かもしれない邪推を声高に唱えて良いものではない。
「沙織お嬢さん。ひとつだけ、どうしても教えて欲しいことがあるのです」
結局つけ毛を取ることを諦めた氷河は手を下ろしかけたついでなのか、胸元のロザリオにふと触れた。軽くつまんで持ち上げられたそれは、ホールのシャンデリアの灯りを受けて硬質な光を弾く。
その冷たい輝きに一瞬目を奪われた沙織は突然の氷河の問いに眉を顰めることとなった。
「9年前、城戸光政は、なにをしたのです?」
「……はい?」
脈絡が全く無い。意味がわからず、沙織は間の抜けた返事しか返せなかった。それを受けた氷河の瞳に冷たい炎が宿る。しらばっくれていると取られたのかもしれない。
「彼はナターリアを使って、何かをしようとしていました。彼女はその途中で息絶えた。だが、俺は遺された。生き残ったんじゃない。『残された』のです。彼女の身になにが起こっても城戸光政にこのロザリオが確実に届けられるよう、母は――ナターリアは俺を使った。俺は、俺には、それが何だったのかを知る権利があるはずです。違いますか?」
抑えた声からでも激情が感じられた。意味がわからなかったのも道理だ。沙織はやるせなく瞳を伏せる。
切々と語られた言葉は沙織を通り抜けて城戸光政に向けられている。沙織ではなく、今は亡き彼の父親へと。
それがわかるからこそ、沙織は自分に失望するしかない。
「違いません。確かにあなたには、その権利があるのでしょう」
「では」
わずかに期待の色を帯びた氷河の眼差しが痛かった。
「しかし、私は知らないのです」
「え……」
また凍りついたかのように表情をこわばらせる氷河へ、そう告げるのは心苦しい。だが真実だ。沙織は伏せていた目を上げ、毅然と氷河を見返した。逃げてはならない。
氷河は城戸光政の息子で、沙織は城戸光政の後継者だ。氷河に知る権利があると言うなら、沙織には伝える義務がある。逃げるわけには行かない。
「財団の事業以外のことは、私にはほとんど知らされていないのです。……彼の死は急なものでした。当時の私はあまりに幼かった。身体も――精神(こころ)も。だからでしょう。私の身上に関すること以外で、おじい様が私に語ったことなど、実はほとんどないに等しいのです」
「………………」
目に見えて落胆している氷河に、もしかしたら言葉は届かないかもしれない。しかし沙織は言い募るほかに、氷河を慰める術を思いつかなかった。
「私自身のこと以外の重荷を、負わせないようにとの気遣いだったのかもしれません。私はそれを甘受してしまいました。ですが私は……聞くべきでした。あなた達のことをもっと。庇護してくれたこの家について、おじい様について、もっと。おじい様がなさったこと、なさろうとしたこと、全てのことをもっともっと、私は聞いておくべきだったのです……」
幼かったからだと、先程自分でそう自分を擁護した。だが沙織の内実は神なのだ。幼かったからなどと、言い訳になるわけもないとすぐに気付いた。言うべき言葉も、ここでようやく思いついた。
「ごめんなさい」
そう口にした途端、周囲の喧騒がぴたりと止んだ。注がれる視線が痛い。それでもくじけず、沙織はもう一度繰り返す。
「ごめんなさい――辰巳から話を聞いたのもついさっきなのです。氷河、あなたが健在かもしれないご親族にお母様の訃報を伝えるべく、探偵に弟子入りしてまで調べようとしていたことも」
あまりにも真摯で、そして打ちひしがれたその様子に、氷河はほだされる。まさかここまで率直に謝罪されるとは思っていなかった。
「いや……弟子入りと言うわけでは」
どちらかといえば生真面目な性質である氷河は、事実誤認も気になった。弟子ではなく、あくまでも労働と言う形で調査の対価を支払っていただけである。ついでに探偵業のイロハも学びはしたが、それとこれとは話が別だ。
だが沙織の耳には控えめな氷河の否定など入らなかったようだ。
「もう一年近くそんなことをしていたそうですね。ごめんなさい。全然、そういったことに気付かず、気も回らなかった。本来なら、なにも言われなくともあなたがたの身元調査を率先して行うべきだったのです。そもそも私は、聖闘士となって戻ってきた星矢に約束どおりお姉さんに会わせろと言われて、姑息な条件を出してまで銀河戦争を強いました。ところがその後、あなたがたは銀河戦争などと言う茶番ではない、筆舌に尽くしがたいほどの厳しい戦いを私と共に生き延びてくれました。それなのに私は、自分で出した条件すら蔑ろにしてしまった……」
「沙織さん、その話はもういいよ。結局、姉さんとも会えたんだし。あんときは確かにすげームカついてたけど、別に今はなんとも思っちゃいねーし」
いきなり引き合いに出された星矢が決まり悪げに場をとりなそうとした。だが沙織は首を振る。
「いいえ。私の為に、おじい様――城戸光政はあなたがたを孤児という境遇に落としいれ、利用するような真似をしました。それなのにあなたがたはそんな私の為に、命がけで戦ってくれました。私はあなたがたに償わなければなりません」
「俺達の苦労に報酬を、というわけか? 今更だ」
シニカルな笑みを口元に刻みながら、一輝が鋭い言葉を投げかけた。それを沙織は怯まない。粛々と受け止めた。
「報いる、なんて偉そうなことを言うつもりはありません。ただ償いたいのです。許してもらえるとは思っていないけれど、それでも」
「今更だと言った」
言い募る沙織の抗弁を短く封じて、一輝は腕を組み直す。沙織を睨みつけるようにして、ゆっくりと口を開いた。
「確かに城戸光政は俺達を、俺達の命をただの手駒のように扱った。そしてあんたも初めは奴と同じとしか思えなかった。しかし――結果はどうだ?」
言い難そうに口を噤んだ一輝の後を、苦笑しながら紫龍が繋ぐ。
「結果として、この世界は神による災厄から救われたな。そして俺達もまた、その救われた世界でこうしてのうのうとしていられる。つまりお嬢さん、あなたのお陰だ。結果として、悪くはなかったということだ。城戸光政の行いも、あなたの奮闘も」
「今更沙織お嬢さんに償ってもらうようなことなんてひとつだってありはしないってことです。僕達は――少なくともここにいる皆は、今の状態も過去の出来事も全部、納得した上でここにいると思いますよ。そうじゃないの、氷河?」
思いもかけない方向へ飛躍していってしまった話を上手くまとめて、氷河に話題を返してくれたのは瞬だった。氷河に向けられた笑みから、はっきりとその意図が感じ取れる。話が逸れて密かに困っていた氷河に、その気遣いはありがたい。
さらに瞬の問いかけは、氷河に初心を思い出させてくれた。グラード財団の力に頼ることなく、自力でどうにかしようと始めたことだったはずだ。訓練されたロシア人達の唐突な出現により、予想だにしなかったきな臭い母の出自に思いが及んですっかり動揺してしまっていた。
「勿論だ。そんなことにはとっくに納得している。俺が知りたいのは全然別のことだ。マーマがなぜ、あいつらから裏切り者呼ばわりされなければならなかったのか。なぜ、彼女は一人で死んだのか――どうしてもわからない。俺は、それを知りたかっただけなんだ……」
「城戸光政は、それを知っていたと?」
確認するかのように、沙織が尋ね返した時だった。
「おお氷河! 当たり前だが無事で戻ってきたんだな!」
辰巳の大声が上から降ってきた。先程沙織が降りてきた階段をどかどかと駆け下りながらも慌てた様子で喋るのをやめない。
「あっちも無事だそうだ。良かったな! 警察の特殊部隊も来て、お前が昏倒させていった奴らの身柄は確保したそうだ。松吉からたった今、そう連絡があった」
「……松吉?」
誰のことだろう。首を傾げた氷河の肩を、辰巳はばんばんと力一杯叩いた。
「なに言ってんだ。あいつらを逃がすために、お前が囮になってくれたって松が言ってたぞ」
「まさか久良沢さんのことですか? だってあの人、久良沢 凱って言う名前でしょう?」
「ああん? なにバカ言ってんだ。あの野郎がそんな気取った名前のわけないだろ。あいつの名前は松吉だ」
「……偽名だったのか……」
まさかの事実を辰巳の口から聞かされ呆然としながら、そういえばと氷河は大事なことを思い出す。礼を言わなければならないのだった。
「辰巳さん。どうもありがとうございました」
「なんだ、急に? 別に俺が警察に通報したわけじゃないぞ」
「知ってます。ちなみに事前に警視庁までパシリに行かされたのは俺です――って、そうではなくて」
氷河は姿勢を正す。頭を下げた。
「久良沢さんに、俺の依頼を受けるように頼んでくれたのは辰巳さんだったって聞きました。そのことについてのお礼です」
「……結果的には、あまり手助けにはならなかったらしいじゃないか。しかもなんだか大事になっちまって」
鼻の横をかきながら、辰巳は氷河から目をそらす。なぜだか照れくさそうなその様子に、氷河は微笑を浮かべてしまっていた。
「いえ。お陰様で結構、いろんなことがわかりました。わからないことも沢山出て来てしまいましたが」
辰巳が意外と面倒見が良いことも、わかったことの一つではある。
「まあ、とにかくだ」
くるりと氷河に背を向け、辰巳は野次馬と化している少年達にずんずんと歩み寄っていった。
「お前達、もう何時だと思っている? 用もない子供が起きていて良い時間じゃない。さっさと自分の部屋に帰った帰った!」
口やかましく追い立てれば、当然のようにブーイングが飛ぶ。
「えー俺達そんなに子供じゃないぜ」
「子供は必ずそう言うんだ」
「用がないなんて、そんなことはないざんす」
「お前達には関係のないことだろう」
「大事な兄弟がなにやら事件に巻き込まれているようなのに関係ないことはないだろう」
「こういうときだけ『大事な兄弟』ヅラするんじゃない! 飯も残しておいてやらなかったのは誰だ」
騒々しい一団は確実にホールから駆逐されていった。残された氷河と沙織は顔を見合わせる。
「あの……お嬢さん。それで」
言い差した氷河を、沙織は穏やかな笑みで封じた。
「明日にしませんか、氷河。今日はもう遅いですし」
わずかに顔を歪め、それでもおとなしく頷いた氷河の手を取り、沙織は言葉を重ねる。
「少し時間をいただけないかしら。知らないのは本当なの。ですから、今夜中にでも真相を調べられるよう、手配します。どうか」
真摯な申し出だった。氷河は面食らう。
別に沙織に無理を言おうとしたわけではなかった。たった今、初心を思い出したのだ。だから先程の言葉を取り消そうとしたのに、沙織は氷河の要求を呑むつもりらしい。慌てて辞退を申し出る。
「いえ……すみません。さっきは言い過ぎました。大体、グラード財団に調査を頼んではどうかと辰巳さんに言われたのに、それをしなかったのは俺です。やっぱり自分で」
「言ったでしょう? 私も、知らなければならなかったのだと」
穏やかに、だが強い調子で沙織は氷河の言葉を遮った。
「沙織さん……」
呼びかければ見上げてくる瞳には強い意志が感じられる。こんな瞳を、氷河は一体何度見ただろう。こういうときの彼女は引くということを知らないと、だから氷河は知っている。
「一人で背負い込まないで、氷河。私とあなたは、血が繋がっていなくても、城戸光政という縁で結ばれた家族なのですよ。――少なくとも私は、そう思っているのですが」
家族。
それは氷河にとって――恐らくはこの家に集う兄弟達全てにとって――抗うことのできない最強の単語。焦がれ、妬み、憎み、そしてやはり求めてきた。
氷河は思わず込み上げてきたものをこらえる。それをよりにもよって彼女の方から持ち出されてしまっては、おとなしく頷くしかないではないか。父が、己の子供達を差し出してまで守ろうとした至高の女神から、そう言われてしまっては。
「……ありがとうございます」
なんとかそれだけを返せた氷河の胸に渦巻く感情は、憤りでもやるせなさでもない。じわりと暖かい、不思議な気持ちだ。重いくせに、嫌ではない。もしも心というものに形があるとするならば、随分昔に欠けてしまってすっかりそのいびつさに慣れてしまっていたはずのそれが、久方ぶりに元に戻ったかのようだ。慣れない安心感が氷河を苛む。
おかしなものだ。氷河は苦笑ををこらえることができなかった。満ち足りて完全になったはずのものに戸惑うなど。それほど失った状態に慣れきってしまっていたのだと思い知らされて愕然とした。
『兄弟』ではなく『家族』という言葉には、それほどの威力がある。
きっと氷河はそれを知っていた。だから9年前に唯一の存在だと思っていた家族を失った氷河は、求めてやまなかったのだ。そして今もそれを求めようと足掻き続けている。
自分の家族のことだ。一人でやらなければならないと思っていた。だが。
氷河は目の前の沙織を改めて見つめる。彼女もまた、自分の家族だと言うのなら。
そう言ってくれるのなら。
「では……お願いします。俺の力だけでは、もう調べられないみたいです。今日みたいなことが起こってしまっては、これ以上、辰巳さんの知り合いの探偵さんに迷惑をかけるわけにも行かないし……お嬢さんの力で調べてもらえるというのなら、是非」
「勿論です、氷河」
にこりと笑んで、沙織は力強く請け負った。
「おじい様がなさったことで、さらにその痕跡を自ら消してしまったような案件ならば、その跡を追うのは大変に難しかったはずです。それでも、あなたやその探偵さんはその核心にかなり迫ったようですね。ならば私も、負けるわけにはいきません」
「お嬢さん、勝ち負けの話ではないですよ?」
なにやら力むべき場所が違うような気がする。本当に大丈夫だろうかと危ぶんだ氷河に、沙織はもう一度強気な笑みを浮かべて見せた。
「わかっています。まずは翌朝です。楽しみにしていて」
「翌朝?」
「後処理は引き受けますという話ですよ。とりあえず、今日はもうお休みなさい」
含みを持たせて言い放ち、沙織はくるりと踵を返す。だが向かったのは来たのと違う方向だった。深夜だというのに、本当に早速動いてくれるつもりらしい。
小さいのに頼もしく見える後姿に、氷河は頭を下げた。
「おやすみなさい――よろしく、お願いします」
と、歩調に合わせて揺れていた艶やかな亜麻色の髪の動きががぴたりと止まった。そういえば、と控えめな声が背中越しに掛けられる。
「ついさっきスミルノワ・ナターリア・イワーノヴナと署名された履歴書を見つけました。彼女はおじい様の通訳として働いていたので、残っていたのです」
「そうですか」
どうせ偽名の偽造書類だ。そういうものはあるだろうとは思っていた。これといった感傷を感じずに、氷河はその言葉を受け止める。
「……あなたのお母様のお写真も、拝見しました。綺麗な方ですね」
沙織は少しだけ振り返る。氷河を見てくすりと笑う。
「今のあなた、そっくりですよ。驚きました」
「………………」
否定するのもおかしいし、礼を言うのもこの流れではおかしいだろう。反応に困って氷河は黙り込む。沙織からはさぞや憮然とした面持ちに見えていることだろう。
だが沙織は気にする様子もない。
「メイクはしっかりと落としてから寝ないとダメですよ? いいですね? 石鹸だけでは落ちませんよ?」
朗らかにそんなことを言いながら、長い廊下の先へと消えて行ってしまった。
さらに困って氷河は一人残されたホールでたたずむ。今夜最後の難題を抱え、呆然とつぶやいた。
「石鹸でダメなら、一体どうすれば……」
Northern Cross 07 / To Be Continued
松吉の名前が出たところで01話の伏線回収完了。
というわけでDTBネタはこれにて終了です。
ご存じない方には長らくお付き合いいただきましてありがとうございました。
中編と言いつつ、随分長丁場になっていますが残りもあと3話+エピローグ1話となりました。
……まだ長いですねw
もうしばらくお付き合い下されば幸いです。