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☆名前変換小説ではありません。
長い夜が明けた。
暗闇が端から徐々に色づいてゆく様を、結局一睡もすることができなかった氷河は久しぶりに見た。その主原因が、予想以上に長くなってしまった入浴時間によるものであることを知る者は幸いにもいない。
だが意外にも眠気はほとんど感じなかった。空が明るくなっていくにつれ、夜の間に鬱屈していた気分が解けて行くような気がする。
光が差して、また一日が始まる。
昨日とは違う今日。積み重ねていけば、今のこのときもまたいずれは過去になる。そんな風にして、時は遠ざかっていかなければならない。
遥か遠くの、確かにあったはずの懐かしいあの日々もまた、光に満ち溢れていたのかもしれない。あるいは暗く重い雲が垂れ込めていたかもしれない。だがいずれも過去の話だ。いつまでもしがみつき拘り続けてはいけないと、今朝の朝日は氷河にそう教えていた。
氷河が今浴びているのは、新しくやってきた今日という日の光だ。過去の陽射しの暖かさなど、思い出の中に埋めてしまえ。今感じるべきは、今朝の陽光の力強さだけでいいのだから。
しっかり眠ったかのような実にすっきりとした顔で、氷河は食堂にもなっている大きな居間へ足を踏み入れた。
普段ならばありえないくらい早い時間だ。一番乗りかと思っていたのだが、甘かった。入った瞬間、先客に頭の先からつま先までじっくりと観察され、随分不快な気分だけはこの朝で一番だった。
「……元に戻ったのだな……良かった」
常日頃から鍛錬に余念のない紫龍は早朝の太極拳で一汗かいて来たのだろう。首からタオルをぶら下げ、タンクトップ一枚というラフな格好だ。最初の探るような目つきを改めて、心から安堵しているように見える。
「事情があってあんな格好をしていただけだ。誰が好き好んで女装など」
憤然と反論すれば、目に見えて紫龍は相好を崩した。
「すまんな。あまりに違和感がなかったものだから、すっかり誤解してしまっていた」
「なにをどう誤解したのか、是非聞かせてもらいたいところだな」
それこそ絶対零度の冷たさを孕んだ氷河の言葉に、うっかり笑顔を凍りつかせてしまった紫龍は慌てて話題を変えようと試みたようだ。
「いや……そうそう。ニュースは見たか?」
いつまでもあんなネタを引きずる気はない。これ幸いと紫龍の思惑に乗ることにした。
「ニュース? いや、まだだが。新聞か?」
毎朝この部屋へは朝刊が届けられている。素早く氷河は新聞ラックへ向かった。
「違う。テレビだ。大騒ぎだぞ」
リモコンを手にして、紫龍は少しばかり表情を引き締めた。
「お前、昨夜一体なにをしたのだ?」
紫龍の声に朝の報道番組の音声が重なる。
『本日未明、東京都江東区青海の岸壁に外国人と見られる女性の遺体が、夜釣りに来ていた釣り人に発見されました。警察が遺体を引き上げて調べたところ、遺体には拳銃のようなもので撃たれたと思われる傷が数箇所あり、警察では殺人事件と見て女性の身元を――』
朝は各局でこの手の番組を放送している。ある程度まで聞いたところでチャンネルが変わった。
『引き上げられた遺体は金髪の白人女性で、目撃者の話によるとうつぶせで海面に浮かんでいたとのことです。警察では女性が事件に巻き込まれたものと見て調査を行っています』
『一部の報道では、女性もまた凶器を所持していたという情報も』
『前日夜に青海方面へ猛スピードで走っていくワゴン車を目撃したと言う証言もいくつか寄せられています』
氷河は思わず唸る。翌朝を楽しみにしているようにと、沙織に言われたのだった。あれはどうやらこのことらしい。
「よくも数時間でここまでマスコミを丸め込めたものだ。さすがは天下のグラード財団といったところか……」
感嘆の声を漏らした氷河へ、紫龍は怪訝に問いかける。
「どういうことだ? お前がその女を殺したわけではないのか?」
「女の特徴をよく聞いてみろ。それこそ昨夜の俺と同じだろう」
「金髪の白人女性――? ああ、確かに。だがお前は生きて戻ってきた。あの報道がお前のことを言っているのなら、今ここにいるお前はなんなのだ?」
「死んだように見せかけたかったといった俺の言葉を、沙織お嬢さんが覚えていたんだ。その通りに捏造された情報を流すよう、夜のうちに手配してくれたようだ」
感慨深げにテレビを眺める氷河の横顔を、眉を顰めて紫龍は見遣る。
「まるで意味がわからん。お前は一体、なにをしたんだ?」
もう一度同じ質問を繰り返してきた紫龍に、氷河は一言で答えた。
「マーマを『殺した』のさ」
「どういう……意味だ?」
聞き返してくる声が掠れている。愕然とした表情を張り付かせながら、紫龍は近くにおいてあったパーカーを手繰り寄せた。冷えたのは汗ばんでいた身体か、それとも。
「お前の母親は、もうとっくの昔に……」
どうやら朝から気味の悪い思いをさせてしまったらしいことに氷河は気付いた。
「ああ。死んでいる。だが俺以外に彼女の遺骸を目にした者はいない。しかももう俺ですら、それを見ることは叶わない。彼女が本当に死んでいると、知っているのは俺しかいない。死んでいると証明する方法も、今となってはない。だから改めて、殺さなければならなかったんだ」
弁解しているつもりなのだが、果たして紫龍に真意が伝わっているのかどうか。
眉を顰めたままの紫龍の表情からどうやらあまり通じていないことはわかったが、氷河にはこれ以上うまく説明することができない。
「そうすることが、彼女の眠りを安らかなものにできる恐らく唯一の方法だ。他人に墓を暴かれるような真似をされないための。――もっとも、シベリアの深海の底に暴かれるような墓などないがな」
「そうか……まあ、なんとなくわかった」
どこか申し訳なさそうに、だが精一杯言葉を紡いでいる氷河の様子に、よくわからないながらも紫龍はひとつだけ悟った。
――長きに渡って氷河の中でわだかまり続けていた母への思いが、何らかの形で昇華したようだと。
かつて戦いの最中、彼の師であるカミュはその思慕の念をマイナスの要素にしかならないと判じたという。だが最愛の母が眠る船を二度とまみえることの叶わない深海へと突き落とされて尚、氷河は妄執じみた母への思いを捨て去ることはできなかった。
しかし今、氷河はそのしがらみから自らを解き放つことができたのだ。
恐らくそういうことなのだろう。紫龍は思う。だからもう、なにも言わなかった。
***
この屋敷の使用人を除く住人は全員、この居間で食事を取ることになっている。
住人とはすなわち、城戸光政の実子である青銅聖闘士達のことであり、また城戸家当主である沙織のことでもある。
紫龍、氷河に続いてこの部屋へ三番目にやってきたのは彼女だった。身なりもほとんど完璧に整えられている。今すぐにでも出かけられそうだが、いつも彼女はそんな風だ。もしかしたら朝早くから予定が入っているのかもしれないし、そういうわけではないのかもしれない。
その麗しい姿を目にするやいなや、ソファに座り込んでいた氷河はすっと立ち上がる。頭を下げた。
「沙織お嬢さん、早速のご尽力、どうもありがとうございました」
何を、とも言わなかったのだが、沙織はすぐに察したようだ。つけっぱなしになっていたテレビへと目を向ける。
「ああ、もうニュースになっていたのですか? 思っていたよりも早かったですね」
驚いたような声音を怪訝に思いながらも、氷河はもう一度繰り返す。
「本当に、ありがとうございました」
沙織はわずかに曇った眼差しを向けてきた。
「良かったのですか? ……本当に?」
わずかに陰りを帯びた面持ちで、沙織は質す。その探る眼差しを、氷河は悪びれもせずに受け止めた。
「勿論です。少なくともこれで、昨日のようなことは起こらなくなるのではないかと思います。――彼らの目標は、死んだのですから」
沙織は腑に落ちない表情をしていたが、本当にこれでいい。氷河は心の底からそう思っている。
清々した気分が伝わったのだろう。沙織はそれ以上追求してこようとはしなかった。話題を変える。
「ところで氷河。『ノーザンクロス』って、ご存知?」
唐突に聞かれて、氷河は面食らう。当然、知らないからではない。だからこそ咄嗟には答えあぐねた。
その間と表情を、沙織は誤解したらしい。ああ、と苦笑しつつ言いなおした。
「あなたの守護星座のシンボルですから、知らないわけはありませんね。私が言いたいのはそのことではなく、別の『ノーザンクロス』のことです。と言っても私には、それがどういうものであるのかもわからないのですが」
間違いない。氷河は服の下のロザリオに上からそっと触れる。沙織が言っているのはこれのことだ。そう氷河が言い出す前に、沙織は困ったように首をかしげて言い重ねた。
「昨夜、あの後なんですけれど、突然おじい様の昔のお知り合いの方から連絡をいただきましたの。伝言を頼まれてくれないか、と。……きっとあなたのことだと思うのです」
「……?」
全く話が見えない。氷河は黙って続きを聞くことにする。戸惑ったような沙織の表情は、恐らく氷河のそれと同じだ。
「『――お宅の金髪美人さんに伝えていただきたい。ことの真相を知りたいのなら、ノーザンクロスの導きに従うと良い、と』」
声音を真似したつもりなのだろう。幾分低く、ゆったりとした口調で沙織は氷河にそう告げた。いつもの彼女とは違うその抑揚。確かに聞き覚えがあった。
「まさか、昨日のタクシー……!?」
そういえば、降り際にそんな会話をした。その後、氷河は何かを思い出しはしなかったか?
「氷河、なにか心当たりがあるのですか?」
目を見開いたまま固まってしまった氷河を、沙織は下から覗き込む。わけのわからないその言葉に、彼女も回答が欲しいのだ。
「あ、はい」
慌てて氷河は問題の『ノーザンクロス』を取り出した。朝の光をまぶしく跳ね返す、所々にに輝石の施されたそれを沙織の目の前にぶら下げる。
「多分、これのことかと」
「……ロザリオ?」
差し出されたロザリオを反射的に受け取ろうとして、沙織はすんでのところでそれを憚る。服の下から引っ張り出したところを見れば、ずっと身につけ続けている大切なものなのだろう。
だが氷河は頓着することなく、沙織の指先にその輝く先端を触れさせた。
「ああ、そういえばノーザンクロスのロザリオ、と言っていたな。かつて一輝の狂拳から、お前の命を救ったあれだろう?」
ずっと話を聞いているだけだった紫龍が口を挟む。感慨深げに沙織の掌に載せられた十字架を眺めた。初めて彼らが力を合わせて戦った時のことだ。紫龍にとっては他人事のはずなのに覚えていたのはそのせいだろう。その後重ねられた戦闘の数々を思えば些細なことだが、それならば忘れられないのも道理だ。
「ああ。あの時は助けられた。だがそれだけではなかったようだ。随分昔に、俺はこれに助けられていたらしい。――思い出したんだ、やっと」
氷河は改めて沙織に向き直る。
「お嬢さん、お願いがあります。このロザリオを、調べてはもらえませんか?」
「これを?」
「思い出したんです。母を亡くした俺が無事にこの国の土を踏み『父親』に会うことができたのは、これを彼に渡す役目があったからなのだと。これを持っていなかったら、もしかしたら城戸光政は俺のことをナターリアの息子であると信じなかったかもしれないのです」
「どういうことです?」
「それは――」
昨夜、あの無人のコンテナヤードに降り立った時に氷河を襲った既視感。帰ってきてからそれはだんだんと鮮明さを増し、今では確かな記憶として氷河の中にある。
――真夏の夜だった。
信じられないほどの湿気と暑気は、母を亡くして茫然自失の氷河にさらに追い打ちをかけていた。疲れから来る眠気、そしてこの暑さと戦う氷河の頭は朦朧として、その歩みすら不確かなものにさせる。
「おい坊主、大丈夫か? もう夜だし、ここは海風も吹いているし、そんなにふらふらになるほど暑くないだろう?」
ロシアから氷河をここまで連れて着てくれたタツミという男に引っ立てられるようにして、なんとか船から降りた。答える元気はもう一欠片だって残っていない。大体、男の言葉は氷河の母国語ではないのだ。母からある程度教えられてはいたものの、全部を理解できたわけでもない。
降り立ったのは巨大なクレーンの並ぶ岸壁だった。氷河たちの乗ってきた船はクレーンの巨大さと比べれば不釣合いなほど小さい。もっと奥に並んで積み重ねられている金属の箱も随分と大きくて、氷河に自身の小ささを思い知らせる。
不安だった。
知らない場所。知らない男。何もかもが氷河よりも大きくて、それなのに氷河を守ってくれる母はもういないのだ。
だが氷河は泣いてなどいなかった。母があの冷たい海へ、古びた船と共に沈んで行ってしまう様を見てから、氷河の涙はまるで凍り付いてしまったかのように一滴だって出てこない。心のどこか一箇所が、ぽっかりと抜け落ちて穴が開いてしまった。その空虚は辛く、穿たれた場所は痛いのに、そこからは何も出てくることはない。
だからあれから二日ばかり経っているはずだが、氷河は一度も泣いていない。初めのうちは強がりも言えたのに、時間が経つほどにその意気は消え、ついには言葉さえもが出てこなくなった。
「旦那様」
不意に氷河の腕を引いていたタツミが叫んだ。引かれる力が強くなる。
「こら坊主! ボーっとしてないで歩け! 旦那様が自らお前のお迎えにいらっしゃったんだぞ」
だんなさま、という言葉の意味がわからない。氷河は虚ろに地面を眺めていた目を上げる。
――男がいた。
随分と怖い感じのする男だ。年齢はよくわからない。老人とは言わないまでも随分年を重ねているようにも見えたし、意外と若いのだろうかと思わせる部分もある。立派な黒塗りの車の外に立ち、じっと氷河を見つめていた。
あれが『だんなさま』という人なのだろうか?
男の目の前まで引っ張られ、ようやく手を離された。氷河は恐る恐る無言でその男の顔を伺い見る。『お迎えに来た』とタツミは言ったのに、歓迎している気配は全くない。ただただ鋭い視線を氷河に投げかけているだけだ。
誰だろう? 騙されたような気がして、氷河の疲労感はさらに増した。頭がくらくらする。
日本という国に行けば、お父さんに会えると聞いていたはずなのに。氷河を待っていたのは『だんなさま』とかいう怖い人だけだった。
結局なんのために自分はこんなところまで来たのだろう? なんのためにマーマはこんなところへ来ようとしていたんだろう?
――なんのために、マーマは死んでしまったのだろう?
ぐるぐると。いろんな疑問が頭の中で回って膨張して、今にも破裂してしまいそうだ。
男の視線に射すくめられて、どうにも動けない。緊張に目の前が暗くなる。怖かった。
倒れそうになった瞬間、男の腕が伸びてきた。氷河の両肩をはっしと掴んで支える。そのまましゃがみこみ、氷河と目線を合わせた。口ひげに覆われた口元がわずかに上向く。笑ったようにも見えたのだが、口を開く前触れだっただけかもしれない。太くて低い声はよく響き、氷河の腹の底を震撼させた。
「間違いない。写真で見たとおりだ。面影もある。――ナターシャの息子だな?」
はい、と。答えようとしたのだが、出たのは変な吐息だけだった。もしかしたら安堵の溜息だったのかもしれない。ナターシャとはマーマの名前だ。それを知っているのならば、この男は確かに母の知り合いなのだ。
「こら坊主! 旦那様がお尋ねになっているんだぞ。返事くらいしたらどうだ? このくらいの言葉はわかるんだろう?」
怒声を上げたタツミを、男は一瞥しただけで黙らせた。男の視線は、こんなに簡単に誰でも震え上がらせる。やはり怖い人なのだ。氷河の男に対する印象が固まった。肩に乗せられた掌は、ひどく重くて冷たい。
男はそんな子供の心の内などまるで知る由も無く――そもそも気にかけることなどないのかもしれない――何事もなかったかのように続けて尋ねる。
「名前は?」
「名前……?」
鸚鵡返しに聞き返してしまい、氷河は首を傾げた。自分の名前を答えようとしたのだ。生まれてからずっと呼ばれていた、自分の名前を。だが、なぜだかそれが急に思い出せなくなった。
名前。――僕の名前? なんだったっけ?
黙ったままじっと注がれる男の視線が冷たくて痛い。早く答えなければと氷河は焦り、無理やり口をこじ開ける。
「ひょ……うが――氷河」
するりと口から飛び出た聞き慣れないその音は、そういえばついこの前、マーマからもらったものだ。
『今までの名前は捨てなさい、あなたは今日から《氷河》よ。いいわね? これがあなたの、新しい名前。新しい人生を始めるための、新しい名前よ』
そのときの声までが鮮明だ。まだ耳に記憶にこびりついて、残っている。――マーマはまだ、ここにいる。
そう思った瞬間、関を切ったように氷河の目から涙が溢れ出した。嗚咽すら上がらない。ただ涙だけがあふれて流れる。
男はそんな氷河の顔を無言で見つめていた。肩に置いた手はそのままに、突き放すことも引き寄せることもしなかった。ただじっと、向き合っていた。
どのくらいそうしていただろう。涙が少しばかり収まり、かわりに嗚咽がこみ上げてきたところで男はようやく身じろぎをした。懐に手を入れ、取り出したものを氷河に差し出す。
反射的に受け取ってみれば、それはハンカチだった。涙を拭けということだろうか。戸惑って男を見返せば、その視線から逃げるように男は立ち上がる。
「ナターシャのことは、残念だった。良い人間を失くした」
溜息と共に、そんなことを言った。言葉の意味はよくわからなかったが、悼んでいるらしいことだけは伝わった。――そんなに怖い人ではないのかもしれない。
立ち上がった男は夜空を見上げた。氷河もつられて真上を仰ぐ。
星の少ない空だった。氷河は驚く。だがその分、マーマに教えてもらった星は他の星に埋もれることなくよく見えた。空のてっぺんで動かずに輝き続ける北極星、大きな夏の三角形、心優しい少女の持つ柄杓から飛び出したという七つ星。見慣れた星を見つけると、それだけで少し心が落ち着くような気がする。
「氷河。ナターシャから『ノーザンクロス』を預かってきただろう? それを渡して欲しい」
その言葉が氷河の心を、きらめく星空から地上に引き摺り下ろした。
ノーザンクロス。
それはマーマが新しい名前と一緒に渡してくれた、きれいな十字架のことだ。これを持っていれば、きっと神様があなたを守ってくれるわ。そう言われた。なのに、それを?
「持っているはずだ。渡しなさい」
思わず後ずさった氷河の腕を男が掴む。その力ときたら容赦がなかった。反射的に逃げようとした氷河を拘束したまま、男は言って聞かせる。
「私がお前をわざわざここまで来させたのはそのためだ。ナターシャは己を犠牲にしてまで『ノーザンクロスを持ったお前』を最後まで守った。そうすることでお前だけでも私に保護され、無事に逃げ切ることができると計算したからだろう」
全く意味がわからなかった。氷河は驚きのあまりに滲んだ涙を拭うこともせずに、首を振る。そんなことは聞いていない。全身を使って精一杯、知らないと主張する。だが男は氷河の抵抗を許さなかった。
「わからんか? お前はそれを持っていたから、ここまで辰巳に連れて来させたのだ。そうなることを見通した上で、ナターシャはお前にそれを預けた――まったく賢しい女だ。だから私はそんなお前の母親に敬意を表して、お前を引き取ることを決めたのだ」
それではまるで氷河は物のようではないか。目の前の男にとって氷河とは『ノーザンクロス』のおまけでしかないというのか。
氷河は愕然とする。そして傲然と言い放つ男に、どうしようもない怒りと嫌悪感を覚えた。
「……わからないよ……」
ぽっかりと開いたままだった心の穴から、ふつふつと湧き上がってくるものがある。穴が大きいぶん、それは大きくて強かった。現状への不安も目の前の男への恐怖も、何もかもを霞ませてそれは噴出する。
「俺はなんにも知らない! これはお守りだって、マーマはそう言ったんだ。これを持っていれば、お父さんに会えるからって。――ねえ、お父さんはどこ? お父さんに会わせてよ! これを渡せって言うなら、お父さんに会わせてよ! そうじゃなきゃ、絶対に渡すもんか……!」
「言いたいことはそれだけか」
氷河の全身全霊の反発を、男はその一言で片付けた。
「くだらんな。実にくだらん。ナターシャはできた女だったが、子育ての才能は無かったようだ」
「マーマをバカにするな!」
暴れる氷河を抑えたまま、男の口元だけが笑みの形に曲がる。
「だが、仕方がないことだ。子供に流れている血が悪かったのだろう。くだらん人間の血が流れているのだ。仕方がない」
「だ……旦那様?」
揉み合いの様相を呈するに至って、さすがに辰巳がおろおろともみ合う両者を見比べ始めた。
そんな辰巳の存在をようやく思い出したのか、男は辰巳に目配せを寄越す。意を汲んで近づいた辰巳に暴れる子供を押し付けた。
「離せ!」
氷河は力一杯抵抗する。さっきまでは悲しくて疲れ切っていて、こんなに力が出るなんて思ってもみなかった。でも今ならいくらだって抗えるような気がした。
「うるさいぞ坊主! 旦那様に向かってなんて失礼な口をきくんだ! お前はただ言われたとおりにしていればいいんだ!」
こんなふうにロクな理屈も無く、大人が子供を頭ごなしに押さえつけようとするのは大抵困った時だ。もっとごねてやろう。胸元の『ノーザンクロス』を握り締め、氷河は叫ぶ。
「誰が言うことなんてきくもんか! お父さんに合わせてもらえるまで、絶対に渡したりしないからな!」
「では、今すぐ渡してもらおう。おまえの希望は、もう叶っている」
氷河から手を離した男は、しかし冷たい視線だけは逸らさない。辰巳と違って困惑するでもない。少しも表情を変えることなく、言った。
「私がおまえの父だ。城戸光政と言う。名前くらい、ナターシャから聞いているだろう?」
聞きたくなかった。そう思ったのは、実はこの時ではない。もう少し後になってからのことだ。
だがこの時、氷河を取り巻いていた世界は間違いなくガラガラと音を立てて崩れ去った。――自分はもう一人なのだと。ひとりぼっちになってしまったのだと、そう思い知った瞬間だった。
思い出したことをかいつまんで話し終わった時には意外と時間が随分たっていたようだった。そのことに気付いたのは部屋の人口密度が上がっていたからだ。しかし誰もなにも喋らない。黙って突っ立っているだけだ。
それどころか初めから話を聞いていた沙織はもとより、紫龍まで黙り込んでしまっている。
「どうしたんだ、二人とも? それに皆も」
入り口近くで固まっていた集団は、氷河が声をかけてようやくわらわらと動き始めた。それでも皆一様にちらちらと氷河を伺い見るだけで、口を開こうとしない。
そんな中、つかつかと歩み寄ってきた一輝が氷河の肩を軽く叩いた。
「来てみればいきなりヘビーな話をしているのでな。邪魔をしては悪いと思ったのだろう」
「ヘビー? それほどでもないだろう? ここにいる皆はそれぞれに辛い過去を持っている。特に俺の話が重いとは思えんが」
「……強いな、お前。成る程、それではあの時に俺の幻魔拳を食らってなお、反撃してこれたのも道理」
一輝の言葉に氷河は眉を顰める。そんなことがあっただろうかと記憶を探り、随分昔のことを言うものだと少々呆れた。
だが自分が今話したことは、もっと昔のことなのだ。そう思うと少々可笑しくなる。
「どうした、氷河?」
笑顔を見咎めたのか、紫龍が尋ねた。氷河はさらに笑う。鬱屈していたものをすべて言葉にして吐き出して、ひどくすっきりとした気分だった。
「いや。子供の目で見る世界とは、広いようでいて随分と小さなものだったのだと思ってな。あの時まで見ていた俺の世界は、本当に狭いものでしかなかった。そして今見ているものもまた、そうなのかもしれん。そう気付いたからこそ、知りたくなる。本当の世界の姿というやつをな。――いや、俺の知りたいことなど、広大な世界の、そのまたほんの一部でしかないのだろうが」
「このロザリオについて調べれば、その、あなたの知りたいことが少しでもわかるかもしれないというわけですね」
先程渡されたままだったロザリオを大事そうに持ち直し、沙織は氷河を見上げた。
見つめられた氷河は頷く。沙織の手の上のロザリオに指先をそっと触れさせた。一度は城戸光政の手に渡ってしまったそれは、しばらく後に氷河の元に返されたのだ。それ以来、肌身離さず持ち続けていた。
触り慣れた冷たいはずの金属は今、沙織のてのひらで温められている。まるで自分のものではないみたいだ。だからだろうか、意外なほど名残惜しさを感じない。すぐに手を離すことができた。
ロザリオを握った沙織の手を押しやる。完全に預け、氷河は頭を下げた。
「よろしくお願いします」
表情を引き締め、沙織は力強く頷いた。
「わかりました。確かにお預かりします。――おじい様がこのロザリオでなにをしたのか。まずはそこから調べなければなりませんね。資料が他にも残っていれば良いのですが」
「それ自体が貴重な手がかりではないのか?」
ぼそりと一輝がつぶやいて、氷河たちの会話に無言で聞き耳を立てていた兄弟達の視線を集める。
「どういうことだ、一輝? まさかお前、なにか知っているのか?」
眉を顰めて問いただしたのは氷河ではなく紫龍だった。そんな紫龍を呆れたように見遣り、一輝は肩をすくめる。
「そんなわけはないだろう。ただ、随分と頑丈な金属だと思っただけだ」
「頑丈?」
怪訝に問い返した紫龍とは対照的に、氷河がああと声を上げた。
「あの時のことか!」
「思い出したか? そうだ」
一輝は沙織の手元に目を向ける。自嘲気味に鼻で笑った。
「間違いなく殺すつもりだった――お前の胸を、確かに貫いたはずだった。だがそのロザリオは俺の拳を止めていた。キグナスの聖衣をも貫いた、俺の拳をだ。そんなものがただの貴金属ではあるはずがない。まずは材質から調べてみるのだな」
意外な情報提供者が出現するものだ。氷河はまた笑みを浮かべてしまっているのを自覚する。過去に受けた痛みがこういう形で還元されるのは悪くない。物事にはきっと無意味なことなどひとつとしてない。そんな気がした。
これもまた、氷河のまだ知らない世界の真理というやつなのかもしれない。
Northern Cross 08 / To Be Continued
6話の時にもほぼ同じようなことを言いましたが、もう一度。
城戸光政について、まさかこれほど描写する日が来ようとは夢にも思っていませんでした(笑)
作中では既に故人とはいえ、成し遂げた『偉業』の数々は死後数年経ったこの時にも全く色褪せることなく、登場人物たちに影響を与え続けている、掛け値なしのまさに『偉人』です。
落しどころがありすぎて実に扱いにくい人物でしたが、考察していくうち、なかなか愛すべき好漢やも知れんとか思い始め……るわけもありませんw
でももっとつつけばネタがさらに出てきそうで、男としてはともかく、嫌いではないです。
実に味のある人物です。
お金だけであれほど沢山の女性を口説き落としていけたとは考えにくいですし、そういう強烈な個性というか持ち味があったからこそ子沢山になったのかなと思ってみたり。
いや、でもやっぱりお金の力って偉大だと思い……おや、誰か来たようです。
では。