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☆前半に少し名前変換(長編ヒロイン)が出てきます。
「"What a small world!"」
提出用に纏め上げている途中でプリントアウトされた書類に目を通し、開口一番にカノンが漏らしたのはそんな言葉だった。
はキーボードを叩く手を止める。首だけ回して背後に立つカノンを振り返った。いきなりなんだというのだろう。なにかおかしな記述でもあっただろうか?
「だって、そうは思わないか?」
見上げた眼差しから疑問を読み取ったのだろう。 の後ろで書類を手にしたまま、カノンは肩をすくめてみせた。
「最初はひとりのガキが母親の身元を調べていたというだけだったんだろう? それが蓋を開けてみれば、あのKGBの関係者だと? しかも旧ソ連の崩壊と何らかの関係があるのは、どうやら間違いない。それだけデカくて複雑な話だというのに、鍵を握っていたのはなんともご都合主義的なことに当のガキ――キグナスの父親ときた。そしてその父親というのは我らがアテナの養い親だという。そもそも話によるとこの城戸光政というのは、幼いアテナを抱えた瀕死のアイオロスが偶然出会っただけなのだと言うではないか。そんな人間がなんとも都合よく世界を股にかけていた大物だったというところまでもが、あまりにも出来すぎだ。どうにも胡散臭いと思っていたのだが、事実である以上どうしようもない。こうもトントン拍子に話がつながってしまうようでは、世の中というのは思っていた以上に狭いものだと悟らざるを得ない」
確かにその通りだ。 は頷く。ほとんどデタラメしにか聞こえない話だというのに実話だというのだから、世の中というのはわからないものである。
結局、当初 に衝撃を与えたロザリオの材質の件だけではなく、その前後情報として氷河の母・ナターシャや城戸光政についても調べは及んでいた。実はそれも一緒に調べるように依頼されたのだが、頼まれなくてもこの調査結果には行き着いていたことだろう。
その中でも城戸光政に関しての情報は、量も質もその全てが、彼が只者ではないことを示している。前に向き直った は入力途中の文書を一旦押しやり、代わりに城戸光政についての一連のデータを呼び出した。
「そうね。城戸光政氏という人物は、本当に大物だったのね。政治家でもないのに、他国の諜報員を送り込まれるなんて。現在と当時では随分と国際情勢が違うらしいとはいえ、普通じゃないわ」
「例の青銅のガキどもの話を聞いたときにもえらい大物だとは思ったが、ここまで本物の大物だったとはな……心底恐れ入る」
溜め息と共にカノンはしみじみとつぶやいた。カノンがなにをそんなに感心しているのか、 にはさっぱりわからない。問題は『例の青銅のガキども』から聞いた方の話にあるようだ。
「一体なにを聞いたというの?」
「知ってるだろう? あいつら全員、腹違いの兄弟なんだ」
それくらいのことならば も知っている。だがそのことと、城戸光政が大物という話がどこでリンクするというのか。
「でも星矢のお姉さんを入れても10人ちょっとしかいないじゃない。それなら私、30人姉弟を知っているわ。婚姻習慣的に特に問題がないのであれば、財力的にも政治的にも力のある人間だったらそのくらい……」
言いさした の言葉を、カノンはなぜか得意げに遮った。
「30人? 甘いな。――城戸光政にはなんと百人以上の子供がいたそうだ」
「ひゃく……!?」
カノンの思惑にうっかり乗ってしまった。 は絶句する。そんな にカノンは先ほどとは違う憂いのこもった溜め息をついて見せた。
「とにかくだ。噂によるとキグナスは母親をえらく慕っていたようだ。なのにその母親がKGBの諜報員で、城戸光政の女性関係という弱点に付け入るべく送り込まれたスパイで、そんな相手とどんな経緯があったにせよ、ガキまで作った上に自国を裏切って二重スパイをやってました――なんて、さすがにそれを報告するのは、いくら俺でも気が咎めるな」
もっともらしく締めくくってはいるが、ひどい揶揄である。 はカノンを半眼で見上げた。
「……気が咎めている割には随分な言い草のように聞こえるのだけれど?」
睨みつけるようにして言えば、さすがに思うところがあったらしい。だが片眉を上げただけだった。後は何食わぬ顔でしれっと続ける。
「そうか? ――とにかく、その辺りは調査不能だったってことでスルーしたほうがいいのではないかと言いたいだけだ。お前が知りたいこととは、直接関係がないのだからな」
「でもこの部分も出来れば調べて報告して欲しいと、そうおっしゃったのは女神様よ。出てきた情報をあえて隠匿することは、女神様に対する裏切りのようなものではないかしら。内容がどんなものであれ、私にはそんなことはできません」
ツンと突き放したようにそう言えば、さすがにカノンも押し黙る。言葉を選んだ甲斐があったというものだ。
「このロザリオの出所を調査したことで現状が有利になるような情報こそ出てこなかったけれど、少なくとも重点目標範囲は狭めることができたわ。これは大きなメリットでした。見返りに、女神様が欲している情報を提供する――これはフェアなトレードではないかしら? だから私はどんな内容であっても情報を隠すつもりはありません」
重ねて言えば、カノンはあからさまに顔をしかめた。
「お前は本当に、情というものに疎いな。ただ上辺だけ義理を通せばいいとでも思っているのか?」
さっきからカノンは溜め息ばかりついている。いったいなんだというのだろう。しかも今のは明らかに馬鹿にされている。気分が悪い。
「どういうこと? 私は、ちゃんと考えてものを言っています」
「アテナが情報を欲しがっているのは、キグナスに調査を頼まれたからだ。つまりお前がこの書類を提出すれば、これはそのままキグナスに渡される。――これを読んで、キグナスは一体どう思うのだろうな?」
「………………!?」
唖然とはこのような状態を言うのだろう。 はまじまじと目の前の男の端正な顔を眺めてしまった。
眉をしかめた小難しいその表情は、黙っていることも手伝って彼の兄のものと文字通り瓜二つだ。その兄の方ならばともかく、この男の口からそんな殊勝なセリフが出てくる確率は限りなく低いことを は経験的に学んでいる。
の視線に晒されて、生真面目そうな渋面に一層の険が混じった。
「なんだ? その文句ありますと言いたげな目は。言いたいことがあるのなら言ってみろ」
口を開けばやっぱりカノンだ。妙なところで感心してしまったせいだろうか、 はついぽろりと本音を漏らしてしまった。
「あなたの口からそんな思いやりに満ちた言葉が出てくるなんて、思ってもみなかったわ」
「………………」
失言もいいところだった。反撃が来るかと は咄嗟に身構えたのだが、予想に反してカノンは無言を貫いた。ただ額に浮いた青筋がカノンの心情を雄弁に物語っている。これ幸いと は慌ててフォローを試みることにした。別にカノンを怒らせたかったわけではない。
「でもね、カノン。これは彼――キグナスの氷河自身が、調べ始めたことなのでしょう? 自分の手には負えず、探偵さんを頼り、最後には女神様の力を借りる決断までしたということは、それほどまでに彼は知りたかった、いえ、知りたいということでしょう? それがどんな結果であろうとも。――この事実を知って彼がどんな思いをするのかは、結局本人にしかわからないことだわ。でも知りたいという彼の要求を退けることは、彼の思いそのものを無視することにはならないかしら」
「世の中には、知らない方が良いこともある」
即座にカノンは反論してきた。多分に憂いを込めて。
「それが肉親のことならば、なおさらだ。知らなければ良かったと、そう思ったときにはもう遅い。初めから知るべきではなかったと自分を責めることになる。自分を責め続ける気持ちは、やがては相手への憎しみへと変わる。真実など知りたくなかった――そう思うことは、その相手を拒絶することに他ならない。相手を信じる気持ちが強ければ強いほど、拒絶することは苦痛で、だがそうせずにはいられなくなるものだ。なぜそんなことを、とな。大切に思っているからこそ、憎しみが生まれてしまうんだ。きっと人というものは、自らに苦痛を与える存在を疎ましく思うようにできている」
「………………」
またしても は唖然としてしまった。カノンという男は比較的、こういったウエットな感情など持ちあわせていないかのように振る舞い、またそれを軽視する傾向の強い人間だと は分析している。それなのに、まさかこんな言葉を滔々と聞かされる羽目になろうとは。
「キグナスはまだそのことをわかっていないだけだ。だから求める。まだそんなことにならずに済む方法があるのなら、そちらを採るべきではないかと俺は思う」
つまりは、裏返しなのだ。 はいつものカノンらしからぬ言動をそう結論付けた。それが正しいのかどうか確かめるべく、尋ねる。
「カノンには、そういう経験があるの?」
直接的な質問に果たしてカノンは答えなかった。眉をしかめ、視線を逸らす。正解だ。 は気づかれぬように溜息を漏らした。
「それはあくまで、あなたの理屈でしょう? それにあなたがかつて直面した問題と、今、氷河が抱えようとしているものは同じではないのよ。混同しないで。――あなたと氷河は、違うの」
「まるでキグナスのことをよくわかっているような口ぶりだな」
これは重症だ。 は思わず天を仰ぐ。カノンに対する見方を変える必要があるようだ。
「私にわかるのは氷河のことではなくて、あなたのことよ、カノン。少しはわかっているつもりだわ。自惚れでなく」
「ほう? 俺のなにをわかっていると?」
口調はあくまで抑えめだが、普段から関わっているからこそムキになっているのがまるわかりだ。そういう部分を指摘する。
「大雑把を装っているけれど、その実、意外と繊細であることかしら。それと、思っていた以上に感傷的な気質のようね。よく知っているわけではないけれど、身近な人間の中ではちょうどサガがそんな感じだわ。やっぱり兄弟というのは似るものなのかしら?」
「やめてくれ」
カノンは心底嫌そうに吐き捨てる。だが はやめなかった。
「それを自分でわかっているから、普段はそんな部分を出さないようにしているのね。あなたの厳しさの源はそこなのでしょう? サガからも同じ印象を受けるのだけれど」
「本当にやめてくれ。似ているのは顔だけで十分だ。お前こそ、混同しないでくれ。俺とサガとは違う」
「そうね。違うわ」
怒りに変わる寸前の、強い調子で投げつけられた反論を はあっさりと認める。
「そういった自分のウエットな部分を知悉した上で、精神的な強さを構築している。『自分』をよく分析出来ているのね。だから隠すことができる。そういった部分は同じかもしれないけれど、それでもあなたとサガでは方向性が違うでしょう? 随分と性格が違うように見えるのはそのせいよ」
「……そうなのか……?」
沸騰しかけていた頭に水をかけられたかのような心地でも味わったのだろう。カノンは面食らったようにまじまじと を見つめ返してきた。これでやっと脱線してしまっていた話を軌道に戻せる。
「だからね、カノン。もしも氷河があなたと同じような経験をしたとしても、やっぱり向かう方向は違うものになると思うの。違う人間なんだから、当たり前よ。しかも今回の件ではその内容自体が違うから、彼はもっと別の思いを持つでしょうね」
「……本当に、そう思うか?」
未だ猜疑的なカノンに、ええ、と は確信を持って頷く。完成を待っている入力しかけのデータを眺め、微笑んだ。
「彼のお母様も、そしてお父様も、未来へとつながる素晴らしい功績を残したんだもの。きっと、悪いようには思わないわ」
***
夏休みも中盤に入った。世間では盆休みだと浮かれる時期も近い。
そんな中、氷河はうんざりするほどの連日の酷暑からつかの間抜け出していた。
「今年はこっちも気温が高いと聞いていたが、東京に比べれば遥かにマシだな……」
マシどころか、このコホーテク村に吹く風は冷涼と表現してもいいくらいだ。涼しい風に吹かれてふとつぶやけば、丁度茶を持ってやってきた少年に横から笑われた。
「そりゃそうだよヒョウガ。こんな海岸部は涼しいさ。内陸に行くと、結構暑いらしいけどね」
「ヤコフか。しばらく見ない間に大きくなったな」
たった一年来なかっただけだというのに、ヤコフはその笑い方さえもすこしばかり大人びてきていた。そう思える程度には長いこと、彼に会っていなかったのだ。
「やっぱりそう思う? 身長だってだいぶ伸びたんだよ。そのうち、ヒョウガを超えてみせるからね!」
「受けて立とう。俺だってまだまだ伸びるからな」
一緒に笑えば、ヤコフの笑みは次第に見慣れたあどけないものになっていく。ひとしきり話をしてしまうと、ふいに沈黙が訪れた。東シベリアの風が二人の間でそよいで流れる。
「良かったよ」
ぽつりとヤコフが言った。急にしんみりとしてしまった空気に、なにごとかと氷河は首を傾げる。
「なにが良かったんだ?」
尋ねれば、ヤコフはまたにこりと笑った。また、さっきの大人びた顔で。
「ヒョウガが元気そうで良かったってことさ。それに、全然変わってないみたいだ。――ううん。前よりも少し、大人っぽくなったよね。それに雰囲気が……なんて言ったらいいんだろう? 前はさ、もっと冷たい感じだったろ? 何者も寄せ付けず、取り付く島のないような感じ。例えば流氷みたいな」
「……そうだったか?」
随分な言われようだ。本当にそうだったら、ヤコフともこうした親交など築いていないだろうに。
少々憮然としたのだが、親しいはずのヤコフにすらそう言われてしまうような顔立ちをしている自覚はある。幸か不幸か、そのお陰で勘気には気づかれなかったらしい。氷河の胸の内など知る由もないヤコフはさらに言葉を繋げる。
「うん。でも今はそれがなくなった。冷たいような感じはそのままだけど、前とは違うよ。なんて言うのかな……ええと、そうだ。流氷は流氷でもさ、前はただの氷塊だったんだけど、今は大きな流氷みたいだ」
「?」
「大きいやつならさ、アザラシとか色んな動物を乗せながら進んでいくじゃない? 海に沈んでる部分にも、プランクトンとかいろいろいるんだよね。そんな感じで、なんて言うんだろう。こう、冷たいだけじゃないって言いたいんだけど……」
「そうか」
恐らくこれは褒められているのだろう。悪くない例えだ。素直に頭を下げる。そんな氷河の反応に安心したのだろう。ヤコフはもう一歩踏み込んできた。
「……お母さんの命日にも来ないから、一体どうしちゃったんだろうって心配してたんだ。もしかしたらまた危険な戦いをしてるのかなとか、ケガでもして動けないのかも、とかさ。いろいろ、すごく心配してたんだよ」
「……なんの連絡もせずに、すまなかった。ありがとうな。心配してくれて」
頭をくしゃりと撫でてやる。ヤコフはくすぐったそうに笑った。
「いいんだ。ヒョウガが元気なら。それにここにまた来たってことは、お母さんのことを忘れたわけじゃないんだろ?」
「当然だ」
氷河は海の方へ目を向けた。ここから海までは少し距離がある。すぐにそちらへ向かっても良かったのにコホーテク村に立ち寄ったのは、心の整理をするためだった。
「忘れたりなどするものか。この一年間、ずっと考えていたんだ」
ヤコフはきょとんと氷河を見上げる。
「考えていたって、なにを?」
質問にはもう答えなかった。振舞われた茶を一息で飲み干し、氷河は立ち上がる。脇に置いていた鞄と花束も忘れない。いつもは通学に使っているそれに入っているのは、今は教科書や参考書などではなかった。
「ヒョウガ?」
突然歩き出した背中をヤコフの声が追ってくる。振り返った。
「お茶、ごちそうさま。ヤコフ、後でまた寄らせてもらう。今日は泊めてくれないか?」
「勿論いいよ。待ってる。でもさすがに、こんな暑い時期にシチューはないからね」
深く突っ込もうとしないのはヤコフなりの思いやりだ。氷河は軽く手を上げた。
血は繋がっていなくとも、こうして築かれている絆がある。親戚などいなくとも、やはりここは氷河の故郷だ。
母――ナターシャの最期の足跡と起こした奇跡が記載された報告書の入った鞄を引っさげて、氷河は海へと向かう。
墓標の代わりと心に決めた母なる海へ、感謝と哀悼を込めた花束を捧げるために。そして、自分の成長を見せてやるのだ。
きっと母は、氷河を待ってくれている。
Northern Cross 10 / To Be Continued : Final episode next time!
補足1:冒頭のカノンの一言はねずみの国のアトラクションにはなんの関係もありません。
補足2:ヒロインが言っていた30人姉弟とは、GWのウィナーさん宅のこと。
補足3:コホーテク村の描写について。全て想像です。
そして、最初に戻ります。