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☆名前変換小説ではありません。
ようやく静かになった。一体、どれだけの時間が過ぎたのだろう?
肩で息をしながら、顔を上げる。周りを見回した。暗くてよく見えないが、人は――生きている人間は、もう一人もいないのはわかった。生きて船内に残っているのは、もう自分だけだろう。
周囲が暗いのは照明が落ちたせいだろうか。ところどころに灯っている非常灯があるところを見れば電気系統はまだ生きているようだ。だがそれなりに激しかった銃撃による応酬やその跳弾が、この辺りの照明器具をあらかた破壊しつくしてしまっていた。
壁にもたれかかってようやく立ち上がる。歩くのは容易ではなかった。大腿に銃弾を受けている。それだけならともかく、足元そのものが傾いているのだ。
この船が沈むまでに、そう時間はかからない。
問題はこの船に残された時間と、彼女――ナターシャに残されたそれとは果たしてどちらが長いか。それだけだった。
遠くから船体の軋む音が響いてくる。船の断末魔の叫びは、壁につけた背から手のひらからナターシャにも伝わってきたが、気にせず動く。動くたびに撃たれた足から血と力が抜けていく。それも気にしない。ただ、進む。
半ば転がり落ちるようにして階段を下った。目指すのは、出口などではない。そんなところを目指してもどうしようもない。もう救助艇はいないはずだ。
――最後の望みを託した最愛の息子を連れて、安全な陸地へと向かっているはず。
もう確かめる術はない。だが、そうであって欲しかった。
「氷河……」
思わず名を呼ぶ。届くはずもない。だがそれで良かった。息子には、すべてを託したのだ。彼自身は知らなくとも、彼は全てを持っている。生き延びて欲しかった。あの子だけは、なにがあっても。
そのための道筋はつけておいた。あの子の父親――城戸光政は、ひどく聡い男だ。あの子に会えば、何もかもを諒解してくれるだろう。
だがナターシャがそうしたように、あの子を愛してはくれないはずだ。そんなことは初めからわかっている。ナターシャだって、愛されていたわけではないのだ。当然だ。彼にはもっと大事なものがあって、それの前ではどんなものでも路傍の石ほどの意味しか持たないのだろう。それが例え、彼の血を分けた息子であっても。
だから、価値をつけておいた。これで城戸光政はナターシャの息子を無視することはできない。
きっと苦々しく思うだろう。それとも笑うだろうか? ――最期まで、小賢しい女だと。
どう思われようとも、ナターシャは構わない。ナターシャに対して城戸光政がなにかを思ってくれるのなら。それがどんなことであっても構わなかった。少しでも、ナターシャのことを覚えていてくれれば、それでいい。
それだけで、ナターシャの人生は満たされたものになる。愛する息子と愛した男。その二人に覚えていてもらえさえすれば、祖国の駒のひとつでしかなかったナターシャは、きっとひとりのまっとうな人間になれる。そう信じたかった。
不意に周囲の音が変わって驚く。目を開けた。いけない。どうやら軽く失神してしまっていたようだ。
気を引き締めないとすぐに意識が浮遊を始める。足を速めた。一歩動くたびにひどい痛みがナターシャを襲ったが、そうしていたほうが皮肉にも意識を繋ぎとめておけるのだ。痛みを感じている間は生きている。そう自分に言い聞かせて、ナターシャは歩を進めた。
「もうすぐこのフロアにも浸水が始まるわ……」
背を付けた壁から伝わる振動が明らかに数分前とは違ってきている。波打つようなそれは、おそらくは船腹から始まった浸水が徐々にこの船を侵している事実を示唆している。
「急がなければ」
この船に乗り込む前、つかのま抱いた希望はもはや全て断たれている。夢のような未来など、ほんの僅かでも夢想すべきではなかった。だから今、こんなにも辛い。
陸へすべてを置いて、これからナターシャが向かうのは海の底だ。生きて戻ることが叶わないのならば、完全に沈んでしまうより他に選択肢はない。そうまでして為そうとした一事がある。ならば、完璧に行われなければならない。
そうでなくては、救われない。ナターシャも、息子も、愛する祖国も――この世界も。
――まったく、馬鹿みたいな話だ。ナターシャは笑う。自分が今、世界を救っているかもしれないなどと。
ドアが見えてきた。もう少しだ。歩く。
――恐らく間違いはないのだ。ほんの束の間かもしれない。それでもわずかでも延命させることはできる。だからナターシャはこんなことをしている。今、死の底に向かいながら。
目的の部屋へようやくたどり着いた。ドア脇のルームナンバーを確かめる。間違いない。鍵を取り出す。
――後は、城戸光政がうまいことやってくれるだろう。それができる男だと信じたから、ナターシャは彼を愛した。
開いたドアの内側へ転がり込む。もう立っているのは限界だった。這いずる格好のまま、ベッドの下からスーツケースを引っ張り出す。
――そして、息子が生まれた。予想外の出来事だった。まさか、自分が子を授かるなど。
血に汚れた服を脱ぎ捨てた。取り出したドレスの代わりに、血まみれの服をスーツケースに押し込める。手近な布切れを手にしたままだったナイフを使って裂いた。銃痕も生々しい傷口をきつく縛り上げる。
――息子はとても可愛かった。想像していた以上にか弱く、愛しく、そして強い生命力を持っていた。自分でも驚くほど底なしに溢れ出てくる愛情を存分に注ぎ込んだ。それはもう二度と会えないことが確定した今も衰えることなく胸を満たしている。
出血が収まったことを確認して、立ち上がる。苦労しながらもようやく、白い服を身につけた。初めて着るドレスだった。最後に会ったとき、城戸光政がナターシャに与えたもの。
――純白の、まるでウエディングドレスのようなそれを、光政は一体どういうつもりでナターシャに渡したのか。わからない。だが、信じたかった。
これでナターシャは、心も身体も愛で満たされたのだと。
足元が濡れてきた。見れば、耐水性のあるはずのドアの隙間から水が染み出ている。これでもう、逃げ場はない。
――間に合った。
ナターシャは微笑する。満足だった。心地良い疲労感に抗う必要も、もうない。ベッドに倒れ込んだ。同時に、最後まで灯っていた非常灯がついに消える。
なにもかもが闇に溶けた――そのはずなのに、光が見えた気がした。閉じかけた瞳を開く。
「……氷河……?」
光の中から、随分大きくなったあの子が降りてくる。ナターシャに向かって、手を差し出していた。
嬉しかった。迎えに、来てくれた……!
手を伸ばす。すっかり逞しくなったその手を、取ろうとした。取りたかった。
そこで気づいた。彼の手には花が一輪、握られている。――そうか。
そういうことか。わかってしまった。
ナターシャは今度こそ本当に眼を閉じた。溜まっていた涙がひとつ、つられて落ちる。そして言葉も零れ出た。
「待っているわ……ここで。あなたがいつか、来てくれる日を――ずっと」
波打つ音が近づいてくる。心地良かった。
静かに眠れそうだと、そう思った。
Northern Cross END
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