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暗い場所だった。
どこもかしこも、どこまで行ってもひたすらに暗い。
もしかしたら、目が見えていないのではないだろうか。そう考えると合点がいった。そういえば、感覚の全てがおかしかった。
歩いているつもりなのだが足裏に地面の感触はなく、頬を撫でる風もない。においもない。そうだ――息は、しているだろうか? 心臓は本当に脈打っている? 呼吸の音は聞こえない。なにも、聞こえなかった。
ここはどこだろうかと思考することすら億劫だ。ここに来る前は、何をしていた? ちらりとそんなことも考えたが、思惟はすぐに溶けるように消えてなくなった。
消えてしまう。それは悔しい。そして悲しい。
そんな思いも抱くのに、それすらいつしか風にさらわれる砂のように消えていく。
そのことに対する恐怖すら、抱くことも忘れていく。
何もかもがあやふやだ。自分というかたちがまだきちんとあるのかどうかでさえ判然としない。
そんなふうなのに、なぜか一つだけ、残って消えない思いがある。
――守れたのだろうか。
彼を。そして、彼がかつて守った場所を。
それだけが気がかりで、そのせいで消え失せられないでいるのかもしれなかった。
***
「なにを守りたかったのですか?」
不思議なことに、声が聞こえた。
「そんなになってまで、あなたは何を守ろうとしたのですか?」
答えることはできなかった。そもそも、声とはどうやって出すものだった? 考える。だがわからない。だから黙ったままでいた。
だがその声は無視を許してはくれなかった。
「そうまでして、本当に守る価値のあるものだったのですか?」
揶揄を含んだ言葉だった。瞬時に怒りという感情を思い出す。
当然だ。価値ならある。普遍的なそれではないかもしれないけれど、少なくとも今の自分にとっては最も価値のあるものだった。
「どうして、そう思うのです? あれがどうなろうとも、あなたにはまるで関係がないではないですか。あなたがたにとってあれはただ、搾取できれば良いだけの、つまらないものではないのですか」
そんな酷いことを言わないで。叫べないのがもどかしい。過ぎた怒りは、悲しみになんてよく似ているのだろう。
彼等が――彼が、その生命を犠牲にしてまで守ったものなのに。つまらないものであるわけがないじゃない。どうなってもいいなんて、そんなことは絶対にない。
彼が守ったものを、私も守りたかった。そうすれば、せめて心は共にあれると思った。寄り添っていたかった。
それに私は彼等を知っている。関係はある――あると信じたい。
それから一番大事なこと。誤解しないで。私は、あんな人たちとは違う。絶対に違う。
奪わせないために、私は――
***
「どうやら、間違いないようですね」
ぱたんと閻魔帳(ファイル)を閉じ、彼は高みにある壇上から彼女を見下ろした。
もとより閻魔帳にはなにも記載されてなどいない。開いていたのはただの習慣だ。読み上げていたわけではなく、語っていたのは見極めるための言葉だった。
最近多い、異世界の死者。
この世界における悪行の情報が全くないため、処分には相当の負担が生ずる。それが特に今日は多い。多いと言っても、この世界の死者達に比べればほんのわずかではあるが、それでも処理が面倒な分、彼――天英星・バルロンのルネにとってはここ最近の頭痛の種だ。
しかも先ほど、彼の上官から全く以て面倒極まりない命令が入った。
曰く、女神アテナに縁の者が来るかもしれないから、知らせるようにとのことだった。命令には更に追加の文言がついていた。
通常通り、是非善悪を判定するようにと。
これは上官のさらに上、主君たる神・冥王ハーデス直々の命令だった。違えるわけにはいかない。
ルネは倒れ伏す女を見下ろし、唸る。難しい仕事を押し付けられたものだ。
「罪は犯している。他者の生命を奪い、炎と血を浴びている。罪はある。だが――大義もある。おそらくは、正義も」
しばし黙考し、ルネはやがて重々しく告げた。
「――有罪」
長い階(きざはし)へと足を踏み出した。いまだ倒れ伏したままの彼女へと、一歩一歩近づく。
「有罪に限りなく近い。だが、自らの行いによって、それは贖われる。無罪ではないが、贖われたものは量刑として科すべきではない……」
階下では部下のマルキーノがおろおろと右往左往している。これほどはっきりとしない判決など、聞いたことがなかったからだろう。
しかもマルキーノが連行すべき死者の元へと、ルネが自ら降りて行くのだ。ただごとではないと哀れな部下はすっかり縮み上がっている。
「ルネ様……この死者をいかがなされるおつもりで?」
おそるおそる問うてきた。上司の機嫌を損ねれば、どうにかされてしまうのは彼なのだ。だが聞かずにはいられなかったと見える。
案の定、刺すような視線を向ければマルキーノは震え上がった。だがそんな彼の耳を打つのは鞭ではない。恐らくマルキーノにとっては――そしてルネ自身にとっても――意外に過ぎる言葉だ。
「死者ではない。この者はまだ、死んではいない。最後の審判が下されるこの場で、それを聞くことのできる状態ではないのがその証拠」
ついに件の女のそば近くまで歩み寄ったルネは、しかし何かに阻まれたかのごとく立ち尽くしてしまった。まルキーノが怪訝に首を傾げる。
「……ルネ様?」
「今にも消え去りそうな命の火に、油を注ぐかのごとき黄金の小宇宙を感じます。――しかも、それだけではない」
距離を保ったまま、ルネは彼女を検分するように目を眇める。
「弱い炎の奥深くから立ち昇るっているこれは――神の息吹か。……遙か昔のものであろうが、間違いないでしょう」
たった今、自らが降りてきた壇上を振り仰ぎ、ルネは膝をつく。声を張り上げた。
「ミーノス様。私にはこれ以上この者を判ずることはできかねます」
先ほどまでルネが使っていた閻魔帳の乗る重厚なデスクに、あろうことか半分腰を掛け、いつの間にか姿を現したミーノスは薄く笑みを浮かべていた。
その姿を見て、マルキーノは粛々とこの法廷を後にする。これ以上は彼ごとき下役が聞いて良い話ではないことは言われなくとも心得ている。見上げた保身の精神だ。
「だが判決を下せとはハーデス様の命。ルネよ、お前はそれを違えるのか?」
壇上から、ミーノスが居丈高に言い放つ。対するルネは悪びれもしない。
「いまだ死してはおらぬ者を裁く権など、もとより私にはございまぬゆえ、命に背くことにはなりません」
「もし死んでいたら、と仮定しての話だ。なにやら判じ始めていたようではないか」
「それは」
口ごもったルネをミーノスは笑った。先を促す。
「それは? 有罪か、無罪か。答えよ」
全く笑ってはいない上司の視線を受けながら少しの間逡巡し、ついにルネは答えた。
「二択しかないのでございましたら――無罪と」
「ほう?」
デスクから降り、ミーノスは腕を組む。珍しい判決を下した部下を睥睨した。
判決の理由を問われている。それを察し、ルネは言葉を選ぶ。
「確かにこの者は多くの命を奪っております。しかし同時に、もっと多くの命を救うために自らの命を差し出しました。他の異界の者達と違い、そうまでしてもこの世界は守る価値があると申しました。この世界の者として、その心意気は勘案されるべきと存じます」
「なるほど。差し引きすれば、ゼロというわけか」
面白そうにルネの足もとに横たわる女を見下ろし、ミーノスはついと腕を上げる。
力なく横たわっていた女が立ち上がった。――否。両腕を水平に上げ浮き上がる。見えない糸によってつり上げられていた。
「ミーノス様?」
どうするつもりかと、尋ねようとしたその瞬間。
法廷は闇に包まれた。
***
暗いのは相変わらずだった。
だが先ほどと違うのは、怒りの感情を持ち続けることができていることだ。
感覚は、やはり戻っていない。ここがどこかもわからない。
だが思考は消えない。自分が誰なのか。それも思い出せた。わかっていた。自分の置かれている状況も、ある程度理解していた。
――死んでいる。
自分は、恐らく死んでいるのだ。
悲しい気がした。何も言えないままだった。別れの言葉すら、掛けることができなかった。
同時に清々もしていた。できることは、すべてやったのだと。
だが、酷い方法をとった。それもわかっている。だから不思議だった。なぜこんなにも静謐なところにいられるのだろうかと。
目的がなんであれ、罪深い行いをしてきた。この世界には、まさしく本物の地獄があるという。だからきっと、行き着く先はそこでしかないだろう。そう覚悟していた。
それなのに。
また声が聞こえた。今度は女の声だった。
「ここはまだ、お前の来るべきところではない」
先ほどのような揶揄も、懐疑も含まれていない。ただ傲岸不遜に告げていた。
「そしてここは、お前のような者の来るべき場所でもない」
そんな風に言われると、ここがどこなのかが無性に気になった。周囲を見回そうと努力する。だがやはりなにも見えなかった。
「去ね」
有無を言わさぬ物言い。強圧的に繰り返される。
「疾く去ね」
抗うことはできなかった。なにかが急速に戻ってくる。これまで存在することすら忘れていた身体の感覚。こころの存在。なにもかもが急に詰め込まれて、破裂しそうだった。
戻ってきた感覚が告げる。全身があたたかなもので包まれていた。このぬくもり。なんて力強い。――守られていた。
うれしさが心の底からこみ上げる。止まらない。泉のように湧き出たそれは、やがて溢れ出る。目尻から流れ出た熱いものは、頬を伝って胸に沁みる。
――死んでなど、いなかった。守られていた。守ってくれていた。
今も。守ってくれている。だからこんなにあたたかい。
涙で濡れて、ようやく目を開くことができた。周囲を見渡す。
やはりそこは暗かった。凝ったような闇の中、黒衣に身を包んだ女の白い肌が際立っていた。先ほどの声の主か。
だがそれよりも、女の後ろにひっそりとたたずむ漆黒の気配が気を引いた。
引き寄せられるように目が奪われる。当然のように目があった。その凝った闇。
恐怖は感じなかった。冷たいだけの闇ではない。それはまるで、種々の光を内包しながらなおも暗く広い、宇宙に酷似していた。懐かしささえ感じる。
やがてその宇宙のような存在から言葉が発せられた。それは鼓膜を震わす声ではなく、脳髄に直接響き渡る押しつけがましい意思でもない。ただ大気のように、自然に身に心に吸い込まれる。冷たく、穏やかで、絶対的だった。
『罪はある。既に己によって贖われた罪が。愛によって己を贖いし者よ――今は生きよ。裁決は、いずれまたここに来ることがあるのなら、それまでの行いによって決められるだろう』
闇がその白い御手を掲げる。追い払うように動く。
飛ばされた。風に押されるように、何かに引かれるように。
追い打ちを掛けるように、静かな声はいまだあやふやな存在だった彼女を、決定的に形づけた。
『この世界と、この世界の者へと向けられた愛に、今は報いよう。ここで見聞きしたことはすべて忘れ、光在る世界へ戻るがいい。――異世界よりの来訪者。ユラ・ユイ』
神によって呼ばれた名。
輪郭を失いかけていた魂に改めて意味を与え、その名を持つ肉体との結びつきを復活せしめる。
闇が取り払われ、ユラの心に光が戻る。
同時に魂に刻み込まれるような声も、垣間見た暗黒の奈落も、なにもかもがユラの中から消えていく。
雲散霧消して、それは失われた刻となる。
***
異質な光の去った世界は、安寧なる深淵の姿を再び取り戻した。
深潭を照らすのは光ではないなにか。その中で息づく者達は、わずかに残る輝きの残滓にいまだ目を細めながら、彼等の主を振り仰ぐ。
膝をつき、女は問う。
「恐れながらハーデス様、かの娘に生きよと仰せられましたが、またすぐに舞い戻ってしまうのではないかと危惧致します。今はまだかろうじて戻る肉体が生きているようですが……あの様子ではそう長くは保ちますまい……」
気遣わしげな女の様子に、ハーデスは薄く笑う。もっとも、誰もその玉顔が笑んだのを目にしたわけではない。周囲の闇はすなわちハーデスの小宇宙。息吹そのもの。それが揺れて、その様子を感じ取ることができただけだ。
「先に去ねと申し渡したのは、お前ではないか、パンドラよ。なのになぜそのようなことを」
頭を低く垂れ、パンドラは答える。その声はひどく同情を含んだものとして彼女自身の耳に響いた。そのことに驚きつつも、口から勝手に言葉が溢れ出る。
「あの者からは、一切の希望が感じられなかったからでございます。……まるでかつてのわたくしのように」
「希望」
悠久の時の中でほとんど口にしたことがないであろうその言葉を、ハーデスは賞翫するかのように復唱した。パンドラはその面をいっそう下げて、感じたままを素直に吐露する。
「疲弊と諦念、失望と悲観。そういったもので、生への希求が薄れているように思えました。あるいは、ここへ来たのも自らの意思ではないかと」
ふむと頷く気配がした。同時に、さらなる笑いの波動が伝わってくる。
「確かにな。全てをはかなむ、弱い魂だった。だが、それだけでもない」
「はい。それでもいまだ情愛を失ってはおりませんでした。……情愛と言うよりは、慕情でしょうか。いっそ切ないほどの」
パンドラは先ほどの異端な来訪者を思い浮かべる。いまだ死してはいなかったが、この場にあることが不自然ではないくらいに死に近いところにあった。だからわかった。冥府の住人にとって、現世の肉を纏わぬ存在の内奥を見透かすことなど容易い。だから裁くことができる。異界の者とて、決して例外ではないのだ。
「残ったその思慕の念こそが、あの娘を失意の底に追いやっていた様子。あれでは――」
やはりすぐに戻ってきてしまうのでは、とパンドラは続けようとして叶わなかった。ハーデスが、いまだ宙を漂う光の欠片を手に取り、鮮やかな笑みを浮かべたのをその目ではっきりと見てしまったからだ。
「その愛によって、異界の者でありながらこちらを守るべく働いた。余はそれを認めたのだ。アテナの言う愛とは、確かにそのような力があるもののようだと認めたのだ。だが……小さい」
手にした光には炎のような煌めきがある。ハーデスはそれを愛でるかのように弄ぶ。
「人の愛とは、何と小さきものか。抱き、はぐくみながら、それが故に失意に呑まれる。また、その愛が向けられる対象も人となれば、そのちっぽけなことと言ったらまったく哀れなほどだ」
光にふっと息を吹きかけた。すると瞬く間にそれは大きく燃え盛り始める。
「だがそれほどささやかなものが、大きなものを救うこともある。守ることもある」
「先ほどの娘、覚えのある小宇宙で守られておりました」
それまで黙って傍らに控えていた影がようやく声を発した。ハーデスは振り返らずに応える。
「お前は感じたか。ワイバーン」
は、と首肯し、ワイバーンのラダマンティスはハーデスの手の上からまき散らされる光に目を眇めた。
「その小宇宙の主ならば、彼女をむざむざ死に追いやることはしないでしょう」
だが、とパンドラはラダマンティスの言葉に正面きって異を唱えた。
「その者の為にあの娘、あのような負の念に絡め取られていたのではないのか。相手が聖闘士では、希望など持ちようがない」
そんなパンドラの批難をさらりと受け流したのはラダマンティスではなかった。
「それはどうかな。それに、それだけではないようだったが。――人間には、様々なしがらみがあるものだ。現世に生きている人間にはな」
どこか当てこするような響きのある言葉だが、パンドラはとくに眉をひそめたりはしない。冥界にのみ生きる彼女には、それこそそのようなしがらみなどないのだ。現世には理解しかねる事情もあるものなのだと、抱いた感想はそれだけだ。
それよりも大事なことを思い出した。己の本文を全うすべく、パンドラは未だ喉元に登ろうとする感情を飲み下す。余計な声を胸に戻せば、出てくるのは必要な言葉だけとなった。
「ミーノスか……そういえば、ルネの判定はどう出たのだ?」
「無罪、と」
端的なミーノスの返答を、先の話題共々、パンドラは深く追求せずにおくことに決める。そうか、とだけ返し、再びハーデスに向かって頭を垂れる。ラダマンティスもミーノスも、彼女に倣った。
この場にあっては異質な光輝。ひれ伏す己の忠僕と交互に、ハーデスはそれらをしばし眺め続けた。そうするうちに光は浮き上がり、ふわりふわりと上って行く。
「人の心の移ろう様などわかりはせぬ。だたアテナの言うほどに愛が万能であるならば、我らは二度とかの娘にまみえることはなかろう」
光は闇の彼方に飛び去り、やがて消えた。
「――二度とな」
ハーデスのつぶやきと共に、辺りを再び闇が制した。