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ずいぶんと解像度の低い映像だった。
カノンは目をしばたたかせる。なぜ自分はこんなものを見ているのだろう。疑問には思ったが、止める術はない。淡々と見守るより他に選択肢がなかった。
ノイズの混じる画面の中で、長い白髪にやはり白く長い髭をのばし、ロボットアームのような異様な義手という妙な出で立ちの老人が喋っている。マッドサイエンティストと言った風采ながらも口調はまともで、断固として迷いがない。義眼なのか眼鏡なのか判別のつかないもので覆われていても、その目は冷徹に画面の向こうからなにかを見据えているのがわかった。
なりふり構わぬ勝利を求めることを批判し、そこまでして勝ちたくはないと言い切った。求めているのは、勝利そのものではないのだと。
老人は言い放つ。
『よって、ここに降伏を宣言する』
唯一、表情の伺える口元が笑みのかたちに歪んだ。
『降伏はする。しかし、ガンダムは渡せん』
聞いたような言葉だと思った。同じような宣言を、カノンは聞いたことがある。ほんの少し前のことだ。あの、背筋のみならず全身の血が凍り付くような心地を、まだ忘れてなどいない。
映像が切り替わる。複数のソース映像を編集してあるようだった。こちらは先程に比べて画質がいい。
戦場だった。画面の中央には、01――先程の老人がガンダムと呼んだ機体がいる。ではこれは敵機から見た映像なのだとカノンは悟る。
微動だにしない映像は、つまりこの撮影者――ガンダムと先程まで交戦していたに違いない敵モビルスーツが、今このときはその動きを止めていることを意味している。
おそらく搭乗者は、固唾を呑んでことの推移を見守っている最中なのだろう。
その視線の先で、ガンダムの胸部ハッチが開く。
事態のなにもかもが、酷似していた。つい先程、カノンの目の前で実際に起こった惨事に。
やめろ、と。叫びたかった。さっきと同じように。
だがやはり声は届かない。決して届くことはない。なぜならこれは、もう終わってしまった出来事なのだ。
ガンダムから出てきたのは少年だった。ミドルティーンとおぼしき小柄な少年。
やはり彼は手になにかを握っていた。そんなところまでそっくり同じだった。
『繰り返す。ガンダムは渡せん!』
老人の言葉が残酷に少年の行動を決定づける。
少年は、突き出した手の中のスイッチを躊躇うことなく押し込んだ。次の瞬間、機体は膨れ上がる。爆発する機体から、少年が吹き飛ばされて落ちていくところで映像は終わった。
否。終わったのではなく、視線が移動した。
この映像をほとんど瞬きすらせずに凝視していた人物が、ようやく画面から目を逸らしたのだ。肩を叩かれて振り向いたのだと、目の前に現れた男の顔を見て知れた。
――こんなものを見ていたのか。
わずかに眉をひそめただけの極めて無表情なその顔は、たった今映像の中で爆散するガンダムから落ちていった少年が年齢を重ねた姿だった。では彼もまた、何とか無事に生き延びたのだ。そうと知ってほっとしながらも、カノンの胸の内には複雑な思いが沸き上がる。
なぜならこの男は、映像の老人と同じ命令を に下した男だった。カノンが先程ディスプレイ越しに見た顔よりは、今のこの風景の中の彼は多少若い。
――かつてのOZの資料映像か。どこでこんなものを……
苦々しい口調だけが唯一、男の心情を露わにしていた。映像に目をやり、目を細める。剣呑に睨みつけていた。
その姿が不意にぼやける。
――いたかった?
幼い声が震えていた。
――おとうさま、とってもいたかったのでしょう?
風景はみるみるうちにぼやけていって、やがて一瞬クリアになる。そしてまた新たにせり上がってきたものでぼやけることを繰り返した。
――わたしも、 もいたいです。おとうさま。むねがとってもいたいです。
泣きながら、それでも幼い は目の前の父親から目を逸らさない。
――でもおとうさまは、もっともっと、むねがいたかったのでしょう? だからこんなことをなさったのでしょう?
滲んだ視界でも、男の表情が変わったのがわかった。不機嫌につり上がっていた目尻が少しだけ下がる。わずかに上がった片方の口角のおかげで、どうやら苦笑しているようだと見当がついた。
――そうだな。
男は手を差し伸べる。次の瞬間には、男の頭をすぐ斜め上から見下ろす格好になっていた。表情は、そのせいで見えなくなった。
を抱き上げ、男はつぶやく。
――死ぬほど痛かった。だが、あのときはああするしかなかった……
――おねがいです。もう、あんなことはしないで。
父親にしがみついて、 は懇願する。
――おねがいです、おとうさま。もうにどと、あんなことはしないでください。
その背を宥めるように軽く叩いてから、男は を床に下ろした。見上げる目線はとても低かったが、男はそれに合わせるように自身もしゃがみ込んだ。
――わかった。約束する。代わりにおまえも約束してくれ。
――なんでしょう?
――なにがあっても、俺の真似はするな。おまえは、俺のようになってはいけない。
子供に向けているとは思えないほどに真剣なまなざしだった。カノンは胸を衝かれる。
だが幼い には、その意味を理解することはまだ難しいようだった。
――どうして……? わたし、おとうさまみたいにつよくなりたいのに。
不服そうな質問に回答を与えることはせず、男は の頭に手を伸ばす。力強く撫でて、繰り返した。
――絶対に、俺の真似だけはするな。いいな、 。
ならばなぜ。
できることなら、カノンは言ってやりたかった。
そう思っていたのなら、どうして彼と同じ道を選ぶしかない言葉を、 に与えてしまったのかと。
意固地なまでに強い口調で娘を諭した父親に、どうしても言ってやりたい。
おまえだけは、あの命令を口にしてはならなかったのだと。なにがあっても、あれはおまえが言ってはならない言葉だったのだと。
直接顔を合わせることがあったなら、そのときには必ず言ってやろうと心に決めた。
***
星が輝いていた。
静かで穏やかな空漠とした空間に星が月がちりばめられているだけなのに、こんなにもあたたかく懐かしい感じがするのはなぜだろう。
ぼんやりした意識で、 はそんなことを思う。
大気の層に全く邪魔されず、強く鮮やかに光を投げかける星々がたゆたう真空の宇宙。そんな中に投げ出されて平気なら、ここは勿論宇宙なんかではない。
この光景は知っている。これで二度目だ。知っている。――あのときと、同じだから。
ここで、あのとき。
始まったのだ。
交感し、意識と知識が同期された。思いもかけないかたちでの、新たな出会い。
それは結果として、実に様々な感動を に教えてくれることとなった。
空の青さ。風のにおい。土の手触り。それらの心地よさ。たくさんの人々とのふれあい。彼等の持つ、純粋な思い。願い。その強さ。それから――愛という感情。その熱さ。
それまで知り得なかった、なにもかもはここでの彼との出会いによってもたらされたものだ。
だから、終わるのもやはりここでなのだろう。多分、そういうことなのだ。
は光から目を背ける。清かな星々の輝きが、今はとてつもなく眩しい。直視することはもうできなかった。
膝を抱えてうずくまる。涙があふれて止まらなかった。
***
茫漠とした闇と刺すような星明かりに竦んでいたのは、そう長い時間ではなかったはずだ。夢から覚めたと思っていたのに、むしろもっと深いところに沈み込んでいるようだった。
カノンは唐突に我に返る。焦った。意識が沈んでしまう前には確かに抱いていたはずの が腕の中にいない。
首を巡らせ、四方八方に視線を向ける。ここがあのときと同じ場所なら、いるはずだった。探す。先ほど見た夢は、 の記憶であることはわかっていた。読み取ってしまうくらいだ。絶対に近くにいる。
目を凝らし、感覚を研ぎ澄ませて探す。やがてぼんやりとした光を見つけた。
近づく。光は逃げない。目をこらせば、それは人影であるとわかった。うずくまるように顔を伏せている。豊かにたなびく金髪が光っているように見えていた。
「 」
カノンは呼びかけた。だが は聞こえているのかいないのか、膝に顔を伏せたまま動かない。思い通りに動けない。必死に近づく。
ようやく、手が触れた。声を掛ける。
「 、俺を見ろ」
肩をつかんで揺さぶる。何度も繰り返す。しかし はなかなか動こうとしなかった。
「 !」
うつむいた頭ごと、抱えるように抱きしめる。それでようやく顔が上を向いた。
「 ?」
ぽろぽろと。流れ落ちた涙は星の光を弾いてまるで水晶のようだった。とめどなくそれはあふれては虚空へと消えていく。宇宙の星のひとかけになる。
その様に見惚れて、カノンは咄嗟に言葉を発することができなかった。
次から次へと涙の浮かぶ瞳はカノンをひたすら見つめているくせに、やがてわななくように動いた唇から零れ落ちたのは、拒絶だった。
「もう……いいの」
疲れ切った声だった。なにもかもを諦めて、突き放している。驚いて、カノンは腕の中で震える を凝視する。
「 !?」
視線の先で、 は笑う。涙をこぼしながら、酷く悲しげに。
「私はもう、いいの。だからカノンは、もう行って。このままここに、私を置いていって」
「なにを……言っている?」
意味がわからなかった。いぶかしげに問えば、 はさらに切なげに微笑む。腕が上がって、カノンの胸を押した。
「今まで守ってくれて、助けてくれて、どうもありがとう。本当にありがとう。……でももう、いいの。もう守ってくれなくてもいいのよ。このまま放っておいて。もう……死なせて」
決定的な一言。やはり はそのつもりで自爆を選んだのだ。信じたくはなかったが、これでは疑いようもない。
「なぜ……そんなことを言う? ――そんな弱気なことを」
どう頑張っても声が震える。腕を突っ張り、離れようとするのをつなぎ止める手が震える。もう聞きたくなかった。そんな禍言は。
それなのに は滔々と言い募る。
「だって私が生きていたら、彼らに捕らえられて、女神様の意思とは反対のことをさせられるわ。それに私のせいで、地球に向けて攻撃が加えられてしまった。あなた達が命を懸けて守った場所が、傷ついた。……こんな私にはもう女神様の庇護を受ける資格なんて、ないでしょう?」
なんて馬鹿なことを言っているのだろう。カノンは呆れた。同時にふつふつと怒りが湧き上がってくる。
全てが 一人のせいであるわけがない。要因の一つではあったが、原因そのものではなかったはずだ。なのになぜ、そんなことを馬鹿みたいに信じてしまっている? 思い込んでしまっている? 理解できない。まったく意味がわからない。
だから心から否定してやった。
「そんなことはない!」
それなのに、 はまだ止めようとしないのだ。
「私なんか死んでしまったほうが、女神様の――この地上の為よ。だからお願い」
涙を流しながら。切なく笑いながら。
「もし私がまだ生きているのがカノンのおかげなら、もうやめて欲しいの。……お願いよ。私を、殺して」
――なんてことを言うのだ。
あまりの馬鹿馬鹿しさに、カノンは言葉を失った。その隙を は逃さない。
「女神様の命令で、カノンは私を守ってくれていたのでしょう? もう、その必要はないわ。だから、お願い」
「命令なんかじゃない! 俺は――!」
口から吐き出すには、怒りはあまりにも大きすぎた。つっかえて、出てこない。だからただ、カノンを押し返そうとする腕を掴みなおした。引き寄せる。
どうしても言いたいことがあった。このまま、 の思い通りになどさせるものか。逃さないように捕まえる。
そんなカノンの心情を知ってか知らずか、 は自分の言いたいことだけをひたすら放言し続ける。早くしないと、時間が尽きてしまう。きっとそう思っているのに違いなかった。
「知っていた? 私ね、カノンに守られていることに慣れてしまって安心して、頼り切って、すっかり心地よくなってしまっていたの。これが当たり前なんだって、錯覚していたの。……ずっとこんな日々が続いたら、って思うようになっていた」
「!」
いまにも怒鳴りつけようとしていた気勢が削がれた。なんだそれは。カノンはぽかんと を見つめる。
そんなカノンの頬に、 は右手を伸ばした。おずおずと。そして指先で、そっと触れる。――触ってはいけないものに手を出している。そんなふうに、恐る恐る。ありったけの勇気を振り絞るかのように。
そして、そんな手の動きと同じような調子の言葉が、ついに漏れた。
「……知っていた? 私が……カノンを、好きなこと」
「……!」
突然の告白。驚きのあまり、カノンはなにかを答えるどころかなにも考えることができなかった。一番最初に思ったのは、自分がどんな顔をしたのだろうかという、そんなことだった。なぜなら。
「ごめんなさい……!」
まるで熱いものにでも触れたかのようだった。 はカノンに一瞬だけ触れた手を素早く引寄せる。左手でかばった。痛みをこらえるように。項垂れて、それでも声を絞り出す。
「迷惑よね――カノンは、女神の命令で私と一緒にいただけなんだもの……」
ほとんど呻くようだった。そのあまりの悲痛さに、カノンは我に返った。
「違う!」
咄嗟に言えたのはそれだけだった。思い通りの言葉が出てこない。それがもどかしく、カノンはいつの間にか腕の中から抜け出してしまっていた を再び抱き寄せようとした。だが は両手を突っ張ってそれを拒む。
「ごめんなさい。私、このままではあなたの大事な女神様に迷惑しかかけないの。ごめんなさい。でもね、こんな気持ちを持てて、ものすごく幸せなの。なんて勝手な人間かしら。本当に迷惑よね。ごめんなさい、ごめんなさい……」
何度も何度も謝りながら、 は泣きじゃくる。ぼろぼろと零れて落ちる涙を止めようとも隠そうともせずに。
「 、俺は――」
涙と共に溢れ出る言葉を、一体どうやって止めればいいだろう。ひどい難題だった。カノンが考えている間にも、 の謝罪と懇願は止まらない。
「だからお願い。最期のわがままなの。これだけ迷惑をかけたのにもっと望むなんて最低だけど、でも」
はついに、両手で顔を覆ってしまった。くぐもった声が、鋭利にカノンの心に突き刺さる。
「あなたに殺してもらえたら、きっと私、ものすごく幸せに死ねる」
「ふざけるな!」
ついにカノンは怒鳴った。これ以上、こんなことを言わせない方法が、天啓のように閃いた。
塞いでしまえばいいのだ。こんな悲しい言葉ばかりを紡ぎ出すくちびるなど。
カノン自身のそれで。
***
この場所に時間の流れなど、たぶんない。それでも、ずいぶん長い時間がたったような気がしていた。
見開いたままの目には涙が盛り上がっていて、目の前の滲んだ金色しか認識できない。海のような色の瞳も見えない。きっと閉じられているのに違いなかった。
だからだろうか。まるで現実味がなかった。――こんな夢の中のような世界にそれを求めるのはおかしなことだとわかっているけれど。それでも信じられない。
くちびるを塞ぐ、熱い感触。あまりの熱さに頭の芯まで溶かされたかのようだ。ぼうっとする。
あれほど頭の中をぐるぐるとしていた言葉達はすべて燃え尽きてしまった。吐き出されるはずだった言葉もすべて、カノンに呑み込まれてしまった。
まばたく。せり上がっていた涙がこぼれて落ちる。頬を伝った。
くちづけたときの性急さとはまるで正反対の静けさでそっと離れたカノンの唇が、もう一度降りてきた。頬を流れる涙をすくい上げる。
そして今度はちゃんと目を閉じることができた。くちびるに二回目の熱い衝撃が落ちる前に。先程よりはゆっくりと触れる。力の抜けた腕を身体を、抱きしめられた。きつく――息が止まるくらい、きつく。
「そんなことができるものか……惚れた女を殺すなんて、そんなことができるか……!」
耳元で掠れた声が聞こえた。抱きしめられていなくても、きっと動くことなどできなかった。そんな言葉を、聞いてしまった後では。それなのにカノンは を離さない。
「俺は、お前を守りたい。それで、もしも万が一アテナに逆らうことになったとしても、守ってみせる――そう思えるくらい、俺はお前を愛してる……愛してるんだ」
強く掻き抱かれていっそ痛いくらいなのに、痺れるようなこの甘やかな感覚は何だろう? どくんどくんと鼓動が響く。胸の奥から、じわじわとほとばしるなにか。
これは、いったいなに?
答えを考える隙など与えられなかった。カノンが滔々と耳元で囁き続ける。その声。そしてその言葉の中身。一言一言が確かな熱と重みを保ったまま耳から入り込んで、内から を溶かしていく。
「……最初は確かにアテナに命じられた。しかしその前から、お前と意識を共有したあの時以来ずっと、俺はお前のことが気になって仕方なかった。あんなに深く繋がったからかもしれないが、他人とは思えなくなった。初めはただの興味だったかもしれない。だが、ずっとお前のそばにいて、お前を見て、声を聞いて――お前と同じだ。それが当たり前になっていたんだ。今ではお前が見えなくなると不安で仕方がない。お前の声が聞こえなければ何も聞きたくない。お前の存在が感じられないと、俺はやはりあの聖戦のときに死んだままなんじゃないかと、本当は俺は生きてなんかいないんじゃないかと思うことすらある」
「……カノン」
やっと声を出すことができた。それでも名を呼ぶ以外、なにもできない。衝撃だった。
そんなふうに、思っていたなんて――思われていたなんて。知らなかった。気づかなかった。
「それでもお前は、殺せと言うのか? この俺に!?」
「カノン……」
やはり名前しか呼べない。身体は動かせない。相変わらず強く抱きしめられている。もしかしたら、縋り付かれているのかもしれない。
「いいだろう。たが、お前が死んだら――俺も死ぬ。そうすれば今度こそ、もう二度と蘇ったりしないだろう。そうなればこんな気持ちなど、もう感じなくてもいい……」
熱に浮かされたようになっていた思考が、急速に冷えていく。凍り付くような恐怖を感じた。言葉一つで、こんな心持ちになるというなら、確かに はさっきカノンにひどいことを言ったのだ。ようやく悟った。
「カノン!」
名を呼んだ。引き留めるように。――先ほど、カノンが を呼んでいたのと同じ響きで。
どんなに身を捩っても動けなかった。だからそのまま、耳元で叫ぶ。
「カノン、駄目! あなたが死ぬなんて、そんなの駄目よ! 私は嫌! そんなこと――」
必死の言葉を遮るように、カノンがようやく動いた。 を離し、至近の正面から見据える。 の言葉を奪い取る。
「だったら、そんなことは言うな! もう二度と言うな……!」
最初の時と同じ激しさで、カノンは にくちづけた。深く。
「死なないでくれ。頼む。俺はお前と――!」
その先は聞こえなかった。
二人しかいない静かな宇宙は、突如として真っ白な光に浸食された。皓々とした空隙に呑み込まれ、端から瓦解していく。静かなまま、音もなく。
心と心がなにものにも遮られずふれあうための領域。ここは宇宙の姿を借りた、そのような場所。それがなくなっていく。
だが、終わりだとは思えなかった。もう共感しあえないなどと、そんなことは決してない。なぜなら。
声は聞こえなくとも、その心が、想いが、染み入ってくるのだ。――否。そんな生易しいものではない。
入り込んで来る思惟。流れ出していく情動。止められない。止めようのない奔流。
すべてが渾然一体となる。境界がなくなる。わからなくなる。どこまでが自分? どこからがあのひと?
そんなふうに思いながらも、それは意味のないことなのだとすぐに悟る。
融け合っているのだから。今。こうして。
まさしく忘我。それは至福。陶然となりながら、その意識が誰のものなのかもわからない。
確かに抱き合っていた。その感覚すら薄れてしまった。なにもかもすべてが、眩い光の中に融けていく。
夢のような時間が終わる。
前もそうだった。こうやって光の差す現実の世界へと戻るのだ。
そして初めのあの時と同じなら、ここで交わした想いはきっと消えない。忘れない。そうであるように、切に願った。
通じ合った想いが、心が、真実のものであればいいと。
互いに、同じように思っていた。一つになっているからこそわかった。だからもう、この空間に心残りなどない。
現実の世界で、互いの腕で、二人別々の身体で。今度こそ。
ひとつとなって抱き締めあえることを、心から望むだけ。