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飲料のボトルが大量に入ったカゴを左手に持って、彼は の後ろに立っていた。
筋肉質の長身に長い金髪を無造作に下ろしたままのその男は、 よりは余程この国では目立つこと請け合いだ。しかも鍛え抜かれた身体と、黙っていても醸しだされる戦士の気配は隠しようもない。周囲に与える威圧感は半端ではないだろう。証拠にレジカウンターの向こうの店員の顔色はすっかり青くなってしまっている。
だがその姿は、 の目にはこの窮地に現れたまさに救世主に等しいものとしてしか映らない。
『……ミロ!』
カードを手にしたまま体ごと振り返り、 は突如として現れたミロを見上げた。訝しげだったミロの表情が少しばかり緩む。
『やっぱり だったか。どうしたのだ、こんなところで? 女性が深夜に一人歩きとは感心しないな。しかも、なにやら揉めているようではないか』
こんな時間まで働き詰めだったのだろうに、穏やかな表情で を見下ろす彼に疲れの影は見えない。それがとても頼もしく見えて、 は思わず自分の置かれている現状を素直に訴えてしまった。
『あの、揉めているというか、クレジットカードでの支払いができないなんて信じられないことを言うものだから――』
『ああ』
皆まで言わせず、ミロは事情を悟ったらしい。肩をすくめて苦笑した。
『そうなんだ。この看板の店ではどこもカードは使えないのだ。同じコンビニでも他の店では大丈夫だったのだがな。俺も初めてここに来たときには、それで驚いた』
袋に入れられたまま未だ受け取ることができないカウンターの上の の買い物をちらりと見やり、ミロはその横に自分が持っていたカゴをドサリと置く。
『それでもここが城戸邸から一番近くて便利だから、ついいつも来てしまうのだがな』
そう続けたミロは次に、青い顔をしたまま一言も発することができていない店員ににこやかに話しかける。
「ワタシ、オカネ払う。ワタシの、カノジョの、全部」
単語だけ並べられたたどたどしいミロの日本語を理解するまでに、店員も も数秒かかった。
店員のほうが よりも一瞬先に反応したのは必死度の差だろうか。
「お連れ様とご一緒にお会計ですね? わかりました! ありがとうございます!」
勢い良く答えるやいなや、彼は猛然とミロのカゴからボトルを取り出しレジを通し始めた。
『ミロ!?』
驚いて声を上げれば、ミロはにこりと笑って財布を掲げてみせた。
『深夜手当も入ったことだし、おごらせてもらうよ』
『でも、あの、そんな……』
人におごってもらうなどという事態は、実は にはほとんど経験がない。
そもそも裕福と言っていい家庭に育っている には、どういった経緯であれ人になにかを恵んでもらうような真似は恥ずかしいことなのだという先入観がある。断らなければと思うのに、ピッピッと続くレジの音に焦った はなにも言えなくなってしまった。
そんな の動揺をミロは察したらしい。少々憤慨したように片眉を上げてみせる。
『見くびらないでくれよ? 別にたいした額でもないし、このくらいで痛む懐ではない』
その態度と一言は効果覿面だった。困惑で固まった の心がほぐれる。さらにミロは言う。
『それに、困っている知り合いを見捨てられるほど、俺は薄情ではないぞ?』
こうまで言われてしまっては、 もさすがに折れるしかなかった。自然と口元がほころぶ。
『ありがとうございます。では、お言葉に甘えさせていただきます』
頭を下げれば、ミロは輝くような笑顔を浮かべながら支払いを済ませてくれた。ふと窺い見た店員の顔にも、安堵の表情が浮かんでいる。
店を出るとき、 は深々と店員にも頭を下げたのだった。
***
先程はひとりで歩いた道を、今度はミロと二人で歩く。会話はほとんどないが、それでも夜道にもはや寂しさはない。ただ静かなだけだった。
途中からはミロに先導されて、来た道とは違うルートを通る。公園に足を踏み入れたところでミロはようやく口を開いた。ここを横切った方が早いのだと言う。どうやら深夜の住宅街で声を出すのは遠慮していたらしい。
「それにしても、 」
ミロは後ろをついて来る を振り返った。街頭の灯りの下で足を止める。白い光に照らされたその表情には少しばかりの呆れと非難が浮かんでいた。
「なんだってこんな夜遅くに出歩いたりなどしていたのだ? 初めての場所で、土地勘だってないんだろう? 確かにこの国の治安は悪くはないが、それでも女性が深夜に一人歩きなど、感心できんな。なにかあったらどうするつもりだったのだ? まだ怪我だって完治していないのだろう?」
指摘はもっともだった。返す言葉もない。 は軽く肩をすくめる。治安が良いことはカノンからも青銅聖闘士達からも聞いてはいたが、出るときにそれを気にしたわけではない。職業柄もあって腕には覚えもあるが、言われた通り、今の はまだ怪我人なのだ。
「……すみません」
しゅんとなって謝れば、ミロは少々慌てたように両手を振った。
「いや、別に怒っているわけではないのだが……」
「いえ、おっしゃる通りです。あまりに暇だったのでつい軽々しい行動をしてしまいました。おとなしくしていろと言われていたのに。カノンが戻ってくるまで、待てば良かったわ……」
カノンと聞いて、ミロは唸る。
「今頃カノンの奴、 がいないと慌てているかもしれんな」
「え?」
「まあ慌てているかどうかはともかく、かなり心配していると思うぞ。すっかり遅くなってしまったので、 が一人でどうしているか随分気にしていたようだし」
引っかかる言葉だった。 は眉を寄せる。
「まさか女神様の護衛中に、そんなことを言っていたのですか?」
任務中にそんな瑣末なことに気を取られるなど、プロ失格ではないか。カノンはそういう意味ではプロフェッショナルだと思っていたのに。
すっと冷たくなった の声に、ミロは苦笑を返した。
「いやいや、それこそまさかだ。カノンがそう言ったわけではない。ただ解放された後、随分いそいそと戻って行ってしまったのでな。俺がそう思っただけの話だ」
「………………」
そうですか、と言おうとしてやめた。どんな声が出てしまうのか、 自身にもわからなかったからだ。――否。大体の想像ならつく。だからやめておいたのかもしれない。
「 は」
なぜか立ち止まったまま動こうとせず、ミロは重ねて話しかけてきた。
「カノンとは仲良くやっているのか?」
「――はい?」
質問の意味がまるでわからない。きょとんと聞き返せば、ミロは難しい顔をした。
「いや、まあ、仲良くなかったらこんなにずっと一緒にいるのは嫌になってしまうんだろうから仲はいいのだろうがそういうことではなくて……なんと聞いたらいいんだ……」
クセの強い髪の中に手を突っ込んで、くしゃくしゃとかき混ぜながらミロは唸る。うーんと俯き加減のまましばらくうめいた後、唐突に顔をあげた。ぐいと一歩 に詰め寄る。
「単刀直入に聞こう。―― は、カノンが好きか?」
ひどく真剣な表情だった。 は至近から見つめてくるミロを見返す。言葉には、ひやかしの成分は一切感じられない。眼差しもまた同じだ。
だから素直に頷いた。
「はい」
明瞭な肯定の返事に、ミロの目がわずかに眇められる。
「命の恩人だからとか君の任務のサポートがうまいからだとか内情をよく知っているので頼りやすいとか、そういう理由ではなく、と言う意味だぞ?」
「はい」
「……カノンという人物を、一人の人間として好きかどうかという意味だぞ?」
「はい」
なんだか妙な念押しを二度もされてしまった。それでも は頷いて見せたのだが。
「そうか……」
ミロはそれきり再び俯いてしまった。なにか拙いことでもあるのだろうか。それまでなんとも感じていなかった晩秋の夜風が不意に冷たくなった気がした。肩に羽織ったショールを胸元で掻きあわせても、震えるのを止められない。
がカノンに好意を持っていることに、なにか問題でもあるのだろうか。
「あの……ミロ?」
萎縮しかけている気力をなんとか振り絞る。どうかしましたかと尋ねようとした矢先だった。
手に提げた買い物袋もそのままに、ミロは の肩をはっしと掴む。そのまま引き寄せ、 を強く抱き締める。怪我が治りきっていない背中に瓶が当たって少々痛かったが、それよりも驚きのほうが先に立った。
「ミロ!?」
「ありがとう! ―― 、ありがとう!!」
「??」
なにがなんだかさっぱりわからない。混乱するあまり、 はすっかりフリーズしてしまった。思考も身体もなにもかもが、である。
ハグされたままの耳元で意味不明のギリシャ語を叫ばれたり、まだ少しばかり痛みの残る背中を軽くではあるが叩かれたり、されるがままになることしばし。
抱きついてきた時と同じくらいの唐突さで、ミロは から身体を離した。再び の顔をじっと見つめる。たった今、奇声を上げていたとは思えないほど真面目な顔つきだった。
「……あの……どうかしたのですか?」
ようやく尋ねることができたのに、続く言葉はやはりミロに封じられてしまった。
「良かったよ」
打って変わった、染み入るような静かな声だった。その口元には心からのものだと感じられる笑みが浮かんでいる。
「君が、カノンを好きになってくれて良かった。本当に嬉しいよ」
「……どういうことですか?」
「カノンの過去は、知っているのだろう?」
尋ねる声のトーンが一段落ちた。 は表情を引き締める。
「はい」
「奴は罪人だった」
「……そうですね」
一体ミロはなにを言わんとしているのか。訝りながらも は耳を傾ける。
「だが奴はまた、黄金聖闘士としてアテナを守り、立派にその任を果たした英雄の一人でもある」
「…………」
ついに は相槌を打つのも忘れて押し黙った。その辺の事情は直接カノン本人の口から聞いたわけではないので、大筋と結果を知ってはいても仔細は知らないのだ。
「しかし本人は、そうは思っていないらしい。未だ頑なに信じている――自分はアテナに反旗を翻した、大罪人であると。だからカノンは、今も聖域で自らの犯した罪を償い続けているつもりなんだろう」
カノンの内情など、いくら記憶を共有した であっても推し量ることしかできない。しかしミロの言葉は確かに的を射ているように思えた。
「今や正式な黄金聖闘士として認められた奴を正面切って弾劾するような人間はさすがにいないとはいえ、既に立てられている風評は嫌が応にも耳に入ってくるものだ。だがどんな誹謗中傷が聞こえて来ようとも、奴はそれを諾々と受け入れている。俺のスカーレットニードルをすべて耐え切った、あの時と同じようにな。未だにそのような評価を下されることもまた自らが引き寄せてしまった罰なのだと、そう思っているのかも知れん」
ミロの言う『風評』なら、 でさえちらりと耳にしたことがある。 の耳にまで入ることを、本人が知らないとは考えにくい。なのに怒るでも落胆するでもなく、カノンはあまりにも飄々としていた。受け流しているのではなく受け入れているのだと考えれば、そういった目に晒されてなお崩れない、女神に対するあまりにも頑なな忠誠にも得心がいく。
「確かにカノンのしでかしたことはあまりにも大きな罪だった。その事実は消しようがない。同時に、ハーデスとの聖戦の際には奴の尽力が、アテナの勝利の一因となったこともまた疑いようのない事実だ」
他の黄金聖闘士達と同じく、カノンは自らの命を捨てて、文字通り全身全霊を以って女神に尽くした。犯した罪を命で購ったのだと、そう評価されてもいいはずではある。彼は聖闘士として、確かにその使命を全うしたのだから。
「その証拠に、聖戦が終わってから奴には正式に黄金聖闘士の称号が与えられた。――罪を犯すその前に、かつては心から求めたこともあっただろう、至上の栄誉だ。だが奴はそれを辞退こそしなかったものの、喜ぶこともなかった。勿論、過去や状況を考えれば素直に喜んで見せることなど出来るはずもない。だがあれは、そういう感じではなかった……」
軽く目を伏せ、ミロはその時の光景を脳裏に呼び戻そうとしているようだった。やがて少しばかりの間の後に夜空へ向けた言葉は、確信と懸念に満ちていた。
「あの時の奴が押し隠していたのは喜びなどではなく、戸惑いか、或いは諦念だ」
「……そう……なのですか?」
カノンが上を目指していただろうことは にだって容易に想像がつく。認められたかったはずだ。許されなくとも、受け入れられたかったはずなのだ。サガの影ではない、カノンという個人として。
それらの願いが全て叶った瞬間を見たミロの言葉はあまりにも意外に過ぎた。驚きが顔にも声にも出てしまったことを自覚する。だって仕方がない。さすがに愕然としたのだから。
そんな の気配を悟ったのだろう。ミロは小さく苦笑して、頷いた。
「カノンにとってその称号は――いや、再び与えられた命そのものが、もしかしたら罰と同義だったのかもしれないな。ただ盲従しているように、俺には見えた。汚名をそそぐこともせず、受け入れ続けているのと同じようにな」
ここでついにミロの笑みが消えた。
「それほどにカノンは己の罪を忘れていない。逃げてもいない。己の実力に奢ってもいない。それはそれで素晴らしいことだ。すなわち奴は本当に、真っ当な人間として立ち直ったということなのだろうからな」
言葉の割にはずいぶんと苦々しい表情が気にかかった。まだカノンには疑念を抱かせるなにかがあるとでも言うのだろうか。
「カノンは確かに更生していると思います。彼の女神様に対する忠誠心は本物であることは、傍で見ているだけの私にだってわかります。もうなにも心配するようなことは――」
「ああ、違うんだ。誤解をさせてしまったようだ」
思わずカノンの弁護をしかけた を、ミロは慌てて遮る。
「俺はカノンを信用している。聖闘士としても、ただの人間としてもだ。昔の奴ならともかく、今は本当にいい奴なんだ。――もっとも俺がそう思えるのは、直接奴の真意を確認したからだ。しかし聖域の大多数の人間から見れば今でも奴は、かつて敵だった男なんだ」
わかってはいても、その言葉はやはりずしりと重い。 の耳に入り込んで全身に浸透し、心を暗いところへと沈み込ませた。それでも塞ぐこともできないまま、耳はミロの言葉を取り込み続ける。
「罪そのものは、既にアテナ御自身によって許されている。だからといって人の心まで変えられるわけでもない。奴に押された裏切り者の烙印は、未だ消えずに聖域の人間の中にあるんだ。それを奴はわかっている。わかっているから奴は他の奴らと同じようにカノンという人間を――自分自身を嫌っている」
断定的なその口調は内容と相まって、 をぽかんとさせるのには十分だった。
「嫌っているって……自分を?」
つい聞き返す。同時に、そうかもしれないともちらりと思った。ミロの推測は恐らく正しい。よく見ていると感心する。
その履歴のせいか、カノンの人となりををよく知っている人間があまりいないらしいことなら気づいていたが、まさかミロがその数少ない例外の一人だとは知らなかった。
「カノンのこと、よくおわかりなんですね……」
なんとなく微妙な気分だ。カノンのことならば だってそれなりに理解していると思っていたのだが、まだまだ知らない面があると思うと焦りにも似た苛立ちを感じてしまう。
そんな の複雑な心境をよそに、ミロはどことなく誇らしげに胸を張った。
「ああ。さっきも言ったとおりだ。俺は奴を聖闘士として高く評価しているし、なにより奴のことは人として好きだ。今では親友の一人だとさえ思っている。もっとも、奴が俺をどう思っているのかは知らんがな」
「そうですか……」
「俺はな、 。自分の友が嫌われているという状況がどうにも我慢ならないのだ。だから一人でも奴のことを気にかけてくれる人間がいるとわかると嬉しい。更に、好いてくれているというのならもっと嬉しい」
「……!」
は知らないうちに伏せてしまっていた顔を上げる。目に飛び込んできた暖かな笑みは、背後の街灯に負けないくらい眩しい。見上げるだけの に向かって、ミロは「それに」と続ける。
「ここ最近、カノンはだいぶ変わった。ともすれば自虐的にも見える態度がここのところあまり見られなくなったと俺たち黄金聖闘士の間ではもっぱらの噂なのだが…… は知っていたか?」
唐突な質問に はいいえと首を振る。カノンについての評価が云々というよりはむしろ、そういった話題がミロを始めとした黄金聖闘士たちの間で上がるということにまず驚いた。十二宮の守護者の面々とはそれなりに交流はあるからこそ、そんな噂話のようなものが彼らの口に登る情景などというものの想像がつかない。
少々見当違いな部分に当惑している に向かって、ミロは更に を困惑させる言葉を繰り出した。
「カノンの変化の原因は恐らく―― 、君だ」
「はい……?」
唖然とはこのことだ。すっかり毒気を抜かれて、 は声を無くしてしまった。
「少なくとも俺が話を聞いた全員が、そういう意見を持っているようだ。君と関わるようになってから、明らかにカノンは変わったとな。勿論、俺もそう思っていたよ」
二の句が継げない に向かってニヤリと笑い、ミロは続ける。
「これまで聞いた話では、どうにもカノンの方からの一方通行ではないかとの声しかなかったのでな。一度、 から直接話を聞いてみたかったのだ。いやあ、良かった良かった!」
「……………………」
今度は両肩をぽんぽんと叩かれて、 は非常に微妙な心地を味わった。友を思うミロの暖かな言葉にせっかく胸を打たれていたというのに、これでは台無しではないか。
それだけではない。そもそも が聖闘士という人々に対して抱いていた憧れにも近い信頼の念にヒビが入ったような気がした。――もっとも、聖闘士の最高峰・黄金聖闘士とはそういった話題からは縁遠いものだと が勝手に信じていたのが悪いのだが。
彼らだって人間だ。カノンをよく知って、それは十分に理解していたはずだ。高潔な至高の戦士という存在に、 はまるで少女のように夢を見ていただけなのだ。
一生懸命自分にそう言い聞かせても、まだ一人で喜んでいるミロに半眼を向けるのをやめられない。
「まあ自業自得とは言え紆余曲折あったカノンの奴も、これでやっと報われるというものだな!」
報われたのは彼らの好奇心ではないだろうかと はちらりと思ったが、さすがに口に出すだけの気力は残っていなかった。上機嫌で再び歩き出したミロの後を黙ってついて行く。
それでも夜風はもうさほど冷たくないし、一人ではない夜道も寂しくはない。一歩踏み出すたびに右手にぶら下げたコンビニのレジ袋がかさりと楽しげな音を立てる。それに釣られたのか、いつしか の口元もほころんでいた。
Side-S:17章 Furlough 3/ To Be Continued
後で別ブロクの方に後書きのようなものでも書きます(゚∀゚)
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2013/03/01 後書きを投稿しました。