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帰りついた城戸邸は、すっかり眠りの静寂の中に沈んでいた。
無理もない。居住者のほとんどは明日も朝から学校に行かなければならない少年達なのだから。ミロと はできるだけ静かに通用門をくぐり、邸内へと足を踏み入れる。
物音など立ててもなにぶん広い屋敷のことだ、大して響きはしないだろうが、それでも はなるべく静かに歩を進めた。廊下は煌々と明るく照らされてはいても、静まり返った空間が静粛を強要している。一緒のミロはといえば、なぜだか足音どころか気配までをすっかり消してしまっていた。
そのミロとは与えられた部屋の階が違っていた。途中の踊り場で声のない挨拶を交わして彼と別れ、 は一人階段を上がる。
絨毯の敷き詰められた廊下は足音を響かせることはない。それでもなんとなく息を潜めるようにして部屋へと向かった。
***
「遅かったな」
ノブに手をかける寸前にドアは開いた。同時にかけられた声は少しばかりの険を含んでいる。 は反射的に身を竦ませてしまった。
「ただいま戻りました……」
答える声がつい小声になる。戸口に仁王立ちしているカノンを上目遣いに仰ぎ見れば、表情には明らかな苛立ちが見て取れた。
それでも伸びてきた腕は決して乱暴ではない。 の背を捕え、意外なほど丁寧に室内に招き入れる。部屋に入るやいなや、ドアは再び閉ざされた。
「いつ出かけたんだ? 帰りはミロと一緒だったようだが」
さっきの少々刺々しかった第一声と違って、いつもどおりの声だった。 はほっとする。どうやらミロの言っていたとおり、心配させてしまっていたらしい。素直に謝る。
「一人で出歩いたりして、ごめんなさい」
手にした買い物袋を置く場所を求めて、荷物の置いてある奥の部屋へ向かう。カノンも後ろから付いてきた。
「夜になってもあまり眠くないし、あんまり暇だったものだから、散歩ついでに買い物をしていたの。そうしたらお店でミロと鉢合わせて、それで一緒に帰ってきたの。近道を教えてもらったわ」
「…………」
折角質問に答えたというのに、なぜだかカノンは無言のままだった。おかしい。 の心に緊張が戻る。こういう会話で、カノンが無言を通すときはなにか面白くないことがあるときだ。やはり一人歩きをしたことに怒っているのだろうか。そういえば、まだ怪我人なのだからおとなしくしているようにと言い含められていたのだった。その点についても謝罪が必要なのかもしれない。振り返る。頭を下げた。
「勝手に出かけた上に遅くなってしまってごめんなさい――カノンも遅かったのね。お疲れ様でした」
つい取ってつけたように労いの言葉まで口にしたのは、 に注がれるカノンの眼差しが未だ鋭いままだったからだ。カノンがなにに苛立っているのかわからない。他にも、それほどひどく心配させるような行動をしただろうか?
の言葉が終わっても、カノンはなにも喋らなかった。大して長い時間ではないが、無言の間が痛い。 はしょんぼりと目の前に立つカノンを見上げる。
「あの……カノン? どうしてそんなに」
怒っているの?と尋ねようとして、結局それは叶わなかった。
突然唇を塞がれる。性急な熱い感触に驚いて目を見開いたのは一瞬で、すぐに はまぶたを閉じた。抗うことなどできないのはわかっている。許されないわけではない。そんな隙がないだけだ。案の定、息をつく間もなく腰をぐいと引き寄せられる。指先にぶら下がったままだった買い物袋がはずみでぱさりと落ちた。
抱え上げられながら視界をよぎった時計の針はすでに深夜を回っている。夜はこれからが本番だと告げていた。
長い夜になりそうだ。 は溜息とも吐息ともつかない息を漏らした。
***
子供というのは朝から無駄に元気だ。まったくもって若いというのは羨ましい。
寝不足で重い頭を押さえ、デスマスクは騒音の只中で呻く。同じ部屋の中には階級が違うとは言え、少なくとも同じ聖闘士という称号を与えられた崇高な戦士しかいないはずなのだが、今の彼等はどう見てもただの子供にしか見えなかった。今時のティーンエージャー共に囲まれるのはほとんど拷問に近い。自分がその年頃の頃はこんなに子供ではなかったはずだ。別の方向に突き抜けてはいたかもしれないが、それでもこんな馬鹿騒ぎを繰り広げないだけの分別はあった――多分。
無意識に胸ポケットを探りながら舌打ちした。邸内は客間を除いた全室が禁煙だとわかっていても、煙草を探す癖が抜けない。まったく、通学前からこんなにテンションを上げまくりたくなるほど学校ってのは楽しいところなのか。デスマスクにとっては完全に理解不能の世界だ。
煙草の代わりに、今朝三杯目となるコーヒーをあおる。さすがに美味い。これは東京滞在中の、デスマスクの数少ない楽しみの一つでもある。
ここでのデスマスクは、当たり前だが客扱いではない。表向きは財団が城戸家当主のために私的に雇った臨時ボティガード扱いである。彼等には城戸本邸に部屋が用意され、『食堂』と呼ばれている広い居間で三食が提供されることになっている。勿論好きに買ったものを自室に持ち込むのは勝手だが、デスマスクはアルコール以外はそんなことをする気にはなれない。なにしろこの専属のシェフは年嵩の女性なのだが、なかなかの腕前なのだ。先代からこの屋敷の主の食事をずっと任されているとのことだが、その前には一流の店を渡り歩いて修行したらしいと聞いた。その上、食材も良いものばかり使っている。しかもそれがこの『食堂』では飲み放題、食べ放題――食事は時間が決まっているが、ドリンクはいつでも提供される――なのだから、決して悪い場所ではない。
問題は、ここがこの屋敷に住んでいる青銅聖闘士達の格好の溜まり場となっていることだ。彼らは日本語で会話をしているため、なにを話しているかまではデスマスクにはわからない。それが良いのか悪いのか、笑い声や話し声が癇に障ることはあっても、その内容が気に触ることはない。だからこそ朝から美味いコーヒーと朝飯にありつくために、うるさいガキどもの巣窟に身を置くこともできるのだ。なにより通常業務ではない仕事を終えたばかりの完徹後なのだ。これからまだ本来の任務も残っている。せめてもの補給は必要不可欠だった。
「……もう一杯もらうかな」
できるだけ騒音から逃れようと青銅のガキどもから離れた部屋の隅に陣取ったのには、意外なメリットもあった。つまり、コーヒーのサーバーに程近いということだ。お陰で気軽におかわりを取りに行ける。空になったカップを持って、デスマスクはのろのろと立ち上がった。本気で眠い。
昨夜はどうやらアテナ――ここでは沙織お嬢様と呼ぶべきだろう――も遅くまで天下のグラード財団代表として頑張っていたようだ。お嬢様は毎朝、できるだけ同居人たる青銅聖闘士共と食事を取るべく努力しているらしいのだが、無理を押してまではやって来ない。もうじき朝食の提供が開始される時間だが、未だ姿を見せる気配もない。それはつまり、今日の護衛の任務までにはもう少し時間が空くかもしれないということだ。だったらコーヒーはやめにして、今から部屋に戻って少しでも仮眠をとったほうがいいだろうか?
カップをサーバーに差し入れながらそんなことを考える。ボタンを押すかどうか迷ったときだった。『食堂』のドアが開く音を聞いた。舌打ちが漏れる。ガキどもは既に全員揃っている。ということは、やってきたのは城戸沙織か。
寝てればいいのにと忌々しい気分でボタンを押し、コーヒーをなみなみと注いだ。飲んでおかなければ、仕事にならない。カップを手に振り返ったところで、意気込みが完全に空回りだったことを知る。うっかり熱いコーヒーを取りこぼしかけてしまった程度にはほっとした。
「なんだ、 じゃねえか。おはようさん」
真っ直ぐにコーヒーを取りにやって来た に話しかける。ついでにカップを取って注いでやれば、 は「おはようございます、ありがとう」と律儀に答えて受け取った。
「 は客間に通されてるんだろ? そこには色々揃ってると聞いてるが、なんでわざわざこんな煩いところに?」
「引き篭っていたって仕方ないでしょう? それに夕べもこちらで皆さんと同席させていただきましたし」
さっきと同じ隅っこの席まで を引っ張っていった。おとなしく付いてきた の髪が湿っていることにデスマスクは気づく。
「もしかして、大風呂にでも入ってきたのか?」
城戸邸にはまるで温泉旅館のような大きな風呂がある。男女別に分かれているのがさらに旅館風だ。実際に天然温泉が引かれているわけではないが、それなりに楽しめると風呂好き――聖闘士の中にはどういうわけだか風呂好きが多い――には評判だった。
「はい」
頷く の動作にはどことなく疲れた風情が漂っている。デスマスクは片眉を上げた。なにかが引っかかる。
「なんだ、寝不足か。時差にやられたか?」
「いえ……そういうわけでは」
歯切れの悪い返答はデスマスクの停滞気味だった脳細胞をいたく刺激した。コーヒー3杯にも勝てなかった眠気がいきなり吹っ飛ぶ。それはそれは爽快だった。
「そういや、カノンの奴はどうした?」
尋ねながらも、デスマスクの中では答えはほとんど出ている。あえて訊いたのは好奇心と意地悪の為せる技だ。
「まだ寝ていると思います」
ここで目を逸らすなんて、あまりにも迂闊だろう、 ? 口には出さずに嘲れば、代償のように口元がにやけるのを止められなくなった。デスマスクは更に畳み掛ける。
「 の部屋はシャワー完備なんだろ? なんでわざわざ遠くの風呂に」
「……寝ている人を起こすのは、悪いでしょう?」
「一緒に寝てればいいじゃねえか」
「そういうわけには行きません。定時報告もしなければならないので」
少し考えれば鎌を掛けられているのはわかりそうなものなのに、あくまで生真面目に答えるのは装っているのか、それとも素なのか。これまでの言動から斟酌するに、恐らく後者か。そう結論づけ、デスマスクは更に一歩踏み込んでみることにした。
「否定しないってことはつまり、一緒に寝たわけだ」
「そういうことになりますね」
小さな声で即答した はこれまでに見たこともないような仏頂面だ。デスマスクは自分の読み違えを悟る。
いつもどおり愚直に見えたのは、一人静かに動揺していたからか。どうしようもなくなってつい開き直ってしまった挙句、勝手に狼狽えているのが現状のようだ。今や視線が完全にあさっての方へ向いて、更にそれが忙しなく泳いでいる。
だが、まだだ。デスマスクは攻勢を緩めない。
「で、カノンは爆睡中、対するあんたは寝不足、と。それってつまり、どういうことだ? カノンのイビキが酷くてとか、まさかそんな言い訳はしないよな?」
「………………」
これ以上ボロを出したくないのだろう。ついに黙秘を決め込んで、 は黙ってコーヒーを啜る。だがそれで十分だ。予想通りの答えを引き出せて、デスマスクは満足する。すっかり目も醒めた。いい気分だ。
「俺なんてここんとこ、まさに聖人(セイント)かってくらい真っ当な聖職者ライフを満喫してるっつうのに。羨ましいねぇ」
これみよがしに溜息をついてやれば、 はついにデスマスクから顔を背けてしまった。更に極限まで目を逸らしきり、蚊の鳴くような声で「勝手な妄想はやめてください」と抗議した。
朝食がサーブされ始めると、ただでさえ賑やかだった室内のボルテージは更に一段上がる。
ほとんど騒動と言っていいその状態に唖然としている を尻目に、デスマスクは少年たちの中に突っ込んで行ってしまった。なにやら大人げなく取り合いや言い合いをしている。傍目にも苦々しげな顔をしているというのに、それはなぜかひどく楽しげに見えた。少年達が彼を邪険にしないのは、だからだろうか。
楽しそうではあるが、 には少しばかり近寄り難い雰囲気である。全員が男性であることを差し引いても、 にはあまり経験のない賑々しさだ。どうしても気後れしてしまう。
少し騒ぎが収まってから行こうか。 はしばしの傍観を決め込んだ。その間にもう一杯コーヒーでも、とサーバーの前に佇めば、その肩を叩く手があった。
「おはようございます、 さん」
「瞬くん――おはようございます」
振り向けば穏やかな笑顔があった。向こうで大騒ぎをしている人々とのこの違いは一体どこから来ているというのか。
「あんまりうるさくて、驚いたでしょう? いつもこうなんですよ。前は辰巳さんがいちいち怒鳴りこんできてたんですけど、さすがに最近はいい加減諦めたみたいで。沙織さんが来ないときにはすっかり野放しなんです」
肩をすくめて兄弟たちを見遣る瞬の手には、既に湯気の上がる皿がいくつも載せられたトレイがあった。やはり彼もまた、ほとんど乱闘のようなこの朝食争奪戦を毎朝戦っている猛者であることに変わりはないらしい。
「年頃の男の子なら、あんなものなんでしょうね……」
少々遠い目になってしまった。そういえば昨夜も結構な騒ぎだったが、今ほど酷くはなかった。朝はタイムリミットがあるせいでむしろテンションが上がるのだろうか。首を傾げかけたところで瞬が控えめに申し出てくれた。
「なんでしたら、 さんの分も取ってきましょうか?」
「いいんですか? 時間は大丈夫なのでしょうか?」
いち早く自分の分を確保しているということは、急いでいるからではないのだろうか。そう思って尋ねたのだが、返ってきたのは実に爽やかな返答だった。
「僕は受験生なので、もう部活の朝練もないんです」
生憎 の日本語語彙の中にはブカツとかアサレンなどという単語は含まれていないのだが、文脈から察するにどうやら今は時間的余裕があるということのようだ。ありがたく申し出に甘えることにする。
とはいえ滞在中、毎朝瞬の好意に頼るわけにもいかない。明日からは自力で何とかしなければと、 は瞬の後姿を目で追ったのだった。
Side-S:17章 Furlough 4/ To Be Continued
いきなりすっ飛んだ場面描写でいささか驚かれた方がいらしたとしたら、一応目論見通りということになります。
乗っていただき、どうもありがとうございます(笑)
そして寸止めなのは勿論『仕様』です。
ブログの設定として『アダルトコンテンツを含まない』にチェックを入れておりますのでこれ以上の描写は控えさせていただいております(棒読み)
いや、本当に本当の話なんですけどね。
というわけで、これ以上の需要などございましてもご要望にお答えすることはできませんので、後はご想像にお任せ致します。
お好きにどうぞ(゚∀゚)
下世話な煽りはさておき。
今回、少しばかり悩んだことがあります。
ヒロインの瞬への呼びかけかたについてです。
ヒロインの設定が日本人ではなく、基本的に会話の殆どが英語で行われていると想定していることを踏まえ、これまでストーリー全体を通して基本的には『さん』とか『くん』などは付けないようにしていました。
某かの敬称をつけて呼んでいるだろうと思われる教皇シオンや女神である沙織に向けては『様』等をつけていましたが。
この17章の1話で出した一輝へ向けても、違和感を抱きつつなんとか呼び捨てさせたのですが、今回の瞬だけは強烈な違和感に勝つことがどうにもできず、ついに「瞬くん」呼ばわりさせてしまいました……(´・ω・`)
一音節で終わってしまう名前だからなのか、それともリアルタイム時には瞬しか目に入っていないかのような瞬フリークだったからなのか、どうしても呼び捨てさせることができませんでした(´・ω・`)
今後どうしようかな……